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2010年10月 2日 (土)

吉川英治の家めぐり(16)

昭和28年、長く親しんだ吉野村の家から、吉川英治は品川区北品川、通称御殿山に転居します。

この時、吉川英治は味な計らいをしています。
住民登録を吉野村に残し、吉野村に対して納税するようにしたのです。
聞くところでは、当時吉川英治が納めていた税金の額が、吉野村の税収の8割以上に及んでいたため、戦中戦後の苦しい時代にお世話になった村への恩返しとして、そのように手配したということです。

吉川英治の秘書をしていた人物が書き残した勤務日誌には、品川区から納税の督促を受けて、上記のような事情があることを説明しに行ったということが書かれています。
高額納税者が区内に転居してきて、やった税収が増える!と思ったのに、他所に税金を納めていますと言われて、ガックリしている品川区の担当者の顔が目に浮かびます。

さて、品川への転居ですが、こう書いています。

元々、都会育ちのぼくは、とかく、山家暮らしに、恋はしたものの、子にひかれてだが、やはり都会へ帰ってしまった。(「吉野村別記」より)

「子にひかれて」とあるように、直接の動機は娘の進学です。
英治の長男と次男は、文子夫人の意見もあって、都心部の私立中学校に進学するのですが、その際に「苦労を経験しろ」という英治の考えで、他人の家に下宿して、そこから通学させられました。
しかし、娘は他人の家に下宿させられないということで、一家を挙げて都心に舞い戻ったわけです。

この御殿山の家は、現存しており、今もお住まいの方がいらっしゃるということなので、詳しいことは書きませんが、建物としては洋館になっています。

江戸時代に遡ろうかという伝統的な日本家屋から、いきなり洋館に転居するというのも、ずいぶん極端ですが、山奥から品川の京浜工業地帯のすぐそばに転居するというのも、極端な話です。

この時、佐佐木茂索からは、「あの辺は感心しないな、手金なんか損してもほかを探し給えよ」と言われたそうですが、そのまま引っ越してしまいました。

ところが、二階の書斎に坐ってみると、すぐ近所の屋根越しに、製菓会社の煙突が間近にニョッキと聳えているし、南の工場地帯からは、朝昼夕と、一せいにサイレンの猛吼が聞え、羽田空港の離着やら山手線の音響はやや遠いが四六時中の賑やかさである。(「煙突と机とぼくの青春など」より)

という有様でした。

ちなみに、この書斎は、当然洋室ですが、英治はそこに座卓を持ち込み、床に座って執筆をしています。

そんなこんなで気が落着かなかったのか、実はこの御殿山の家では、あまり執筆をしていません。
吉川英治は、戦後、人から請われたこともあって、軽井沢と熱海に別荘を購入しています。
その別荘に執筆に出掛けてしまい、品川にはあまり腰を落ち着けていなかったのです。

当時の秘書の勤務日誌を見ると、昭和30年は10月6日以降は熱海を拠点にして品川との間を行き来し、昭和31年4月10日まで半年もそんな状態を続けています。
その後は品川と熱海のどちらが中心とも言えないような感じで7月9日まで熱海と品川を行き来し、7月10日になると、今度は軽井沢に移動します。
そして9月24日までの2ヶ月余りは軽井沢を拠点として、上京した時だけ品川に帰るといった感じ。
その後は年末まで品川を拠点にしますが、10月に1週間の関西旅行に出掛けたりしています。

品川には半年も居ません。

そんな状態に疲れたのか、吉川英治もとうとう自分で家を建てることを決意します。

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