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2010年10月31日 (日)

アートプログラム青梅と写真展

例年会場を提供しているアートプログラム青梅ですが、昨日から開幕しました。

今年のタイトルは≪循環の体(たい)≫。
当館での展示作家は戸谷成雄さんです。
「ミニマルバロックⅧ―Y氏邸」という作品が母屋に展示されています。

一方、吉川英治記念館写真コンテスト入賞作品展は、本日までの予定でしたが、展示を当面延長します。

いま写真展を行なっている部屋を、アートプログラム青梅の方で使用する可能性を考えて、会期を短めに設定していたのですが、今年は母屋のみに展示をするということで、部屋が空いた状態になりましたので、延長することにしました。
半分は私の気まぐれなので、いつ終了するかは、まだ決めていません。
ただ、最長でも11月21日までには終了します。

以上、ご興味のある方はぜひご来館を。

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2010年10月23日 (土)

宛名

当館にも色々なところから郵便物が届きますが、時々ビミョーな宛名で送られてくるものがあります。

よくあるのは、≪財団法人 吉川英治記念館≫というもの。

これは、当館が館名と財団名が違うのも悪いとは思います。
ちなみに、財団名は≪財団法人吉川英治国民文化振興会≫です。
お金の出し入れで、金融機関の用紙に名前を書く時に、長いのでいつも閉口するのですが、それはともかくとして、施設の名と運営している財団の名が一致しないというのは、珍しいことではないと思うのですが、いちいち≪財団法人≫を付けずにいられないんでしょうか。
まあ、≪株式会社○○≫といった会社名のところに≪○○≫だけで送ると、文句を言う人がいるのかもしれないとは思いますが、

私の先代の事務長は顔が広かったので、いまだにその人宛ての郵便物が届きますが、まあ、それはいいでしょう。
先日は、もう四半世紀も前に交代した2代前の館長の名で郵便物が届き、一体どこのどんな資料を見てこの郵便物を出してきたのかと、ちょっと呆れました。

宛名の誤植はよくあることです。

「よしかわえいじ」が、≪吉川栄治≫になるのは日常茶飯事。
≪吉川英次≫もよくありますが、こちらは偶然にも吉川英治の本名です。

もちろん、どちらも変換ミスでしょう。
だから、気にはなりません。

ただ、最近、ある団体が、定期的にチラシを送って来るのですが、そこから届く宛名は、その度に苦笑というか、落胆してしまいます。

≪吉村英治記念館≫

うちはエジプト関係の展示はしてないんですけど。

・・・・・・あれは作治か(笑)

いずれにせよ、これは『変換ミス』ではありえませんからねぇ。

住所録からラベルに打ち出しているものなので、最初の間違いがそのまま残って、毎回、この名前で送られてきます。
昔のようにその都度手書きしていれば、一度は間違えても、毎回ということはないのでしょうが。

いや、ひょっとすると、担当者がはなから≪吉村英治≫だと思っている可能性はあります。
そして、その可能性を思うと、すごく落胆してしまうのです。

国民作家も、いまや≪吉村≫かと思うと、ね。

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2010年10月20日 (水)

神奈川(1)

