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2011年2月21日 (月)

忍者と麻の実(4)

さて、前回、長くなるので次回に、とした「随筆宮本武蔵(承前)」における「忍術を語る」座談会の様子を引用してみます。

晩には又、サンデー毎日の会合があり、どうしてもそれへ顔を出さねばならない事情にあるので、行つてみると、阿部真之助氏も、大下宇陀児氏も、当夜の実演者忍術家の藤田君も来てゐる。折も折、その晩の会は、藤田君の伊賀流忍術を科学的に検討するといふ会なのである。非常時中の非常な夜に、厄介な会がぶつかつたものだつた。藤田君が長い日本刀を出したり、伊賀流の梯子を取り出したり、明りを消したりするので、女中たちは寄りつかない。だが会場は橋場の山楽(注:正しくは三楽)なので、騒擾の中心からはやや遠い。いや遠くもないが、浅草辺ではまだその日の事を何も知らない民衆が多かつたのである。山楽の帳場では、予約のためやむなく営業してゐるといふ顔つきだつたが、座敷の客は、何の神経もない、僕らの隣りの部屋では、ビール会社の若い社員たちの送別会でもあらうか、交る交る「私のラバさん」だの「三社まつり」などといふものを美音を競つて唄ひ合つてゐた。

朝、自宅の隣家で高橋是清が殺され、夜には自称忍者と座談するという状況に、辟易している様子が伺えます。
また、高橋是清の死という衝撃を受けた吉川英治の切迫感と、あまり情報を知らず深刻さのないビール会社の社員たちの、大きな落差も感じます。

もっとも、さて情報手段が発達した現在、何かあった時にシブヤのギャルたちがどう反応するのだろうかと考えると、ビール会社社員の姿は情報伝達の問題だけではないのだろうという気もします。

さて、ここで、またしても見落としに気がついたので、触れておきます。

『吉川英治全集月報31』(昭和43年10月)の中に山田風太郎の「大魔力」という文章が掲載されています。
その冒頭にこうあります。

十年ほど前、忍法小説の第一篇「甲賀忍法帖」を書くとき、「忍法帖」としようか「忍術帖」としようか、迷った記憶がある。
忍法という用語が定着していなかったからだが、しかし僕がそれを発明したという覚えもない。定着していなかったにしろ、どこかにこの言葉はあったのである。
いったいそれが何に由来したか、長い間僕はくびをひねっていた。それが最近「神州天馬侠」の中に「忍法試合」という言葉が出ているのを知るに及んで、やっと多年の疑問が氷解した。むろん、完全に忘れていたが、ほかに覚えのない以上、その淵源はここにあったと推定するよりほかはない。

以下、子供の時に「神州天馬侠」を古雑誌で途切れ途切れに読み、長じてから単行本になったものを読んだ話になり、そこから吉川文学の魅力について書いています。
これが山田風太郎の認識であったわけです。

Wikiの「忍法」の項目にも、このことは示唆されていますが、出典は示されていませんので、こうして触れておくことにも価値はあるでしょう。

ということで、話が戻りました。

そして、私という人間の雑なところが露呈してしまったというところで、この話題はここまでにします。

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2011年2月20日 (日)

忍者と麻の実(3)

この話も、もうブログに書いたと思っていましたが、検索しても出てこないので、まだだったようです。

前回触れた「忍術を語る」という座談会ですが、この座談会には裏話があります。
実は、この座談会が行なわれたのが昭和11年2月26日、つまり、2・26事件の当日だったのです。

吉川英治は『文藝春秋』昭和11年4月号に掲載した「随筆宮本武蔵(承前)」という文章に、その日の自身の行動を書き綴っています。これに当時の秘書の回想などを加えて経過を記すと、こんな感じになります。

吉川英治が当時住んでいた赤坂区表町の家は、2・26事件で殺害された高橋是清邸の路地向かいだった。
その高橋是清邸が襲撃されたのが2月26日午前5時過ぎ。
しかし、普段徹夜での執筆が多い英治が、この日に限って前日午後11時頃に寝床に入り、午前9時頃まで事件のことを知らなかった。
そこへ読売新聞社会部の記者から、隣の高橋邸からの物音を聞かなかったかという電話がかかってきて、ようやく事件の発生を知る。
一方、当時「宮本武蔵」を連載中の朝日新聞社からは、いつも原稿を取りに来る使いの者が、どうしても数寄屋橋から赤坂まで行かれないと電話をしてくる。
そんな中、数人の記者が吉川邸に詰めかけ、応接室で英治と記者の議論が始まる。
こうした状況ではあったが、芥川・直木賞委員会の日であったので、文藝春秋社のある大阪ビルまで出掛けてみたが、やって来ていたのは白井喬二だけであった。
また、徳田秋声の娘の結婚式が、この大阪ビルにあったレインボーという店で行なわれることになっていたが、参列者はほとんど来ておらず、その中で近松秋江が興奮気味に何かを口走っていた。

