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2010年9月29日 (水)

吉川英治の家めぐり(15)

さて、吉野村の家そのものについてみてみます。

この屋敷については、先年、東京都教育委員会の東京都近代和風建築総合調査の対象となり、調査が行われ、それが「東京都の近代和風建築」(東京都教育委員会 平成21年3月)という冊子になっていますので、ご興味のある方はそちらもご参照下さい。

その調査の際、吉川英治が生活した母屋の建物の建築は明治に入ってからであろうと指摘されました。
私たちは、同じ敷地内の蔵にある棟札に弘化四年(1847)とあることから、母屋もそれに近い時期と考えていたのですが、青梅・奥多摩地区で、江戸時代にはこれほど大規模な住宅はなく、こうしたものが建てられるようになるのは明治に入ってからなのだそうです。
それでも築140年ほどになります。

建物の内部には吉川英治によって改造された部分がいくつかあります。

大きな改変は、玄関を入ると、玄関から右手側にかけて家の内部3分の1くらいが土間であったものを、床をつけて台所と応接間を作ったこと。
かまどのあった部分は現代的な台所にし、応接間の場所には、元々五右衛門風呂があったものを、別の場所に風呂場を設けています。

また、台所脇に新たな勝手口を作り、その先の吉野街道側の塀に、門を設けています。
この屋敷には元々長屋門があるのですが、その門の構えが自分には立派過ぎると言って、こちらの新設した門と勝手口を通常の出入りに使用していたそうです。

ちなみに、門のデザインは吉川英治自身によるもので、門の木戸は雨戸のように一ヶ所にまとめられるようになっています。
というのも、実は門内にガレージがあったため、この門を車が通過するために広く開けるようにしてあるのです。

その先、塀と吉野街道の間の土地は、現在は駐車場になっていますが、元々は梅林となっていました。

現在、書斎の様子を復元しているのは母屋の隣にある離れです。
この離れが洋館風の外観をした変った建物なのですが、吉川英治以前の持ち主が明治時代の中頃に建てたものだと言われています。
外観は完全に洋館ですが、中は畳敷きで炉も切ってあり、床の間風のスペースもあります。
ここに使われている≪本業タイル≫については、以前触れました

タイル同様に貴重なものが、母屋の1階のガラス戸に使用されている古いガラスです。
本格的に工業生産される前の、少しゆがみのあるガラスが、今でも残っています。

今の我々にとってはもちろん、当時移り住んできた吉川英治にとっても、懐かしさと風情を感じさせるものであったでしょう。

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2010年9月28日 (火)

吉川英治の家めぐり(14)

昭和19年3月、吉川英治は一家ともども西多摩郡吉野村柚木、現在の青梅市柚木町に転居します。

一般的に、これを、疎開のために都心を離れたと説明してしまうのですが、それだけでは少々雑です。

今回の企画展「吉川英治の家族と家」では、吉川英治が吉野村の家を購入した際に、仲介した不動産業者に支払った仲介料の領収書を展示しています。
これは先年文子夫人が亡くなった後に遺品の中から出てきたものです。

これによると、不動産の仲介者に対して300円の仲介手数料を払い、その領収書の日付は昭和16年2月14日になっています。
物件本体の売買契約の成立も同日か、その少し前ということになるでしょう。

つまり、吉野村の家は昭和16年の2月までには購入されていたわけです。
実際に転居する3年も前です。

昭和16年12月8日に太平洋戦争が開戦する10ヶ月も前ですから、その時点で疎開のための家を準備したとは思えません。

普段、転居の理由として来館者の方にお話しするのは、「子育てには田舎の方がいい」と考えたから、というもの。
家を購入した時点で、英治と文子の間には長男の英明(昭和13年生れ)と次男の英穂(昭和15年生れ)がいました。
その子供たちが、赤坂のような都心でではなく、どこか田舎で育った方が、のびのびと成長するのではないかと考えていたようです。

それに加えて、英治自身の問題として、自ら地方農村に身を置く生き方をしてみたかったのではないかと、私は考えています。
吉川英治は、自ら会長となって日本青年文化協会という会を起こし、地方農村の青年たちを教化し、地方と都会との格差を埋め、均衡のとれた発展を目指すという活動をしています。
結果的には数年で頓挫することになるこの運動ですが、考え方そのものは英治の中に生きており、戦後にも地方と都市の均衡ある発展を訴えた文章を書いています。
また、戦後になってからのことのようですが、村役場から、住民としての登録を「疎開者」とするか「農」とするかと聞かれて、「農」にしてくださいと答えたという話もあります。

外からではなく、自ら中に入って、農村の人たちとともに生活していきたいという願望があったのではないかと思うのです。

それは、貧しく苦しい青少年時代を送った横浜に代わる「ふるさと」を求める気持ちでもあったでしょうし、あるいは、町育ちの人間の勝手な思い入れというべきものでもあったかもしれません。

しかし、この吉野村の家が、人生でもっとも長く居住した家であったことは事実です。

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2010年9月23日 (木)

吉川英治の家めぐり(13)

もう1回、赤坂表町の家について。

昭和12年に、最初の妻やすと離婚したことに触れました。
この時に、実は吉川英治は2軒の家をやすに譲渡しています。

1軒は既に触れた上落合の家。
もう1軒は柴又の家です。

この柴又の家は、松本昭「吉川英治 人と作品」(昭和59年 講談社)によると、英治の仕事の邪魔をしてはいけないから、園子(英治とやすの養女)と過ごす場所が欲しいと、やすが言い出したため、英治が購入した家です。
それが昭和12年の初めのことのようで、要は離婚の半年ほど前から別居状態にあったことになります。