先日の重松清さんのお話の中に「かんかん虫は唄う」が出てきましたので、久しぶりに作品の紹介をしてみます。

「かんかん虫は唄う」

時は明治の中頃。
横浜の貧民街であるイロハ長屋に病人の母と住む“かんかん虫のトム公”は、≪プリンス≫とも呼ばれる人気者。
14歳の少年ながら世間馴れしていて、職にあぶれた貧しい長屋の仲間たちに仕事の斡旋などをしてやっている。
今日も今日とて、投機に失敗して落ちぶれてしまった元官吏の亀田を横浜ドックの仕事に押し込んでやった。
ところが、その亀田が仕事に送り込まれた先の入港中の外国船で、宝石の紛失騒ぎが起こり、亀田が犯人として警察に逮捕されてしまう。
人の良い亀田がそんなことをするはずがないとトムは弁護するが、受け入れられない。
宝石の持ち主は、石炭運びの人夫から身を立てた豪商・高瀬理平の夫人のお槙。
そこでトムは高瀬理平に対して、亀田の冤罪を訴え、身柄を貰い下げてくれるように掛け合うが、高瀬は聞き入れないどころか、トムを恐喝で警察に訴える。
そこでトムは、愚連隊の仲間たちを糾合して、真犯人探しと貧乏人を人とも思わぬ高瀬夫妻への仕返しを目論む。
同じ頃、大隈重信が横浜にやって来て、友人である千坂男爵の娘・桐代のことを料亭の女将に話し、その消息を探してくれるよう依頼していた。
嫁ぎ先で不貞をなし、以後、転落人生を歩んだまま、行方不明になっている桐代が横浜にいるらしいというのだが、それこそがトム=千坂富麿の母親であった。
やがてトムたちは宝石泥棒の真犯人を見つけ、高瀬夫妻の前で亀田の無罪を証明し、高瀬夫妻を謝罪させることに成功する。
そして、その過程で身元が分ったトムは、妹の菊とともに千坂家に引き取られることになる。
ところが、金持ちも華族も嫌いだと言い放って、トムは姿を消してしまう。
愚連隊の仲間の元に戻ったトムは、しかし、すぐに逮捕され、八丈島の最不良児感化院に送られることになった。
船で護送されるトムを見送りに来た人々の中には、愚連隊仲間に混じって無事に釈放された亀田の姿もあった。

初出は『週刊朝日』昭和5年10月26日号~6年2月8日号。
現行の「吉川英治歴史時代文庫」にも第8巻として収録されています。

吉川英治が青少年時代を過ごした明治の横浜の雰囲気を色濃く伝えているだけではなく、吉川英治の父・直広が世話になり、後に悶着を起こして決別することになる実業家の高瀬理三郎に似た名前の高瀬理平が登場したり、実在した人気騎手・神崎利木蔵を思わせる島崎という騎手が登場したりといったあたりにも興味を引かれる作品になっています。

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2010年10月19日 (火)

ナンバンギセル

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ナンバンギセルが咲いています。

以前もこうしてご紹介したことがあるのですが、その時の日付が9月23日。
ざっと1ヶ月遅れです。

ナンバンギセルは漢字では「南蛮煙管」ですが、南蛮のキセルですから、ヨーロッパでかつて主流だったクレーパイプのイメージなのでしょう。
私は以前、都心でアルバイトとして発掘に関わっていた頃、江戸時代の遺跡から出土したクレーパイプを見たことがありますが、いまよく見られる木製のパイプよりもやや華奢なその姿は、よりこの花に似ている気がします。

椎の木の下に植えた斑入りのススキの根元に咲いています。

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2010年10月18日 (月)

重松清さんを囲むひととき

去る16日土曜日に、重松清さんを囲むひとときを開催しました。

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例年は手伝ってくれている講談社の文芸の人間が司会進行役を務めるのですが、写真をご覧の通り、重松さんがお一人で話して、時間を見て質疑応答に切り替え、その司会役もご自分でなさるというスタイルでした。

普段は、いじめ問題や男女共同参画問題などについて講演を依頼されることが多く、文学そのものについて話す機会はあまりないんです、とおっしゃりながら、多岐に及ぶお話をしてくださいましたが、個人的に印象に残ったのは2点ほど。

まず、重松さんがこれまでの人生で30回引越しをしているという話。
高校卒業までに16回、それ以降に14回だそうです。

今年、再三このブログで触れているように、吉川英治は生涯でおよそ30回の引越しをしています。
こんなところに共通点があったとは。

もう1点は、吉川英治の小説「かんかん虫は唄う」をご紹介になったこと。
なんでも、あまり小説を読まない重松さんのお父さんが、あれはいい小説だ、と事あるごとに言っていたのだそうです。
数ある吉川英治の小説の中で、なぜこの作品だったのかというのが、ちょっと不思議ですが、何か心に響くものがあったのでしょう。

そうそう、質疑応答の中で、家族や社会の中での「自分の居場所」ということについて、それはある特定の場所や空間のことではなく、自分がいる場所が「自分の居場所」なんじゃないか、というようなことを答えておられたのですが、それを聞いて、先日ここで取り上げた吉川英治の「家なんていう形の中に住んでいるとは思わない、心のうちに住んでいるつもりである」という言葉を思い浮かべたことも付記しておきましょう。

どちらも、どんな場所に居ても自分が自分でありさえすれば良い、という考え方と受け取れば、共通しているな、と思ったのでした。

ご参加下さった皆さんは、どうお感じになったでしょうか?