そして、この後、晩になって「忍術を語る」座談会に出席することになります。
そのくだりを引用しようと思いますが、長くなるので、それは次回にして、先に行きます。

この座談会の後、会の出席者である阿部真之助とともに東京日日新聞(現毎日新聞)の編集室に、新しい情報が入っていないかを確かめに行った。これが午後11時半頃。
日付の変わる12時頃に編集室を辞して、帰宅した。

ということになります。

これが吉川英治の2月26日でした。

ちなみに、当館の館報『草思堂だより』に当時の秘書が遺した原稿を掲載しましたが(「吉川英治先生との思い出」田中義一)、それによると、吉川英治は家人に炊き出しを命じて握り飯を作らせ、26日の夕方にそれを持って決起した兵たちに差し入れに行ったかのように書かれています。
一方、尾崎秀樹は「伝記吉川英治」の中で、それを27日のこととしています。
上記の経過を見ると、26日に差し入れに行く余裕はなかったと思われますので、27日が正しいのでしょう。

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2011年2月19日 (土)

忍者と麻の実(2)

前回から10日も経ってしまいましたが、続きを。

さて、この「麻の実を蒔いてその上を毎日跳ぶ」という修業法について「天兵童子」と「宮本武蔵」を再確認していて、以下のことに気がつきました。

まず、最初にこの修業法を描いた「天兵童子」では、吉川英治はこれを「武芸の修業」としていて、“忍法の修業”とはしていません。
この修業法を伝えた南木菩提次も、敵地に間者として潜入してはいるものの、本来は「信長の旗本」であると書かれています。

これに対して、「宮本武蔵」では、柳生兵庫助から、どうしてそんな修業をしたのかを問われた丑の助に、

「おらの村にゃいねえが、少し奥へ行くと、伊賀衆だの、甲賀衆だのっていう、忍者のやしきが幾らもあるで――その伊賀衆たちが、修行するのを見て、おらも真似して、修行したんだ」

と答えさせています。
ここで、忍者と麻の実の修業法が結びついています。

その意味では「宮本武蔵」によって、この修業法が忍者の修業法として世に広まったのかもしれません。

ところで、夏目氏は

「忍者」「忍法」は、年表の限りでは57~58年に白土、山田が使っている。。もちろんそれ以前に用例があるかもしれず、厳密には戦前の立川文庫~講談社「少年講談」シリーズ、少年小説などを調べないとはっきりしたことはいえない。

と書いています。
続けて「けれど、用例の前後は主ではない。気になったのは、なぜ戦後に「忍者ブーム」が起きたのか、ということだった」と書いているので、戦前にはさして興味もないということでしょうが、あえて「用例の前後」を考えてみると、上記のように、吉川英治は「宮本武蔵」の中で≪忍者≫の語を用いています。

また、「天兵童子」の中では≪忍法≫の語を用いている箇所があります。
主人公・天兵のライバルとなる石川車之助、後の石川五右衛門の出自について「幼少から伊賀の忍者について、忍法を練磨したという曲者」と表現しています。

吉川英治最後の少年小説である「天兵童子」に出ているのなら、最初の少年小説「神州天馬侠」はどうかと見てみると、こちらにもありました。

この作品のクライマックスは武州御岳山での兵法大講会の試合です。
その試合の項目について

「たとえば、武道の表芸、弓術、剣法はもちろんのこと、火術、棒術、十手術、鎖、鉄球、手裏剣の飛道具もよし、あるいは築城の縄取りくらべ、伊賀甲賀の忍法も試合に入れ、かの幻術と称する一派の技でも、自信のあるものは立合いをゆるすつもりでございます」

と説明しています。

「神州天馬侠」は『少年倶楽部』大正14年5月号~昭和3年12月号に連載された作品です。
つまり、昭和の初めには≪忍法≫の語は存在したことになります。

もちろん、これは吉川英治の作品の中だけなので、もっと遡れる可能性はあります。
それは小手先の調査では調べようもないので、ここではこれ以上はつっ込みません。

ところで、戦前に忍者の末裔を名乗って活躍した藤田西湖という人物がいて、吉川英治はこの人物と雑誌の企画で座談会を行なっています(吉川・藤田以外の出席者は大下宇陀児と阿部真之助)。
それが『サンデー毎日臨時増刊 新作大衆文芸』(昭和11年5月1日発行)に掲載された「忍術を語る」ですが、これを読むと、≪忍術≫≪忍道≫、≪忍者≫≪忍術家≫の語は出てきますが、≪忍法≫は出てきません。
≪忍者≫を名乗る人物は≪忍法≫の語は用いないようです。