当然ながら英治はここに住んでいませんので、英治の転居先には含めませんが、そんな家も、英治は所有していたわけです。

さて、最初の妻やすとの離婚が成立して間もなく、英治は再婚をします。
長く当館の館長・名誉館長を勤めた文子夫人です。

結婚した時まだ文子夫人は17歳でした。

当時の吉川家は、前回触れたように邸内に日本青年文化協会や新英社の事務所があり、原稿を取りに来る編集者は集い、様々な来客も絶えない状態でした。
そのため、この若い妻に対し、英治は「君を、そんなところへ、迎え入れるのは、痛々しいよ」と言って、渋谷に文子夫人のための住まいを用意し、しばらくは別居していました。
しかし、弟から「一家の主婦を外に置いておくのはいけない」と言われ、同居を決意したと言います。

吉川英治は、この赤坂表町の家に約8年9ヶ月暮らします。
さらに、この後に住む青梅(旧吉野村)の家には9年5ヶ月暮らします。

それまで頻繁に転居を繰り返したのが嘘のように、この約18年間、たった2軒の家で過ごしているのです。
このことには、文子夫人との再婚によって、心の安定が得られたことが反映しているのでしょう。
また、吉川英治には文子夫人との間に4人の実子がいますが、4人とも、この赤坂表町および吉野村時代に生れています。
それも引越しをしなかったことの一因ではないかと思えます。

当館館長で、吉川英治の長男である吉川英明が、著書の中で、この家を離れることになった日の記憶を書いています。

父の英治から、「英明、この家ともお別れだ。さようならを言いなさい」と言われた英明は、急に悲しくなり、いま出てきた家の門に向かってお辞儀をした途端に泣き出してしまった。
その英明を、「泣く奴があるか、みんなそろって吉野へ行くんじゃないか」とたしなめながら、英治自身の目にも涙が光っていたことをはっきり覚えている、と言うのです。

もちろん、私はただ、遊びなれた家とお別れだと聞いて泣いたのであり、私の大粒の涙と父の目頭に宿った光との間には、かけはなれたものがあったのだろうが、その目を見た時、私はハッとした。同時に父という人にすごく親しみを覚え、甘えたい気持ちになった。

そう吉川英明は書いています。

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2010年9月21日 (火)

吉川英治の家めぐり(12)

芝公園の家はさすがに手狭だったのか、昭和10年6月に当時の赤坂区表町に転居します。

青山通りから少し入った、現在の草月会館の裏手あたりで、道路をはさんで向かいが高橋是清邸(現在は記念公園)という立地でした。
そして、転居先の家は、元官僚で司法大臣、鉄道大臣などを歴任した政治家であった江木翼の旧邸でした。

この家が半焼したこと、それに絡めていかに大きな家だったかについては、ここで以前触れました。

この家は、道路に対して、屋敷の建っている土地が低くなっていたため、玄関を入ると、いきなり階段があってそれを下って行く、という構造になっていました。

当時書生であった田中義一(首相とは別人)が、家の様子を当館の館報に書いています(「吉川英治先生との思い出」)。

赤坂の新居は、表門に沿って少し離れたところにある車庫のベランダが母屋の窓へひろがり、地階が洋館造りの書庫となっていた。家構えは細長く、建物が裏庭に隣接した能楽堂寄りに裏通りへと抜けている。間取り二十数室が数えられたであろうか。「中の間」(来客用)の二階に八畳と六畳の座敷が書斎として使用され、そこで宮本武蔵が起稿された。

この家について、吉川英治は随筆でこう書いています。

都合で、すこし大きな家を借りて移ったら、訪客に会うたびに、家の話が出る、非難するのは知己のほうであるが、お褒め下さる人があるから腐る。文士の家がまえというものは、女の前髪のように大き過ぎるのは気になるものらしい。(略)今の家は、自分が住んでいるのではない、仕事が住んでいるのである。
大きな家におさまって、自分の変化を認めようとするほど、僕はまだ落魄れていない。
この先もそうだし、これまでもそうであったが、どんなボロ家に住もうと、門戸を張ろうと、僕は、家なんていう形の中に住んでいるとは思わない、心のうちに住んでいるつもりである。(「家」)

「大きな家ですね」と言われることに、よほどうんざりしていたのでしょうね。

「仕事が住んでいる」というのは、実際にその通りで、吉川英治は、この自宅に2つの事務所を置いていました。
1つは日本青年文化協会、もう1つは新英社です。

前者は、安岡正篤の影響などから、地方の農村青年を教化し、都市と農村の均衡のとれた文化発展を目指そうという団体で、吉川英治自身が会長となって主宰したもの。
全国から会員を募り、機関誌『青年太陽』を発行していました。

後者は、英治が創業し、弟らに運営させていた出版社。
文学史的には、第1回直木賞受賞作である川口松太郎の「鶴八鶴次郎」の初版本を刊行したことで名を残しています。

しかし、どちらも数年で運営が立ち行かなくなり、解消されてしまいます。
その際に、整理のために相当な額の資金を費やしたそうです。

加えて、この家に住んでいた昭和12年に、とうとう最初の妻やすと離婚することになり、財産を分与してしまったため、世間での名声や、家の見た目とは裏腹に、経済的にはかなり苦しい状況にあったようです。

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2010年9月20日 (月)

アカデミハイク募集継続中

10月2・3日に開催するスタンプハイク=アカデミハイクの参加者募集ですが、まだ定員に余裕があるので、募集を継続しています。

先日、新聞に掲載した広告には9月17日が締め切りとなっていましたが、まだ受け付けております。

詳しくはこちらをご覧下さい。

青梅ミュージアム協議会加盟の5館(玉堂美術館、吉川英治記念館、青梅きもの博物館、御岳美術館、櫛かんざし美術館)を、リーズナブルにまわれるチャンスです。
これらの館に興味はあるけれど、今まで足を運んだことがなかったという方にはおすすめです。

ご応募をお待ちしております。

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2010年9月19日 (日)

吉川英治の家めぐり(11)

芝公園の家は、増上寺の子院の一画を借りたものでした。

吉川英治は随筆の中で「今住んでいる芝公園の家は、仏心院という寺なので」(「木魚と機関車」)と書いていますが、館長の吉川英明がこのことについて以前取材をしており、その話では、現在、最勝院という子院に吉川英治が借家人として住んでいた事を示す書類が残っているそうです。
英治の勘違いでしょうか?

