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2010年9月 4日 (土)

吉川英治の家めぐり(4)

実家が転居した先は尾上町というところ。
その立地については、以前ここで書きました。

そこでは引用しなかった「忘れ残りの記」の記述をご紹介します。

家はその間、関内の尾上町二丁目に引っ越していた。大通りに面した三間半間口の店舗で、屋根看板に「日進堂」と大きく、わきに「全国諸新聞広告取扱」としてあった。
父はこの店を、前経営者の奥田某氏から顧客附き負債附きの居抜きで譲りうけたらしい。

結局、父親は昔世話をした人物の好意で、再起したものの、相場に手を出して失敗するなどの結果、この尾上町の店舗を手放し、またしても西戸部に舞い戻る羽目になります。

その西戸部の中でも、家賃の滞納や父親のわがままもあって、2度ほど転居を繰り返したようです。
その末にたどり着いたのが、俗に≪看視長屋≫と言われた家です。
「忘れ残りの記」にこうあります。

雨の日、探しあてて、やっとどうやら借りえた家は、崖やぶ斑らな中段に細長く建て並んでいる掘井戸のそばの一軒だった。
長屋の名を「看視長屋」というのは、住んでから後で知った。戸部監獄があったむかし、看視が住んでいた所から起こった名だそうである。およそ形容詞は要るまいと思う。

「およそ形容詞は要るまいと思う」とは、最低ランクの家だったということでしょう。

ちなみに、「忘れ残りの記」本文では以上のような順番になりますが、これが『自筆年譜』になると

明治38年 西戸部蓮池→明記のない引越し先(戸部?)
明治39年 横浜尾上町
明治40年 戸部→日出町の続木商会へ住込み
明治41年 続木商会横須賀支店に異動→横浜の家(戸部?)に戻る

という流れになっていて、続木商店に住込んだ時期が尾上町の後になっています。

いろいろ推理してみることは出来ますが、結局のところ、英治がそう書いているというだけで、裏付けになるものがありませんので、どちらが正しいとも言い切れません。

いずれにせよ、一時的に持ち直した尾上町時代をはさんで、西戸部の細民街で苦しい生活を送ったというのが、基本的な流れなのでしょう。

その二度目の西戸部時代、英治は保土ヶ谷の建設現場で土工をした後、年齢を偽って横浜ドックの船具工になります。
また、この間に、口減らしのために奉公に出された妹の浜子が、奉公先で病を得たため実家に帰され、わずか9歳で亡くなるという悲劇もありました。

そんな中、英治本人には不明な理由で金が入り、次にちょっと大きな家に転居することになります。

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