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2010年9月10日 (金)

吉川英治の家めぐり(6)

吉川家が横浜市吉田町の家に住んでいた時に、吉川英治は一人、苦学の決意で東京に出てきます。

日本基督教会青年部職業紹介所というものを見つけた英治は、そこに数日世話になりながら仕事を紹介してもらい、本所菊川町の螺旋釘工場に勤めることになります。工場の二階が宿舎になっていて、そこに他の工員とともに寝泊りするという生活が始まります。

以前、本所菊川町界隈に当時存在していた螺旋釘工場と言えば当社ぐらいしかなかったので、吉川英治が勤めていたのは当社のことではないかと思うのだが、とおっしゃる方が、記念館に訪ねて来られたことがあります。
しかし、昔のことであるうえ、関東大震災を経ているということもあり、確たる証拠がなく、その会社と特定することはできませんでした。

苦学、つまりは、働きながら学問をするという希望を持っていた英治は、この螺旋釘工場ではそれは叶わないと判断し、数ヵ月後には手提金庫の工場に移ります。ここでも、工場に住込みでした。
工場の社長は、英治の苦学の決意に理解を示し、保証人にもなってやるとまで言ってくれたのですが、肝心の英治の方が、度々送られてくる母親の手紙から透けて見える一家の窮乏などを考慮して、苦学よりも実家の家計を救う道の方を選んでしまいます。

結局、この工場も数ヶ月でやめ、工場の同僚の口利きで、浅草三筋町に住む塚原という人物の家に徒弟として住込むことになります。
塚原は会津蒔絵の職人で、その技術を生かして輸出用の金属象嵌製品を製作する仕事をしていました。

その家の様子は

開盛座という芝居小屋があり、その近くの路地を入った四軒長屋の一番奥で、四畳半に六畳の二間きり。師弟二人の男世帯、工房はその六畳で、漆を扱う小机ほどな定盤と、蒔絵筆さえあれば足る至極ちんまりした仕事である。(「忘れ残りの記」より)

というものでした。

英治が塚原の元にいる間に、吉川家は横浜から東京に出てきます。
最初に住んだのは本所緑町のガード下で、すぐに本所番場町に移り、さらに吉原の通称≪おはぐろ溝≫のそばに転居しています。

さて、英治はおよそ2年で塚原の元から独立し、自分で仕事を受け始めるようになります。
その時に住んだのは下谷西町で、家族とも離れ、他に住込み仲間がいるわけでもない、一人暮らしでした。

その家についてこう書いています。

東京で初めて、自分の畳として持ちえたぼくの根じろは、下谷西町の髪結さんの二階であった。梯子段の上がり口が三畳、襖隣りが八畳である。だが、ぼくが借りたのは三畳の方だけで、八畳の方には、落語家の夫婦者が住んでいた。(「忘れ残りの記」より)

英治は、上京後、かねて新聞や雑誌に投稿していた川柳の世界で一目置かれるようになり、井上剣花坊の主宰する柳樽寺川柳会に参加し、川柳家として活動するようになります。
その仲間の川上三太郎や師匠の井上剣花坊なども、この家を訪ねて来たと書いています。
しかし、そういう仲間たちと、遊郭通いなどの悪い遊びをするようになり、これでは何のために独立したのかわからないと、一人暮らしをやめ、上記の≪おはぐろ溝≫の家で家族と同居することにします。

その≪おはぐろ溝≫の家の様子は「しもたやみたいな周旋屋の二階の六畳二間を借りた」と書いています。

ちなみに、英治の母・いくは父・直広との間に英治を含む10人の子を設けています。
そのうち4人は横浜時代に亡くなっており、この時存命だったのは6人。
6人のうち、弟の素助は英治が徒弟をしていた塚原の元で同様に徒弟として住込んでおり、妹のカエは養女という名目で奉公に出されていましたから、この六畳二間には両親に兄弟4人の6人が住んでいたことになります。

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