英治はその家につき、「その時住んでいた芝公園の僕の家というのが、所詮、半双の屏風にも席を与えられない程な手狭まなのである」(「鴨と鹿の頭」)と随筆に書いています。
本の置場に困って押入れに突っ込んでおくほどの狭い家だったようです。

新築した二階家の上落合の家を捨てて、なぜわざわざそんな狭い借家に引っ越したのか、と思いもしますが、前回書いたようなことでこじれた夫婦関係を改善するため、あえて、貧しかった昔を髣髴させるような環境に身を置いて、心理的にも体感的にも、お互いの距離を近づけようとしたのかもしれません。

その狭い家には、さして広くもない庭があったのですが、「その狭い庭の隅へ、昨年の夏、親戚の老大工が遊んでいたので、三畳にも足りない書斎を建てた。(略)書斎といっても、書架の置場すらなく、僅かに桑の机一脚、からだ一つがやっとはいるくらいな狭さだ」(「書斎と主人」)という書斎を造っています。

当時、吉川英治の元で書生をしていた人物による回想を当館の館報に連載しましたが(田中義一「吉川英治先生との思い出」)、その中で芝公園の家の様子を書いているので、少し抜き出してみます。

母屋の応接間は六畳ほどで書棚はもとよりテーブルと事務机が置かれてあった。私たちはその部屋を寝室にあてがわれていた。夜半、先生がピーッと原稿用紙をめくりとる音に、しわぶきが時おり聞こえて来るほど書斎に近い。
先生は原稿待ち以外の訪問客にはしばしば書斎でお会いになった。書斎からはみ出した蔵書や寄贈本がいたるところに積み重ねられ汗牛充棟もただならぬ書籍の山に、私は息が詰まる思いだった。
夜半、執筆に備えて先生が調べものをしている書斎へ私がお茶を運ぶと、隣室からやす奥様の声が聞こえてくる。

この芝公園の家に住んだのは昭和6年初めから昭和10年の6月まで。
この時期は、作品の性質が初期の伝奇的作品から変化していく時期にあたります。
それを象徴する作品の一つが、「檜山兄弟」(大阪毎日・東京日日新聞 昭和6年10月20日~7年11月13日連載)ですが、この作品の執筆にあたり、英治に乞われて協力したのが歴史家の服部之総でした。
この服部之総は、実は同じ芝公園14号地に住む≪ご近所さん≫でした。
服部の文章(「吉川さんと私」)によると

当時わたしの借家は芝公園十四号地、プールの横通が大門前の大通と交叉するところに交番がある、その隣だった。吉川さんの家は同じ十四号地の、プールの裏通りを西にすこし入ったところにあった。(略)交番の巡査の話では、当時芝公園で著述業と職業欄に書きこむのは、吉川さんとわたしの二軒だけだったが(略)

という様子だったようです。

服部の作品への協力は「檜山兄弟」のみでしたが、それ以来互いの家を行き来する親しい付き合いをするようになり、英治はその交流から大きな刺激を受けました。

その意味で、芝公園の家は、英治の作家としての次のステップに向けての準備をした場所でもあったと言えるでしょう。

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2010年9月17日 (金)

吉川英治の家めぐり(10)

杉並の2軒の家の後に転居した先が上落合です。

この家については、ここでもご紹介しました。

しかし、わざわざ新築したこの家を、吉川英治は約2年しか住まいとしませんでした。
しかも、その半分近くを、旅の空に過ごしていますので、ほとんどこの家には住まなかったと言っても過言ではありません。

というのも、ご存知の方には有名な≪家出事件≫を起こしたのが、この家に住んでいた昭和5年のことだからです。

吉川英治の「自筆年譜」の昭和5年の項目に、こうあります。

徹夜仕事、飲み歩きなど、不摂生つづく。家事また顧みず、内事複雑、この頃、恐妻家の名をはくす。一夜、万年筆を袂に、ふらふらと女中の下駄をはいたまま家庭を出奔、以後、遠隔の温泉地を転々として家妻の目を避く。(略)四谷の一妓、同じく東京を出奔して尋ねて来、ずるずるべったりに一しょに居る。

このことについて「人生の転機」という随筆で、自ら語っていますが、それによると、ある晩、初めてフグのヒレ酒を飲んで悪酔いしてしまった英治を、四谷にあった「小花」という待合の芸者が介抱し、自宅まで送り届けた、そのことで当時の妻・やすから責め立てられ、これではとても家では執筆ができないと家出をし、しばらく家から離れて仕事に精進しようと思ったところが、その芸者が自分のために家出をしたものと思い、旅先までやって来てしまった、という話になります。

関係者を取材した尾崎秀樹の「伝記 吉川英治」によると、仕事に精進するためと称して家出しておきながら、件の芸者の勤める店に、家出先から度々通っていたそうで、それで芸者の方が勝手にやって来たかのように言うのは、あんまりではないかという気もします。

そんなことで、1年ほど、信州上山田温泉や軽井沢などを転々としながら原稿を書く、という生活を送ります。

最終的には、この芸者とは手を切って、家庭に戻ります。
と同時に、せっかく建てた上落合の家を捨て、芝公園へと転居することになります。

心機一転のつもりだったのでしょう。

さて、そんなことですので、この上落合の家についての描写は、ほとんど見られません。

わずかに、吉川英治全集月報の中に、当時博文館の編集者だった人物が、あることから上落合の吉川邸に借金を頼みに行った際、「二階の書斎にいって財布を持って来られた」という描写から、書斎が2階にあったことがわかります。
また、床の間の桜が芽吹いたという部屋を、「奥の茶屋風の部屋」と描写しています。