最後に、重松先生、そしてご参加下さった方々にお礼申し上げます。
ありがとうございました。

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2010年10月17日 (日)

第13回吉川英治記念館写真コンテスト入賞作品展

ちょっとバタバタしていてアップし忘れていましたが、昨日から表記の展覧会を開催しています(~10月31日)。

上位の作品はこちらでもご覧いただけますが、ご興味のある方はどうぞお運び下さい。

入賞者のラインアップはこちらにある通りです。

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2010年10月14日 (木)

ゲンノショウコ

「験の証拠」という風情のない名前とは裏腹に、かわいらしい花ですね。

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2010年10月13日 (水)

セッコク

セッコク(石斛)の花が咲いています。

インターネットで検索すると、5月頃に咲く花だそうなのですが、どうして今頃咲いているのでしょうか?

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2010年10月 3日 (日)

吉川英治の家めぐり(17)

吉川英治は、戦前に住んでいた赤坂表町の近く、赤坂新坂町に土地を買い、家を建てることにします。

ただ、その前に品川御殿山の家の方の賃貸契約が切れることになり、新居が完成するまでのつなぎとして、昭和32年5月から33年6月まで、渋谷区松涛に家を借りて住みます。

この期間の半分は、「新・平家物語」を書き終え(32年2月に脱稿)、「私本太平記」を書き始めるまで(33年1月に起稿)の時期で、作品を書かずしばし小休止していた時期にあたります。
そのため、頻繁に夫婦でゴルフに行き、新潟への小旅行も行っています。
熱海や軽井沢でも過ごしていますので、ここでもまたあまり落着いて家で過ごしたりはしていません。

かくして、昭和33年6月15日、赤坂新坂町の新居に入居します。
当時の秘書の勤務日誌を見ると、この日以降もまだ1週間ほど大工やその他職人が出入りを繰り返していますので、家が完全に出来上がっていない状態で、あえてこの日に入居したように思われます。

実はこの6月15日というのは、英治が溺愛した次女の香屋子の誕生日です。
どうも、その日に入居したかったようです。
親バカですね。

この赤坂新坂町の家は、転居を繰り返した吉川英治が初めて自分の意思で建てた家です。

吉川英治が住んだ数多くの家のうち、新築した家は、これ以前に上落合の家があります。
しかし、上落合の家は、既に触れたように、一時に大金を手に入れたことに危惧を抱いた英治が、それを消費するために建てた家なので、建築家にまかせっきりでした。

それに対して赤坂新坂町の家は、設計段階から何度も打ち合わせをし、建設中も、ちょうど上記のように作品を執筆をしていない時期だったので、頻繁に現場を訪れ、完成を楽しみにしていた家でした。

明るく広々とした畳敷きの書斎。
そうかと思えば、なぜか和洋折衷式の茶室がある、そんな家でした。

その一方で、実はこの家には、吉川英治の吉野村への思いもこもっています。
というのも、この家の庭には、吉野村の家の庭にあった松などの植木を移植しているのです。

その松の木を描いた色紙を現在展示していますが、そこにこんな賛をつけています。

吉野村の茅菴より都心
赤坂の居に移したる老松
漸く騒塵の
市に馴ずみし
ものゝごとし

しかし、英治は昭和37年9月7日に世を去っていますので、この様々な思いのこもった家に住むことができたのは4年少々ということになります。
入院先で亡くなっていますので、自分が建てた家の畳の上で往生を遂げたわけでもありませんでした。

残念なことです。

もっとも、もし吉川英治が長寿を得ていたら、吉野村に住んだ10年弱を超えるような長い期間この家に住み続けたか、それとも長年の習慣で、時期が来たら転居を考えるようになっていたか、それはわかりません。