ということを確認していて、ある見落としに気がつきました。

座談の中で、藤田西湖がこんなことを語っています。

この練習には三年間の練磨が必要です。一坪の土地に麻の実を蒔いて――麻の実は非常に延びが早い。毎日目立つて延びて行きます。その上を毎日毎日跳ぶのです、自然に高く跳べるようになるのです。

伊藤彦造の話から吉川英治の創作だと思い込んでいましたが、作品に書く前に、藤田西湖の口から聞いていたことになります。
一度読んでいる文章なのに、この件を忘れていました。お恥ずかしい。

ということは、ネタの大元は藤田西湖で、吉川英治は世に広めただけ、ということになるのでしょう。

もっとも、藤田西湖は三年が必要としているものを、吉川英治は短期間で飛躍的に跳躍力がつく練習法のように書いているところが異なっていますが。

ちなみに、これが本当の忍者の訓練法なのかについては、少々眉唾な気がします。
何しろ、藤田西湖は、この件の直前に、風呂敷を両手と口で三方に広げてパラシュート状にして四十五尺(およそ13.5メートル)の高さから飛び降りることに成功した、という話をしているのです。
どうにもうさんくさい(笑)

ここから先は藤田西湖研究ということになるので、私は手を引きます。

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2011年2月 8日 (火)

忍者と麻の実(1)

このブログのアクセス解析からたどって、こんな文章に行き当たりました。

以下の話はこのブログに書いたことがあるように思っていたのですが、検索しても引っかかってこないので、気のせいだったようです。
そこで、この機会にご紹介してみます。

私が小学校の頃に買った子供向けの忍者について書いた本にも、忍者の修業法として、「成長の早い麻の実を蒔いて、その上を毎日飛び越えて、跳躍力を鍛える」という方法が出ていました。

夏目氏も触れているように、この修業法は吉川英治の「天兵童子」に登場するのですが、単に登場するだけではなく、実は、これは吉川英治が創作した修業法なのです。

「天兵童子」は『少年倶楽部』昭和12年9月号~15年4月号に連載された作品。
その序盤に「地へ蒔く麻の実」「知らずや天兵」という章がありますが、そのタイトル通り、ここに上記の修業法が登場します。

この修業法は、あるヒントから吉川英治が創作したということを、この「天兵童子」の連載挿絵を担当した画家の伊藤彦造(伊藤新樹)が書き残しています。

(略)吉川先生がひょっこり訪ねて来られたことがあった。
「あなたは一刀流の使い手で、伊藤一刀斎が御先祖だそうだが、一度真剣の使い方を見せて下さらぬか」とのご注文であった。
 そこで私は秘蔵の大和雲林院の銘刀を持ち出し、抜き付け・飛びちがい・飛び斬り・突き・抜き打ちなど、五本ばかりを連続にお目にかけた。
「すごいですなあ。(略)特に抜き付けと同時に天井へ飛び上がったには驚きました。あれはどんなにして勉強するのですか」
 さすがの吉川先生も逆斬りと飛び斬りに、すっかり度肝を抜かれたらしかった。そこで飛び上りの練習として低い障害物を飛び越えることからはじめ、だんだんとそれを高くして足腰を練っていくのです、とお話しした。それが後の作品「天兵童子」の、「天兵」が麻の芽を飛び越えつつ、飛び上りの練習をするという場面を生んだのであった。
(『吉川英治全集月報』27号収録「吉川先生と私」より)

伊藤彦造の話が確かならば、段階的に障害物を高くしていくという、ある意味ありきたりな修業を、生長する麻に置き換えたわけで、そこに吉川英治の天才的なひらめきを感じます。

伊藤彦造は、「天兵童子」以前に「万花地獄」(『キング』昭和2年1月号~4年4月号連載)の連載挿絵も担当していますが、わざわざ剣の使い方を見学したいというところから推すと、この話は吉川英治が「宮本武蔵」を書き始める昭和10年(連載は昭和14年まで)前後の話なのではないかと思えます。

その「宮本武蔵」にも、この修業法は登場します。
それが、終幕に近い「円明の巻」の「麻の胚子(たね)」という章です。

ここでは、柳生家に仕えて剣の修業をすることを希望する荒木村の少年・丑の助が、今までどのような修業をしたのかと柳生兵庫助に問われ、答えるのがこの修業法です。

ちなみに、この丑の助少年については、自分の家は先祖代々「又右衛門」を名乗っていて、いずれは村の名をとって“荒木又右衛門”を名乗るつもりだと語らせています。
つまり、“鍵屋の辻”の荒木又右衛門ですね。

ちょっとサービスが過ぎるんじゃないかなという気もしてしまうキャストです。

(110219追記)
重要な見落としがあったので、パート(2)でそのことに言及します。

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