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2010年12月31日 (金)

年末年始の休館のお知らせ

吉川英治記念館は、年末年始は休館させていただきます。
期間は12月25日から1月5日までです。

長い休みになりますが、ご容赦下さい。

お問合せなどは1月6日以降にお願いいたします。

よろしくお願いいたします。

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2010年12月27日 (月)

電子書籍

今年は電子書籍元年などとも言われました。

が。

吉川英治の作品のうち、講談社が刊行している吉川英治歴史時代文庫に収録されている作品なら、とっくの昔に電子書籍化されてるんですけど。

昨日触れた「治郎吉格子」もこの通り

その意味では、それを言うなら「電子書籍端末元年」なんじゃないの、と言いたくなります。

もちろん、電子書籍化が今年始まったという意味での「元年」じゃないのはわかりますけどね。

電子書籍の良し悪しは立場により色々だと思いますが、ひとつ助かるのは、特定の言葉で検索をかけるのがラク、ということです。

問合せを受けた時に、「この言葉ってどこに出てきてたかな」と探し回らなければならないことがありますが、それが簡単になります。
吉川英治の全作品をそらんじられる様な記憶力は、私にはありませんから。

この先、どんどん書籍の内容がデジタル化され、著作権との兼ね合いはありますが、それがネット上に公開されるようになってくれば、「本に書いてあることなら問い合わせずに検索してください」とお答えすればいいので、そうなるともっとラクですね(笑)

いや、実際にそんなことを答えたりはしませんが。
それに、問合せというのは、時に自分の意識にない斜めの方からやって来たりするので、勉強になりますし。

ただ、自分が望むような回答でなかった時に、キレるのは、ご勘弁いただきたいですが。

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2010年12月26日 (日)

大阪(1)

昨日映画に触れたので、久しぶりに作品紹介を。

「治郎吉格子」

江戸を荒らした大泥棒の鼠小僧こと治郎吉は、江戸を食い詰め上方に流れて来ていた。
身を潜めていた有馬温泉から、大坂の町に出ようとする治郎吉だが、逗留中に馴染みとなったお仙という湯女が、治郎吉に惚れて、勝手について来てしまう。
お仙に特に思いもない治郎吉だが、気まぐれでお仙の頼みを聞くことにする。
それは、お仙の腹違いの兄で髪結いの仁吉が、勝手にお仙を百両で身売りしてしまったので、それについて話をつけて欲しいというものだった。
仁吉の店に様子を見に来た治郎吉は、そこに元結を売りに来たお喜乃という上品な娘に目を奪われる。
その夜、手持ちの金が尽きてきた治郎吉は、目に付いた武家屋敷に忍び込み、そこの主人・重松左次兵衛が、仁吉を手先に、お喜乃を妾にしようと画策しているのを知る。
後日、お喜乃の家を探し当てた治郎吉は、いまは病床にあるお喜乃の父親が元は江戸の旗本・脇坂左内の用人で、蔵の不寝番をしていた時に鼠小僧に千両を盗まれたため、浪人となったうえにその千両を返済している、という境遇をお喜乃から聞かされる。
治郎吉は、重松の家から盗んだ二百両をこっそりとお喜乃の家に置いて帰るが、その夜、どうしても妾奉公に首を縦に振らないお喜乃に業を煮やした仁吉が、お喜乃の家に忍び込み、父親を殺害し、金も奪って行ってしまう。
身寄りをなくしたお喜乃は、結局、茶屋に出るが、その茶屋に手を回して、重松がお喜乃を自分のものにしようとする。
その窮地を救ったのは治郎吉であった。
重松は逃したものの、仁吉を殺した治郎吉は、お喜乃に、脇坂の蔵には俺が千両返してやる、と言い残して、去って行く。
重松の通報で、捕り方が町を埋め尽くす中、仁吉が奪った金を取り返しに仁吉の家に忍び込んだ治郎吉は、仁吉に談判に行って拘禁されてしまったお仙に遭遇する。
お仙の縄を解いてやる治郎吉だが、連れて行ってとすがるお仙を残して、音もなく姿を消すのであった。

初出は昭和6年10月1日発行の『週刊朝日 秋季特別号』。
現在も刊行中の、「吉川英治歴史時代文庫75 治郎吉格子 名作短編集(一)」に収録されています。

クライマックスで、窮地を救われたお喜乃が「どこへでも連れて行って」と治郎吉にすがるのを、「一つぐらいは、きれいな憶い出を残したい」と言って、押し戻して去って行くのですが、なんだか「カリオストロの城」みたいと思ってしまいましたよ。

もしかしてパクリ?(笑)

まあ、大衆娯楽にはありがちなこと、ということでしょうが。

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2010年12月25日 (土)