ただ、こうして人生を振り返ってみると、頻繁に引越し、さらに、家めぐりの文章では触れませんでしたが、引越した先では書斎の場所をコロコロと変えていて、常に身の回りの環境を新たにし続けた人生だったことがわかります。

この常に新しくあろうとする気持ちが、吉川英治の創作の秘密とも言えるのかも知れません。

などとまとめてみたところで、吉川英治の家めぐりは、ここまでということにします。

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2010年10月 2日 (土)

吉川英治の家めぐり(16)

昭和28年、長く親しんだ吉野村の家から、吉川英治は品川区北品川、通称御殿山に転居します。

この時、吉川英治は味な計らいをしています。
住民登録を吉野村に残し、吉野村に対して納税するようにしたのです。
聞くところでは、当時吉川英治が納めていた税金の額が、吉野村の税収の8割以上に及んでいたため、戦中戦後の苦しい時代にお世話になった村への恩返しとして、そのように手配したということです。

吉川英治の秘書をしていた人物が書き残した勤務日誌には、品川区から納税の督促を受けて、上記のような事情があることを説明しに行ったということが書かれています。
高額納税者が区内に転居してきて、やった税収が増える!と思ったのに、他所に税金を納めていますと言われて、ガックリしている品川区の担当者の顔が目に浮かびます。

さて、品川への転居ですが、こう書いています。

元々、都会育ちのぼくは、とかく、山家暮らしに、恋はしたものの、子にひかれてだが、やはり都会へ帰ってしまった。(「吉野村別記」より)

「子にひかれて」とあるように、直接の動機は娘の進学です。
英治の長男と次男は、文子夫人の意見もあって、都心部の私立中学校に進学するのですが、その際に「苦労を経験しろ」という英治の考えで、他人の家に下宿して、そこから通学させられました。
しかし、娘は他人の家に下宿させられないということで、一家を挙げて都心に舞い戻ったわけです。

この御殿山の家は、現存しており、今もお住まいの方がいらっしゃるということなので、詳しいことは書きませんが、建物としては洋館になっています。

江戸時代に遡ろうかという伝統的な日本家屋から、いきなり洋館に転居するというのも、ずいぶん極端ですが、山奥から品川の京浜工業地帯のすぐそばに転居するというのも、極端な話です。

この時、佐佐木茂索からは、「あの辺は感心しないな、手金なんか損してもほかを探し給えよ」と言われたそうですが、そのまま引っ越してしまいました。

ところが、二階の書斎に坐ってみると、すぐ近所の屋根越しに、製菓会社の煙突が間近にニョッキと聳えているし、南の工場地帯からは、朝昼夕と、一せいにサイレンの猛吼が聞え、羽田空港の離着やら山手線の音響はやや遠いが四六時中の賑やかさである。(「煙突と机とぼくの青春など」より)

という有様でした。

ちなみに、この書斎は、当然洋室ですが、英治はそこに座卓を持ち込み、床に座って執筆をしています。

そんなこんなで気が落着かなかったのか、実はこの御殿山の家では、あまり執筆をしていません。
吉川英治は、戦後、人から請われたこともあって、軽井沢と熱海に別荘を購入しています。
その別荘に執筆に出掛けてしまい、品川にはあまり腰を落ち着けていなかったのです。

当時の秘書の勤務日誌を見ると、昭和30年は10月6日以降は熱海を拠点にして品川との間を行き来し、昭和31年4月10日まで半年もそんな状態を続けています。
その後は品川と熱海のどちらが中心とも言えないような感じで7月9日まで熱海と品川を行き来し、7月10日になると、今度は軽井沢に移動します。
そして9月24日までの2ヶ月余りは軽井沢を拠点として、上京した時だけ品川に帰るといった感じ。
その後は年末まで品川を拠点にしますが、10月に1週間の関西旅行に出掛けたりしています。

品川には半年も居ません。

そんな状態に疲れたのか、吉川英治もとうとう自分で家を建てることを決意します。

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