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2010年9月16日 (木)

塩屋賢一さん

塩屋賢一さんが去る12日にお亡くなりになっていたことを報道で知りました。

塩屋さんは、報道にもあるように、日本初の国産盲導犬の育成に成功し、以後、その普及に尽力されてきた方です。
その功績に対し、昭和57年、第16回吉川英治文化賞を差し上げています。

平成8年に当館主催で、吉川英治賞30周年の記念講演会を青梅市民会館で行った際、講師としてご講演いただきました。

その時に、お話しになったことで印象に残ったことは、「盲導犬と言うと、犬の方に視点がいってしまう。しかし、自分の仕事は、犬を育てる仕事なのではない。目が見えない方々が安全に外出できるよう手助けをする、自立のお手伝いをしているのだ」ということでした。

また、盲導犬を見かけた時に、「あら、お利口ねぇ」などと犬の方に声をかけるのではなく、その盲導犬を使っている目の不自由な方の方にこそ声をかけて欲しい、ともおっしゃっていました。

何年か前に盲導犬を取り上げた映画がヒットしました。
それによって盲導犬への理解が進んだ面はあると思いますが、同時に、ヒットしたこと自体には、登場する犬が可愛いという感情が影響した部分が大きかったでしょう。

塩屋さんにご講演いただいたのは、それよりも前の話ですが、犬が可愛い、という気持ちではなく、目が不自由な方への思いやりを持って欲しいということを、塩屋さんは訴えておられたわけです。

言葉として普及しているとは言い難い面がありますが、塩屋さんの主宰する団体が東京盲導犬協会から≪アイメイト協会≫に改称したのも、上記のような考え方に立ち、盲導犬という犬ではなく、アイメイト=目の仲間なんだという思いがあったからでしょう。

ご冥福をお祈り申し上げます。

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2010年9月14日 (火)

吉川英治の家めぐり(9)

ここからは吉川英治が作家となってから住んだ家になります。

その作家生活初期の居住地が杉並であったことを、ここここで既に書きました。

そこでいくつか補足的に書いてみます。

吉川英治の「自筆年譜」も、尾崎秀樹の「伝記 吉川英治」も、高円寺の家を飛ばして馬橋の家を千駄木町の家の次に持ってきているということを書きましたが、そのひとつの原因は吉川家の戸籍謄本にあるような気がします。

何度か触れているように、これは関東大震災によって焼失したものを後に再発行したものです。
戸籍謄本自体に

大正拾弐年九月壹日火災ニ罹リ滅失ニ付大正拾五年八月弐拾八日本戸籍再製ス

とあります。
そして、続けて

東京府豊多摩郡杉並町馬橋五百八拾七番地ニ転籍届出大正拾五年九月拾日

となっています。

つまり、関東大震災で焼失した戸籍が復活したのが、実に震災から3年後の大正15年8月28日。
その時点では馬橋に住んでいたので、馬橋の住所で届出をし、高円寺がこぼれ落ちたということでしょう。

さて、その馬橋の家について、新井弘城が吉川英治全集月報に寄せた文章の中で少し触れています。

(略)高円寺の駅をでて、細い商店街をぬけると、電信隊のひろい用地が、東西にながくつづいており、雑草がしげっていました。それを横ぎると、馬橋の住宅街があって、そこに、先生はお住いでした。
玄関の間、中の間をぬけた奥の間が、先生の書斎で、いつもそこでお目にかかりました。(略)
(「“龍虎八天狗”の思い出」より)

間取りがこのくらいでは、そう大きな家ではなかったのでしょう。

新井弘城は当時、博文館の雑誌『少年世界』の編集者として、タイトルにもある「龍虎八天狗」原稿を取りに来ていました。
同様に、当時、東京日日新聞の記者として「鳴門秘帖」の連載に関与していた安成二郎にあてた吉川英治の書簡(大正15年10月5日付)には、初めて自宅を訪ねて来る安成に対して、道案内の地図を手書きで描いています。

今回の企画展「吉川英治の家族と家」では、この安成宛の書簡を展示していますので、吉川英治がどんな案内図を描いたのか興味のある方は、ぜひお運び下さい。

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2010年9月12日 (日)

吉川英治の家めぐり(8)

前回触れた寺島町の家で母親が亡くなる前、英治が一時、当時の関東州・大連に渡っていたことは、ここや、ここで触れました。

大連にいた正確な期間はわかりませんが、数ヶ月というところでしょうか。
普通の人ならば、これは≪滞在≫でしょうが、1年未満での転居もあった英治ですから、これは十分≪居住≫のレベルと言えなくもありません。
そこで、少しだけ、大連にも触れてみます。

尾崎秀樹著「伝記 吉川英治」(講談社 昭和45年)には、大連では「ほとんど大山通りにある日本橋ホテルにこもって過ごした」とあります。
明記はありませんが、この本の執筆時にまだ存命だった弟の晋か英治の最初の妻の赤沢やすから聞いたものでしょう。
と言うのも、英治が大連にいた時に、この両者も大連にいたからです。
英治自身は「自筆年譜」に「安ホテル」としか書いておらず、ホテル名は明記していません。

日本橋ホテルは、その名の通り、大連にあった≪日本橋≫という橋の南側のたもとにあったホテルです。
日本橋の下は川ではなく、大連駅と大連港を結ぶ満鉄の線路が走っていました。
つまり跨線橋です。
たまたま、戦前に大連にお住まいだった方から日本橋ホテルの写った絵葉書(の写真)をいただきました。
私には建築様式がよくわかりませんが、ホテルの建物は屋根のある洋館で、正面右側にドーム型の屋根を持った塔があります。
2階建ての小ぢんまりとしたホテルです。

