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2010年9月11日 (土)

吉川英治の家めぐり(7)

吉川英治の「自筆年譜」の大正3年の項目に、こうあります。

生計の見込みたち、浅草栄久町新堀端に一戸を借家す。出京以来、父母弟妹初めて一つになる。

当時の川柳仲間で、川柳家の脇田梅子は、そのことを川柳仲間に告げた時の英治の嬉しそうな笑顔を忘れられないと、「吉川英治全集」月報に書いています(『雉子郎時代の吉川さん』)。
塚原の元で徒弟をしていた弟はお礼勤めを終え、養女に出した妹を取り戻し、念願叶って家族が一つになったのでした。
家族思いの英治の、その喜びが顔に出ていたのでしょう。

家の様子については

わずか四間だが、小庭もあり、まだ新堀も埋め立てられない頃の柳並木も近く、父も母も、やっとここでは、やや世間なみの暮らしに、ひと息つけたことと思う。(「忘れ残りの記」より)

と書いています。

吉川英治の現存する書簡の最古のものは、この家に住んでいた大正5年7月10日付けのもので、それによりこの時の住所が≪東京市浅草区栄久町18番地≫であったことがわかります。
確実な裏付けのある最古の住所とも言えます。

しかし、ここからも数年で転居し、日本橋浜町三丁目に移ります。

その転居時期について、英治は「自筆年譜」の大正5年の項目に「日本橋区浜町三丁目に移転」と書いています。
ところが、上記の最古の書簡と同じ人物に対し、大正6年の年賀状を≪東京市浅草区栄久町十八番地≫の住所で出しています。
さらに、英治が生涯大切に保管していた母親・いくからの手紙というものがあります。
それは当時、関西旅行中だった英治の泊まっていた宿に自宅から送られたものですが、大正6年1月25日の消印が押され、その発信地は≪東京市浅草区栄久町一八≫になっています。

となると、「自筆年譜」の記述は間違いで、浜町への転居は大正6年の2月以降のこととみるべきでしょう。

一方で、自叙伝「忘れ残りの記」には、「父は大正七年の三月、浜町三丁目の新居で亡くなった」と書いています。
「新居」というからには、記憶の上で、父親が死んだのは転居から間もない頃という印象なのでしょう。

一生涯、平均2年そこそこのペースで引越しをした英治が、転居から1年も経った家を「新居」と表現するとは思えません。
そこで私は、転居は大正6年でも暮れに近い時期だったのではないかと、推測しています。

なお、この家については、「料亭“喜文”の裏門の真向いで、うなぎの寝床みたいな細長い家」と「忘れ残りの記」に書いています。
また、父親が息を引き取った後、「真っ暗な二階に上がって、唯一人で突っ伏していた」とも書いていますので、二階家であったことがわかります。

さて、「自筆年譜」によれば、父親の死の翌年、大正8年に「向島寺島に転居」とあります。

この時の住所が戸籍謄本から≪東京府南葛飾郡寺島町1120番地≫とわかることを、以前ここに書きました。

そこで書いたように、この家で母親のいくが亡くなったと届け出ています。
したがって、その命日、大正10年6月29日時点で、この家に住んでいたのは間違いないでしょうが、転入、転出の時期はわかりません。
また、「忘れ残りの記」には、母親の死についての描写はありますが、家そのものについての描写はありません。

その「忘れ残りの記」は、この母親の死をもって終わっています。
つまり、この寺島町の家までしか、自叙伝には書かれていないことになります。

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