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2010年9月 5日 (日)

吉川英治の家めぐり(5)

次に転居したのは、吉田町。
その吉田町の家については、ここで詳しく触れました。

そこでも書いたように、この家の住所「横浜市吉田町弐丁目五拾八番地」は、吉川英治の戸籍謄本に記載されている住所です。
これが、吉川英治が「忘れ残りの記」や『自筆年譜』で、横浜時代に住んだと言っている家の中で唯一、公的な裏付けのある住所ということになります。

ただし、リンク先でも触れたように、この住所が書かれた戸籍謄本は関東大震災で失われた戸籍を再発行したものであり、大正12年の関東大震災の時点では、実際に吉田町に住んでいた時代からは14年ほど経っていますので、本当に正確なのかは判然としません。

最近、「開港一五〇年 横浜近郊吉田町の研究」(高橋ヒデ子 金沢古文書を読む会発行 2008年)という本を見つけました。
そこに、明治から昭和にかけて吉田町にあった商店が住所とともに紹介されています。

それによると、明治31年時点では吉田町2-58には永井貞孝が経営する売薬並びに化粧品商の永進堂が存在しています。
それが、明治43年時点では永井貞孝の永進堂は吉田町1-2に移転しており、2-58には該当者がいません。
つまり、商店ではなかったということでしょう。
さらに、大正7年時点では吉田町2-58には雑貨売買の山田商店があり、この店の創業が大正2年3月となっています。

ということは、吉田町2-58には、少なくとも明治43年から大正2年初めまでは商店はなかったと推測できます。

『自筆年譜』にしたがえば、明治42年に吉田町に転居し、明治45年、前々年に上京した英治を追うように一家も東京に出てきます。
ちょうど商店がない空白の時期に当てはまります。

そこからすると、この商店の空白期に、そこに吉川家が住んでいた可能性はあるでしょう。

いま書いたように、吉川英治は、横浜ドックでの事故をきっかけとして、父親を説得して一人東京に苦学の決意で上京します。
したがって、吉田町の家が英治にとっては横浜時代最後の家になります。

ただし、「忘れ残りの記」によれば、英治の上京後に実家は吉田町から高島町に転居しています。
この高島町の家には、英治は同居していませんし、また訪ねてもいません。
英治の存命中の吉川家(両親の住む家)のうちで、唯一、一度もその姿を見てもいない家になります。

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