ここで何もすることがなく、懸賞応募小説を書いていたのかと思うと、なかなか切ないものがあります。

さて、母親の死後、しばらくして、英治はまた転居します。
「自筆年譜」には大正11年の項目に、「家、本郷千駄木町の妹カエの二階へ移る」とあります。

「伝記 吉川英治」によれば、ここに出てきた妹のカエの嫁いだ先の黒田太吉郎という人物の家作を借りて住んだということのようです。
ここに最初の妻となる赤沢やすと、妹のちよとともに暮らしたと言います。

ところで、横浜時代の吉川英治については、本人が書き残した「忘れ残りの記」や様々な随筆くらいしか証言も記録も残っていません。
これが大正時代になると、川柳仲間との交流が生れ、彼らが残した証言なども出てきます。

そんな中に、謎の家があります。

「伝記 吉川英治」は、川柳仲間で、英治が勤務した東京毎夕新聞の同僚であった宮尾しげをの証言を紹介しています。
それによれば、毎夕新聞在社時(大正11~12年)に、新聞社に近い水天宮前の横丁を少し入った八百屋の二階に英治とやすが夫婦で間借りしていたことがあると言うのです。
著者の尾崎は千駄木に転居する前のこととしています。

この何が謎かというと、「伝記 吉川英治」では、宮尾の証言と併記して、このことをやす本人が否定していることを書いているのです。

ただ、頻繁に転居した英治のことですから、やすの方が記憶を混同しているだけで、そこに住んでいたことがあった可能性はあります。
いずれにせよ、千駄木の家も含め、裏付けとなるような公文書や書簡などは残されていません。

ここで何度も名を出した赤沢やすと、婚姻届を出すのは大正12年8月8日で、千駄木の家に居住中のことです。
しかし、千駄木の家に越してきた時点で、既に一緒に住んでいますから、届出前に、既に夫婦としての実態はあったのでしょう。
それが寺島町の頃までさかのぼり得るのかは、はっきりしません。

婚姻届を出してから約1ヶ月で関東大震災が発生、千駄木の家は幸い被災しませんでしたが、英治はこの大惨事を機に新聞社を辞め、専業の作家となる決意をします。
やがて、書斎の場所を求めて千駄木町の家を離れます。

つまり千駄木町の家は作家となる前の英治が最後に住んだ家になるわけです。

ただし、そのため、作家となってからの家のように所在地がはっきりとはせず、また「忘れ残りの記」にも登場しないため、不明な点も多い時代となってしまってもいます。

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2010年9月11日 (土)

アカデミハイク

昨年、文化庁の支援事業として≪アカデミハイク≫というスタンプハイクを実施しました。

今年も、引き続き文化庁の支援を得て、≪アカデミハイク≫を開催することになりました。

詳しくはこちらの専用ページをご覧下さい。

今回、このイベントに対し、同じ青梅市内のJR河辺駅前にある≪河辺温泉 梅の湯≫から、特典をご提供いただきました。

アカデミハイク参加者に対し、入浴料の割引とフェイスタオルの無料レンタルが行われます。

青梅ミュージアム協議会の5館を歩いてめぐり、お帰りの前に天然温泉で汗を流して、すっきりした気分で家路につく、というのはいかがでしょうか。

多くの皆様のご応募をお待ちしております。

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吉川英治の家めぐり(7)

吉川英治の「自筆年譜」の大正3年の項目に、こうあります。

生計の見込みたち、浅草栄久町新堀端に一戸を借家す。出京以来、父母弟妹初めて一つになる。

当時の川柳仲間で、川柳家の脇田梅子は、そのことを川柳仲間に告げた時の英治の嬉しそうな笑顔を忘れられないと、「吉川英治全集」月報に書いています(『雉子郎時代の吉川さん』)。
塚原の元で徒弟をしていた弟はお礼勤めを終え、養女に出した妹を取り戻し、念願叶って家族が一つになったのでした。
家族思いの英治の、その喜びが顔に出ていたのでしょう。

家の様子については

わずか四間だが、小庭もあり、まだ新堀も埋め立てられない頃の柳並木も近く、父も母も、やっとここでは、やや世間なみの暮らしに、ひと息つけたことと思う。(「忘れ残りの記」より)

と書いています。

吉川英治の現存する書簡の最古のものは、この家に住んでいた大正5年7月10日付けのもので、それによりこの時の住所が≪東京市浅草区栄久町18番地≫であったことがわかります。
確実な裏付けのある最古の住所とも言えます。

しかし、ここからも数年で転居し、日本橋浜町三丁目に移ります。

その転居時期について、英治は「自筆年譜」の大正5年の項目に「日本橋区浜町三丁目に移転」と書いています。
ところが、上記の最古の書簡と同じ人物に対し、大正6年の年賀状を≪東京市浅草区栄久町十八番地≫の住所で出しています。
さらに、英治が生涯大切に保管していた母親・いくからの手紙というものがあります。
それは当時、関西旅行中だった英治の泊まっていた宿に自宅から送られたものですが、大正6年1月25日の消印が押され、その発信地は≪東京市浅草区栄久町一八≫になっています。

となると、「自筆年譜」の記述は間違いで、浜町への転居は大正6年の2月以降のこととみるべきでしょう。

一方で、自叙伝「忘れ残りの記」には、「父は大正七年の三月、浜町三丁目の新居で亡くなった」と書いています。
「新居」というからには、記憶の上で、父親が死んだのは転居から間もない頃という印象なのでしょう。

一生涯、平均2年そこそこのペースで引越しをした英治が、転居から1年も経った家を「新居」と表現するとは思えません。
そこで私は、転居は大正6年でも暮れに近い時期だったのではないかと、推測しています。

なお、この家については、「料亭“喜文”の裏門の真向いで、うなぎの寝床みたいな細長い家」と「忘れ残りの記」に書いています。
また、父親が息を引き取った後、「真っ暗な二階に上がって、唯一人で突っ伏していた」とも書いていますので、二階家であったことがわかります。