第4回江東シネマフェスティバル

先日、江東区古石場文化センターの方からお電話があり、来年1月8日~10日に行なわれる第4回江東シネマフェスティバルの際に、吉川英治記念館のパンフレットやチラシを置きたいので、何か配布できるものがあれば送って欲しい、というお申し出をいただきました。

毎回この江東フィルムフェスティバルのパンフレットは配布用に送られてきていますが、今までそんなことはなかったのにな、と思い、少し前に送られてきていた今回のパンフレットを見てみると、吉川英治原作の映画が上映される予定であることに気がつきました。

1月8日(土)に行なわれる無声映画特集で、「チャップリンの放浪者」とともに「御誂治郎吉格子」が上映されます。

吉川英治の短編「治郎吉格子」を原作とした映画で、昭和6年の日活作品。
監督は伊藤大輔で、主演は大河内伝次郎、共演は伏見直江、伏見信子ほか。

無声映画なので、弁士(澤登翠)が付きます。

もう10数年前になりますか、青梅市民会館で、やはり澤登翠さんの弁士で、この作品が上映されたのを観たことがあります。
無声映画独特のテンポがあって、興味深かったです。

今となっては滅多にできない経験ですので、ぜひご覧になることをおすすめします。

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2010年12月18日 (土)

吉川英治、久保天随に叱られるの巻―その3

さて、吉川英治が当時名乗っていた≪霞峰≫は、既に触れたように川柳欄(阪井久良岐選)に登場します。
≪横浜 吉川霞峰≫として「十五夜を南無阿弥陀仏と子は拝み」が入選しています。
ちなみに、吉川英治は明治25年生まれですから、この時満13歳。
達者すぎる句ですね。

ひとつ、気になる投稿も見つけました。

和歌の欄(佐々木信綱選)に≪横浜 吉川霞翠≫という名が見えます。
これは、他人なのでしょうか、それとも誤植でしょうか?
偶然にも同じ横浜に同じ吉川姓で、一文字違いの雅号の持ち主がいたのでしょうか。

それより、≪峰≫には≪峯≫という字体もありますから、それを誤植されたと見る方がありえるのではないかと、私には思えるのですが、いまとなっては確認する術もありません。

そして、この『ハガキ文学 一週年紀念号』には、もう一ヶ所、≪吉川霞峰≫の名があります。
それが、表題に関わる話となります。

この雑誌には、久保天随選による漢詩のコーナーもあります。

久保天随は漢学者・漢詩人ですが、「三国志演義」の翻訳でより広く知られている人物でしょう。
吉川英治自身も久保天随訳の「三国志演義」を愛読したことを書いていますし、それこそ、吉川英治の「三国志」が登場する以前における、日本の「三国志」の定番だったと言えるものです。

その久保天随選の漢詩コーナーに≪横浜 吉川霞峯≫(ここでは峰ではなく峯になっています)の名がありました。
しかし、様子が変です。
投稿者の名があるにもかかわらず、詩の横に「落合東郭作」と書かれているのです。
よく見ると、≪横浜 吉川霞峯≫の投稿詩を含む3つの詩が、特別に罫線で区分けされたうえで、その冒頭に「詩盗判」と記されているのです。

つまり、「以下の3詩は盗作であると判明しました」と断定されている、ということになるのでしょう。

ちなみに、落合東郭は熊本生れの漢詩人で、夏目漱石が熊本の五高の教師であった時の同僚でもあります。

盗作を指摘されるとは、不名誉なことですが、しかし、盗作にも程度はあるでしょう。
有名な詩ではないからバレないだろうと丸パクリしたものか、骨格はそのままに一部の表現を変えただけのものか、表現はほとんど重ならないが明らかに下敷きにしたとわかるものか、逆に一部の表現だけ同じになっているものか、状況はいろいろ考えられます。
ここに掲載されている≪霞峯≫の詩が、そのどれに当たるのか、まだ調査していないのでわかりません。

ちなみに、こんな詩です。

天風吹作海濤声
鶴背高寒夢不成
萬壑群山松樹老
仙壇夜静月明生

これとそっくりの落合東郭の詩が存在しているのかどうか。
自分で調べるべきことですが、何かご存知の方があれば、ご指摘いただけると助かります。

さて、これが悪意ある盗作だとしたら、私ならばペンネームを変えて同一人物と知られないようにするとか、二度と漢詩は投稿しないとか、そういう対応をとるところです。
しかし、吉川英治は、その後も≪霞峰≫の名で投稿を続け、漢詩のコーナーでも入選したりしています。

その点からすると、どうしても掲載されたくて選者が知らないような有名でない漢詩をパクった、ということではないのではないかと思えます。

いずれにせよ、日本の「三国志」受容の歴史に名を残す二大人物が、妙な形であいまみえていたという、ちょっと面白いエピソードです。

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2010年12月17日 (金)

