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2010年10月 3日 (日)

吉川英治の家めぐり(17)

吉川英治は、戦前に住んでいた赤坂表町の近く、赤坂新坂町に土地を買い、家を建てることにします。

ただ、その前に品川御殿山の家の方の賃貸契約が切れることになり、新居が完成するまでのつなぎとして、昭和32年5月から33年6月まで、渋谷区松涛に家を借りて住みます。

この期間の半分は、「新・平家物語」を書き終え(32年2月に脱稿)、「私本太平記」を書き始めるまで(33年1月に起稿)の時期で、作品を書かずしばし小休止していた時期にあたります。
そのため、頻繁に夫婦でゴルフに行き、新潟への小旅行も行っています。
熱海や軽井沢でも過ごしていますので、ここでもまたあまり落着いて家で過ごしたりはしていません。

かくして、昭和33年6月15日、赤坂新坂町の新居に入居します。
当時の秘書の勤務日誌を見ると、この日以降もまだ1週間ほど大工やその他職人が出入りを繰り返していますので、家が完全に出来上がっていない状態で、あえてこの日に入居したように思われます。

実はこの6月15日というのは、英治が溺愛した次女の香屋子の誕生日です。
どうも、その日に入居したかったようです。
親バカですね。

この赤坂新坂町の家は、転居を繰り返した吉川英治が初めて自分の意思で建てた家です。

吉川英治が住んだ数多くの家のうち、新築した家は、これ以前に上落合の家があります。
しかし、上落合の家は、既に触れたように、一時に大金を手に入れたことに危惧を抱いた英治が、それを消費するために建てた家なので、建築家にまかせっきりでした。

それに対して赤坂新坂町の家は、設計段階から何度も打ち合わせをし、建設中も、ちょうど上記のように作品を執筆をしていない時期だったので、頻繁に現場を訪れ、完成を楽しみにしていた家でした。

明るく広々とした畳敷きの書斎。
そうかと思えば、なぜか和洋折衷式の茶室がある、そんな家でした。

その一方で、実はこの家には、吉川英治の吉野村への思いもこもっています。
というのも、この家の庭には、吉野村の家の庭にあった松などの植木を移植しているのです。

その松の木を描いた色紙を現在展示していますが、そこにこんな賛をつけています。

吉野村の茅菴より都心
赤坂の居に移したる老松
漸く騒塵の
市に馴ずみし
ものゝごとし

しかし、英治は昭和37年9月7日に世を去っていますので、この様々な思いのこもった家に住むことができたのは4年少々ということになります。
入院先で亡くなっていますので、自分が建てた家の畳の上で往生を遂げたわけでもありませんでした。

残念なことです。

もっとも、もし吉川英治が長寿を得ていたら、吉野村に住んだ10年弱を超えるような長い期間この家に住み続けたか、それとも長年の習慣で、時期が来たら転居を考えるようになっていたか、それはわかりません。

ただ、こうして人生を振り返ってみると、頻繁に引越し、さらに、家めぐりの文章では触れませんでしたが、引越した先では書斎の場所をコロコロと変えていて、常に身の回りの環境を新たにし続けた人生だったことがわかります。

この常に新しくあろうとする気持ちが、吉川英治の創作の秘密とも言えるのかも知れません。

などとまとめてみたところで、吉川英治の家めぐりは、ここまでということにします。

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コメント

「吉川英治の家めぐり」を興味深く読ませて頂きました。作家にとっての「すまい」は、創作のための空間であり、英治の転居が作品と密接に関わっていることを知りました。
「吉川英治雑学館」には私の知らなかった英治がいろいろ紹介されていて、目から鱗の感じです。
 次なるテーマを期待しています。

投稿: 南條憲二 | 2010年10月 4日 (月) 18時48分

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