さて、「自筆年譜」によれば、父親の死の翌年、大正8年に「向島寺島に転居」とあります。

この時の住所が戸籍謄本から≪東京府南葛飾郡寺島町1120番地≫とわかることを、以前ここに書きました。

そこで書いたように、この家で母親のいくが亡くなったと届け出ています。
したがって、その命日、大正10年6月29日時点で、この家に住んでいたのは間違いないでしょうが、転入、転出の時期はわかりません。
また、「忘れ残りの記」には、母親の死についての描写はありますが、家そのものについての描写はありません。

その「忘れ残りの記」は、この母親の死をもって終わっています。
つまり、この寺島町の家までしか、自叙伝には書かれていないことになります。

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2010年9月10日 (金)

吉川英治の家めぐり(6)

吉川家が横浜市吉田町の家に住んでいた時に、吉川英治は一人、苦学の決意で東京に出てきます。

日本基督教会青年部職業紹介所というものを見つけた英治は、そこに数日世話になりながら仕事を紹介してもらい、本所菊川町の螺旋釘工場に勤めることになります。工場の二階が宿舎になっていて、そこに他の工員とともに寝泊りするという生活が始まります。

以前、本所菊川町界隈に当時存在していた螺旋釘工場と言えば当社ぐらいしかなかったので、吉川英治が勤めていたのは当社のことではないかと思うのだが、とおっしゃる方が、記念館に訪ねて来られたことがあります。
しかし、昔のことであるうえ、関東大震災を経ているということもあり、確たる証拠がなく、その会社と特定することはできませんでした。

苦学、つまりは、働きながら学問をするという希望を持っていた英治は、この螺旋釘工場ではそれは叶わないと判断し、数ヵ月後には手提金庫の工場に移ります。ここでも、工場に住込みでした。
工場の社長は、英治の苦学の決意に理解を示し、保証人にもなってやるとまで言ってくれたのですが、肝心の英治の方が、度々送られてくる母親の手紙から透けて見える一家の窮乏などを考慮して、苦学よりも実家の家計を救う道の方を選んでしまいます。

結局、この工場も数ヶ月でやめ、工場の同僚の口利きで、浅草三筋町に住む塚原という人物の家に徒弟として住込むことになります。
塚原は会津蒔絵の職人で、その技術を生かして輸出用の金属象嵌製品を製作する仕事をしていました。

その家の様子は

開盛座という芝居小屋があり、その近くの路地を入った四軒長屋の一番奥で、四畳半に六畳の二間きり。師弟二人の男世帯、工房はその六畳で、漆を扱う小机ほどな定盤と、蒔絵筆さえあれば足る至極ちんまりした仕事である。(「忘れ残りの記」より)

というものでした。

英治が塚原の元にいる間に、吉川家は横浜から東京に出てきます。
最初に住んだのは本所緑町のガード下で、すぐに本所番場町に移り、さらに吉原の通称≪おはぐろ溝≫のそばに転居しています。

さて、英治はおよそ2年で塚原の元から独立し、自分で仕事を受け始めるようになります。
その時に住んだのは下谷西町で、家族とも離れ、他に住込み仲間がいるわけでもない、一人暮らしでした。

その家についてこう書いています。

東京で初めて、自分の畳として持ちえたぼくの根じろは、下谷西町の髪結さんの二階であった。梯子段の上がり口が三畳、襖隣りが八畳である。だが、ぼくが借りたのは三畳の方だけで、八畳の方には、落語家の夫婦者が住んでいた。(「忘れ残りの記」より)

英治は、上京後、かねて新聞や雑誌に投稿していた川柳の世界で一目置かれるようになり、井上剣花坊の主宰する柳樽寺川柳会に参加し、川柳家として活動するようになります。
その仲間の川上三太郎や師匠の井上剣花坊なども、この家を訪ねて来たと書いています。
しかし、そういう仲間たちと、遊郭通いなどの悪い遊びをするようになり、これでは何のために独立したのかわからないと、一人暮らしをやめ、上記の≪おはぐろ溝≫の家で家族と同居することにします。

その≪おはぐろ溝≫の家の様子は「しもたやみたいな周旋屋の二階の六畳二間を借りた」と書いています。

ちなみに、英治の母・いくは父・直広との間に英治を含む10人の子を設けています。
そのうち4人は横浜時代に亡くなっており、この時存命だったのは6人。
6人のうち、弟の素助は英治が徒弟をしていた塚原の元で同様に徒弟として住込んでおり、妹のカエは養女という名目で奉公に出されていましたから、この六畳二間には両親に兄弟4人の6人が住んでいたことになります。

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2010年9月 9日 (木)

英治忌のお礼

今年も、どうにかつつがなく英治忌を終えることができました。

当日は約250名の方にご来館いただきました。ありがとうございました。

また、厳しい残暑の中、お茶席を開いていただいた裏千家淡交会桑都青年部の皆様、その他お手伝い下さったスタッフの方々には、大変感謝いたしております。

ひとつだけ残念だったのは、お客様のお一人が庭内で転倒され、頭を打たれて、病院に運ばれることになったことです。
意識もはっきりしていて、とりあえずは大事とはなりませんでしたが、大変申し訳なく思っております。
回復されたら、ぜひ再訪していただきたいと、願っております。

暑すぎる一日でしたが、もし1日ずれていたら、雨になっていたところで、その点では、まだ幸運だったのかとも思っています。
とりあえず、熱中症になるスタッフもいませんでしたし。

私がこの吉川英治記念館に勤め始めた頃は、英治忌が年間の唯一のイベントで、1年がこの日を中心に回転していたようなものでしたが、その後、年間の企画展の回数を増やし、落語会や吉川英治賞受賞者を囲むひとときや文学散歩といったイベントも開くようになりました。

それでもやはり、英治忌は特別なイベントです。

来年もよろしくお願いいたします。

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2010年9月 6日 (月)