吉川英治、久保天随に叱られるの巻―その2

以下のことは、いずれも明治38年10月10日発行の『ハガキ文学 一週年紀念号』(臨時増刊第二巻第十六号)で見つけました。

まず、吉川英治以外の投稿者として≪長野 国枝史郎≫の名を見つけました。

国枝史郎といえば、吉川英治らとともに、戦前の大衆文壇を支えた作家の一人です。

明治20年長野県諏訪郡生まれで、国枝史郎は本名なので、この投稿者は本人と見て間違いないでしょう。
「神州纐纈城」「蔦葛木曽桟」といった代表作を持つ国枝史郎が投稿したのは、何と新体詩(選者は児玉花外)です。

風雅つくせる伊太利亜の、吁楽堂とまどゐして、
調べに誇る令人の、かなづる曲の響く哉。
日は床しみの笑を投げ、風は賛美の香を送る、
オーケストラの潮の音、落ちて清けき四部の声。
余韻乱れぬ独奏は、詩神も下る愛の歌、
夕となりぬ楽堂は、湧き来る笛や琴の音や、
偖も燈火の陰にこそ、女神や舞はん此夜さやかに。

この「楽堂」というタイトルの詩は、ロマンティックという意味では後の作品と相通じるのかもしれませんが、青春18歳の若気の至りとも感じられて、微笑ましい気もします。

もう一人、意外の人物として、石島雉子郎の名を“はがきお噺”(巌谷小波選)のコーナーで見つけました。

石島雉子郎については、以前も触れたことがありますが、吉川英治が大正時代に川柳家として≪雉子郎≫を名乗り始める以前に、既にその名で活動していた人物です。

吉川英治が自らの雅号を≪雉子郎≫とする時に、石島雉子郎のことを知っていたのか否か、ということが以前から気になっていました。
リンク先で触れた雑誌『五月鯉』を吉川英治が目にしていた可能性はありますが、吉川家の当時の経済状態を考えると、そう片っ端から雑誌を購入できるほどでもなかったでしょう。
その点、いま取り上げている『ハガキ文学 一週年紀念号』には、吉川英治が≪霞峰≫の名で投稿した川柳も掲載されていますから、この号に目を通した可能性はより高いと思われます。

すると、すでに≪雉子郎≫が存在することは、目に留めていたのではないでしょうか。
ただ、実際に≪雉子郎≫を名乗り始めるまでには数年ありますから、その名を目にしていたけれども、すっかり忘れていた、というところかもしれません。

想像の域を出る話ではありませんが。

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2010年12月16日 (木)

吉川英治、久保天随に叱られるの巻―その1

いやぁ、ぼさっとしているうちに、もう師走も半ばです。
年内の営業日もあと10日を切ってしまいました。

また、とうとう11月は更新もしませんでした。

そんなわけで、このまま年明けとならないよう、ちょっと更新してみます。

本来ならば、きちんと調査してから書くべきことでしょうが、面白い話なので、いまの段階でネタにしてしまいます。

『ハガキ文学』という雑誌があります。
明治の終わり頃に刊行されていた雑誌で、その名の通り、読者からのハガキによる投稿を募り、それを紹介するページを多く取った雑誌でした。

吉川英治は、10代の少年だった当時、≪霞峰≫というペンネームを用いて、この雑誌によく投稿していたことを、自叙伝「忘れ残りの記」などに書き残しています。

それでも秀才文壇、中学世界、ハガキ文学などでは幾回か和歌、新体詩、短文の賞を獲ては、ひとり得意になっていた。(「忘れ残りの記」より)

などとあります。
ここには本人は書いていませんが、漢詩や、もちろん川柳も掲載されています。

吉川英治には、没後に編纂された「川柳・詩歌集」という句や詩を集めた本があります。
現在は「吉川英治記念館特製文庫 川柳・詩歌集」として吉川英治記念館のみで販売しています(なおこの本は、昭和52年に講談社から刊行された「吉川英治文庫139 川柳詩歌集」の装丁を改めたものです)。
さらに吉川英治記念館では、ここに入っていないものを集めた「続 川柳・詩歌集」という小冊子を製作して、販売しています。
その中に、『ハガキ文学』に掲載されていた川柳その他の作品を収録しています。

さて、この「続 川柳・詩歌集」の編集をしたのは、かくいう私ですが、そのための調査の際に、『ハガキ文学』には目を通しませんでした。
というのも、先輩学芸員が調査したデータがあったので、それをそのまま使わせてもらったからです。

先日、古書店から送られてきた目録に、『ハガキ文学』が数冊含まれていました。
発行年月日を見てみると、ちょうど吉川英治が投稿を繰り返していた時期のものでした。
そこで、展示に使えそうだと思い、購入してみたのですが、いや、人が調査したものでも、一度は自分でも目を通しておくべきですね。

いくつか興味深い事実が見つかりました。
それをこれからご紹介して以降と思います。

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