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2010年9月12日 (日)

吉川英治の家めぐり(8)

前回触れた寺島町の家で母親が亡くなる前、英治が一時、当時の関東州・大連に渡っていたことは、ここや、ここで触れました。

大連にいた正確な期間はわかりませんが、数ヶ月というところでしょうか。
普通の人ならば、これは≪滞在≫でしょうが、1年未満での転居もあった英治ですから、これは十分≪居住≫のレベルと言えなくもありません。
そこで、少しだけ、大連にも触れてみます。

尾崎秀樹著「伝記 吉川英治」(講談社 昭和45年)には、大連では「ほとんど大山通りにある日本橋ホテルにこもって過ごした」とあります。
明記はありませんが、この本の執筆時にまだ存命だった弟の晋か英治の最初の妻の赤沢やすから聞いたものでしょう。
と言うのも、英治が大連にいた時に、この両者も大連にいたからです。
英治自身は「自筆年譜」に「安ホテル」としか書いておらず、ホテル名は明記していません。

日本橋ホテルは、その名の通り、大連にあった≪日本橋≫という橋の南側のたもとにあったホテルです。
日本橋の下は川ではなく、大連駅と大連港を結ぶ満鉄の線路が走っていました。
つまり跨線橋です。
たまたま、戦前に大連にお住まいだった方から日本橋ホテルの写った絵葉書(の写真)をいただきました。
私には建築様式がよくわかりませんが、ホテルの建物は屋根のある洋館で、正面右側にドーム型の屋根を持った塔があります。
2階建ての小ぢんまりとしたホテルです。

ここで何もすることがなく、懸賞応募小説を書いていたのかと思うと、なかなか切ないものがあります。

さて、母親の死後、しばらくして、英治はまた転居します。
「自筆年譜」には大正11年の項目に、「家、本郷千駄木町の妹カエの二階へ移る」とあります。

「伝記 吉川英治」によれば、ここに出てきた妹のカエの嫁いだ先の黒田太吉郎という人物の家作を借りて住んだということのようです。
ここに最初の妻となる赤沢やすと、妹のちよとともに暮らしたと言います。

ところで、横浜時代の吉川英治については、本人が書き残した「忘れ残りの記」や様々な随筆くらいしか証言も記録も残っていません。
これが大正時代になると、川柳仲間との交流が生れ、彼らが残した証言なども出てきます。

そんな中に、謎の家があります。

「伝記 吉川英治」は、川柳仲間で、英治が勤務した東京毎夕新聞の同僚であった宮尾しげをの証言を紹介しています。
それによれば、毎夕新聞在社時(大正11~12年)に、新聞社に近い水天宮前の横丁を少し入った八百屋の二階に英治とやすが夫婦で間借りしていたことがあると言うのです。
著者の尾崎は千駄木に転居する前のこととしています。

この何が謎かというと、「伝記 吉川英治」では、宮尾の証言と併記して、このことをやす本人が否定していることを書いているのです。

ただ、頻繁に転居した英治のことですから、やすの方が記憶を混同しているだけで、そこに住んでいたことがあった可能性はあります。
いずれにせよ、千駄木の家も含め、裏付けとなるような公文書や書簡などは残されていません。

ここで何度も名を出した赤沢やすと、婚姻届を出すのは大正12年8月8日で、千駄木の家に居住中のことです。
しかし、千駄木の家に越してきた時点で、既に一緒に住んでいますから、届出前に、既に夫婦としての実態はあったのでしょう。
それが寺島町の頃までさかのぼり得るのかは、はっきりしません。

婚姻届を出してから約1ヶ月で関東大震災が発生、千駄木の家は幸い被災しませんでしたが、英治はこの大惨事を機に新聞社を辞め、専業の作家となる決意をします。
やがて、書斎の場所を求めて千駄木町の家を離れます。

つまり千駄木町の家は作家となる前の英治が最後に住んだ家になるわけです。

ただし、そのため、作家となってからの家のように所在地がはっきりとはせず、また「忘れ残りの記」にも登場しないため、不明な点も多い時代となってしまってもいます。

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