明日は英治忌です

明日9月7日は吉川英治の命日です。
毎年この日には吉川英治記念館で≪英治忌≫という催しを開いています。

先日も書いたように、昨年、曜日の都合で1日前倒しして9月6日に開催したため、混乱しておられる方がいらっしゃるようですが、今年は日付け通りに開催します。
前日になって申し訳ありませんが、お間違えのないよう、ご注意下さい。

逆に、今はじめて英治忌というものを知ったとおっしゃる方、別に堅苦しい法要などではありませんので、よろしければ気軽にお運び下さい。

通常はお上がりいただけない母屋で自由参加のお茶席が開かれたり、庭で樽酒の振る舞いなどもいたします。

入館時間は10時から16時30分(閉館は17時)です。

ご来場をお待ちしております。

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2010年9月 5日 (日)

吉川英治の家めぐり(5)

次に転居したのは、吉田町。
その吉田町の家については、ここで詳しく触れました。

そこでも書いたように、この家の住所「横浜市吉田町弐丁目五拾八番地」は、吉川英治の戸籍謄本に記載されている住所です。
これが、吉川英治が「忘れ残りの記」や『自筆年譜』で、横浜時代に住んだと言っている家の中で唯一、公的な裏付けのある住所ということになります。

ただし、リンク先でも触れたように、この住所が書かれた戸籍謄本は関東大震災で失われた戸籍を再発行したものであり、大正12年の関東大震災の時点では、実際に吉田町に住んでいた時代からは14年ほど経っていますので、本当に正確なのかは判然としません。

最近、「開港一五〇年 横浜近郊吉田町の研究」(高橋ヒデ子 金沢古文書を読む会発行 2008年)という本を見つけました。
そこに、明治から昭和にかけて吉田町にあった商店が住所とともに紹介されています。

それによると、明治31年時点では吉田町2-58には永井貞孝が経営する売薬並びに化粧品商の永進堂が存在しています。
それが、明治43年時点では永井貞孝の永進堂は吉田町1-2に移転しており、2-58には該当者がいません。
つまり、商店ではなかったということでしょう。
さらに、大正7年時点では吉田町2-58には雑貨売買の山田商店があり、この店の創業が大正2年3月となっています。

ということは、吉田町2-58には、少なくとも明治43年から大正2年初めまでは商店はなかったと推測できます。

『自筆年譜』にしたがえば、明治42年に吉田町に転居し、明治45年、前々年に上京した英治を追うように一家も東京に出てきます。
ちょうど商店がない空白の時期に当てはまります。

そこからすると、この商店の空白期に、そこに吉川家が住んでいた可能性はあるでしょう。

いま書いたように、吉川英治は、横浜ドックでの事故をきっかけとして、父親を説得して一人東京に苦学の決意で上京します。
したがって、吉田町の家が英治にとっては横浜時代最後の家になります。

ただし、「忘れ残りの記」によれば、英治の上京後に実家は吉田町から高島町に転居しています。
この高島町の家には、英治は同居していませんし、また訪ねてもいません。
英治の存命中の吉川家(両親の住む家)のうちで、唯一、一度もその姿を見てもいない家になります。

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2010年9月 4日 (土)

英治忌について

吉川英治記念館では毎年、吉川英治の命日に、英治忌という催しを開いております。

昨年は、命日の9月7日が、館の定休日の月曜日にあたったため、1日繰り上げて9月6日に開催しました。
そのため、今年の英治忌は何日なのかというお問合せを多数いただいております。

告知が足りず申し訳ありませんでしたが、今年は日付通りの9月7日(火)に開催します

明日ではありません。

直前で申し訳ありませんが、お間違えのないようお気をつけ下さい。

よろしくお願いいたします。

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吉川英治の家めぐり(4)

実家が転居した先は尾上町というところ。
その立地については、以前ここで書きました。

そこでは引用しなかった「忘れ残りの記」の記述をご紹介します。

家はその間、関内の尾上町二丁目に引っ越していた。大通りに面した三間半間口の店舗で、屋根看板に「日進堂」と大きく、わきに「全国諸新聞広告取扱」としてあった。
父はこの店を、前経営者の奥田某氏から顧客附き負債附きの居抜きで譲りうけたらしい。

結局、父親は昔世話をした人物の好意で、再起したものの、相場に手を出して失敗するなどの結果、この尾上町の店舗を手放し、またしても西戸部に舞い戻る羽目になります。

その西戸部の中でも、家賃の滞納や父親のわがままもあって、2度ほど転居を繰り返したようです。
その末にたどり着いたのが、俗に≪看視長屋≫と言われた家です。
「忘れ残りの記」にこうあります。

雨の日、探しあてて、やっとどうやら借りえた家は、崖やぶ斑らな中段に細長く建て並んでいる掘井戸のそばの一軒だった。
長屋の名を「看視長屋」というのは、住んでから後で知った。戸部監獄があったむかし、看視が住んでいた所から起こった名だそうである。およそ形容詞は要るまいと思う。

「およそ形容詞は要るまいと思う」とは、最低ランクの家だったということでしょう。

ちなみに、「忘れ残りの記」本文では以上のような順番になりますが、これが『自筆年譜』になると

明治38年 西戸部蓮池→明記のない引越し先(戸部?)
明治39年 横浜尾上町
明治40年 戸部→日出町の続木商会へ住込み
明治41年 続木商会横須賀支店に異動→横浜の家(戸部?)に戻る

という流れになっていて、続木商店に住込んだ時期が尾上町の後になっています。

いろいろ推理してみることは出来ますが、結局のところ、英治がそう書いているというだけで、裏付けになるものがありませんので、どちらが正しいとも言い切れません。

いずれにせよ、一時的に持ち直した尾上町時代をはさんで、西戸部の細民街で苦しい生活を送ったというのが、基本的な流れなのでしょう。

その二度目の西戸部時代、英治は保土ヶ谷の建設現場で土工をした後、年齢を偽って横浜ドックの船具工になります。
また、この間に、口減らしのために奉公に出された妹の浜子が、奉公先で病を得たため実家に帰され、わずか9歳で亡くなるという悲劇もありました。

そんな中、英治本人には不明な理由で金が入り、次にちょっと大きな家に転居することになります。

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2010年9月 3日 (金)

吉川英治の家めぐり(3)

自叙伝「忘れ残りの記」の本文にしたがうと、前回触れた西戸部の家に住んでいた時に、自分で住込みの仕事を見つけてきて、家を出たということになっています。

その住込みの仕事先は続木商店という食品や雑貨を扱う店で、一般向けの小売より海軍への物品の納入が主力の店だった、当初は日の出町にある本店で、後に横須賀にある支店に勤務した、ということを英治は書いています。

本店時代の出来事として、ある日、弟が店に現れ、「昨日から家中何も食べてない」と訴えた、という話を書いています。
慌てた英治は、たまたま店の主人の老母に按摩をして貰った5銭銅貨を弟に渡し、自分は店で扱っていた牛缶を給金の前借として持ち出し、実家に届けた。その途中、蕎麦屋に立ち寄って、かけ蕎麦の出前を頼み、それでなんとか一家の命は救われたが、英治自身は金を持ち合わせていないし、家にも金はないので(だから何も食べていないわけですから)、その後、蕎麦屋の出前持ちが毎日実家に代金を請求しにやって来て困った、という話です。

支店時代は、主人夫妻がいない分、本店よりは自由がきいたようで、父親から送られてきた俳句の雑誌を読みふけったり、新聞や雑誌の投稿欄に投句したりということが出来たようです。

その頃の思い出として書いているのは、軍艦新高への商品の搬入のことです。
海軍御用達の商店ですから、横須賀の軍港に停泊する軍艦はお得意先です。
その中でも新高の酒保に行くのは愉しかったと書いています。

ある時、一人で新高へ使いに行ったところ、新高は出港準備をしていた。このまま船のどこかに隠れていたら外国へ行ける、などという空想にふと駆られ、それを実行しかけたが、船員に見つかってつまみ出された、という話を書いています。

考えてみると、港町・横浜で生まれ、父親は桟橋会社を経営していたことがあり、外国の船員を父親が自宅に連れて来たこともあるという環境に育っている割には、貧困などの自分の抱えている現実を打破するために、あるいは逃避するために、意識を海外へ向ける、ということが、吉川英治にはあまりないように思えます。

そんな中で、この時ばかりは、どこか遠くで人生をリセットしたい、というような気持ちになったのでしょうか。

もし本当に密航して、世界を放浪したりしていたら、どんな作家になったのだろうか、後年、「嫌いだ」とはっきり随筆にも書いている林不忘のようなタイプになっていたんじゃないか、などと妄想したりしてしまいます。

なお、家として見た場合、その様子のわかる描写は「忘れ残りの記」には残念ながらありません。
明治時代の商家であるというところから、想像してみるしかありません。

さて、「忘れ残りの記」によれば、英治が続木商店にいるうちに、実家には転機が訪れ、西戸部から引越しをしています。
そして、英治は続木商店から暇を出され、その実家に戻ることになります。

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2010年9月 1日 (水)

吉川英治の家めぐり(2)

さて、吉川英治の裕福な子供時代は、父親の事業の失敗によって、終わりを迎えます。
英治は、小学校を中退させられ、奉公に出されてしまいます。

その奉公先には、もちろん住込みなので、まあ、引越し先とは言えないまでも、生活した家の一つではあります。
その様子は、以前こちらで触れましたので、ここでは省きます。

英治が奉公先に住込んでいるうちに、ついに持ちこたえられなくなって、実家は昨日の清水町の家から、西戸部の細民街に転居します。

しばらくして英治は、奉公先で疎まれ、実家へ帰されてしまいます。
その際に初めて見た新しい実家の印象をこう書いています。

藪やら古い池の残痕やらを繞って安っぽい借家がぽつぽつ建て混み初めて来たといった風な場末であった。その一軒の格子先に、紛うなきわが家の標札を見つけたとき、ぼくはこれがわが家かと疑った。(略)
家はたったの三間ほどであった。以前の家庭にあったような家具や飾りは何一つ見当たらない。(略)奥の六畳にまだおむつの要る妹が蒲団にころがってい、狭い裏庭の外に物干竿へ洗い物を懸けている母の後ろ姿があった。

奉公先から追い出された英治がたどり着いた実家には、父親の姿はありませんでした。
事業上の問題から裁判沙汰となり、最終的に投獄されてしまっていたのです。

もっとも、「忘れ残りの記」を読んでも正確な期間はわかりませんが、それほど長くはない期間で、父親は出獄します。

しかし、獄中で体調を崩した父親は働くことができず、それでいて酒は飲むので、家計は悪化し、同じ西戸部のより手狭な家に引っ越すことになります。

吉川英治は、家が困窮して食べる物がなく、ひそかに他人の畑の芋を盗んできて食いつないだという話を、「忘れ残りの記」だけでなく、いくつかの随筆にも書いていますが、「忘れ残りの記」の記述に従うならば、それはこの西戸部の家に住んでいた頃ということになります。

貧しさも貧しさであるし、思春期に入って父親との軋轢も生れてくる。
そんな中で、家を出ようと考えた英治が、自ら見つけてきた仕事が、日の出町にあった続木商店の住込み店員で、ここで再び実家から離れることになります。

と言うのが「忘れ残りの記」における流れです。
細かいことは後に触れますが、これが、本人が書いた「自筆年譜」によると、時期が全く食い違っていて、どちらを信用すべきなのか分からなくなります。

とりあえずは、「忘れ残りの記」優先で話を進めてみます。

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