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2011年10月20日 (木)

アートプログラム青梅

今年も≪アートプログラム青梅≫に会場を提供しています。

今年の当館での展示作家は、高柳恵理氏と吉川陽一郎氏の2名です。

アートプログラム青梅は今週の土曜日、10月22日から開始ですが、昨日までに両氏の展示作業が終了しているので、少々フライングですが、もう公開を始めています。

というか、母屋の中(高柳氏)、庭・展示室ロビー(吉川氏)は、常時、人が見学できる所ですから、隠しようがありませんので、展示作業が終われば自動的に公開されてしまう、ということなわけですが。

正式なスタート前なので、まだ事務局から作品のキャプションなどが届いていないため、何の説明もなく、わかりにくいかもしれませんが、興味のある方はぜひお運び下さい。

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2011年10月10日 (月)

テレビ

先月、日本テレビ系で放送された「真実発掘ミステリー 歴史はこうしてつくられる」という番組に、一瞬出演しました。

元々は、この番組で宮本武蔵を取り上げるので、吉川英治の小説「宮本武蔵」の関連資料の撮影をしたいという依頼だったのですが、コメントも撮りたい、ということになって、インタビューを受けた、という次第です。

吉川英治が『宮本武蔵』を執筆した動機や当時の様子を話して欲しいということだったので、事前に話す内容を原稿にしてみました。
いい加減なことを話すわけにはいきませんし、私はあがりやすい性質でカメラが回ると緊張してトンチンカンなことを言い出すかもしれないので、話の方向を決めておかないと不安だからです。

さて、放送当日、私はちょっと残業していたため番組を見損ねたのですが、その日以来、何度か知り合いから「テレビに出てたでしょ?」と声をかけられることがあったので、いったいどんな具合に登場したのか、気になっていたのです。
先日、番組制作会社から番組を録画したDVDが送られてきたので、ようやくどんな様子かわかりました。

こんな一瞬なのに、よくみんな気がついたな、というのが感想です。

結構話したのに、ほんの一瞬だけだったので、ちょっと悔しい。

ということで、上記の事前に用意したコメントの原稿を、ここに掲載してみます。

昭和7年ごろに直木三十五と菊池寛の間で『宮本武蔵名人非名人論争』というものが起こりました。
これは、簡単に言うと、毒舌で鳴らした直木三十五が、武蔵は「五輪書」に生涯で60回以上も試合をして負けなかったなどと書いているが、当時の有名な剣士とは試合をしていない、弱い相手とばかり戦っている、それでは名人と言えない、と武蔵を批判したのに対して、菊池寛が、武蔵の「五輪書」は哲学的にも優れているし、内容も実践的で、名人でなければ書けるものではない、と反論した、というものです。
そんな頃、この直木三十五・菊池寛の両者と交流のあった吉川英治が、ある新聞の座談会でこの2人と同席したところ、直木から、吉川はどう思うのだ、と話をふられたため、自分の考えはいずれ小説に書く、と言ってその場をおさめたということがありました。
それが吉川英治が「宮本武蔵」を書くことになったきっかけの一つと言われています。
ちなみに、吉川英治は、菊池寛と同様「五輪書」を評価していましたから、名人論の立場に立って宮本武蔵を作品化しようとしていたと言えるでしょう。
一方で、実際に「宮本武蔵」を書くにあたって、どのような思いを込めたかを、昭和11年に刊行された初版本第一巻の序文に書いています。
それは
「あまりにも繊細に小智にそして無気力に堕している近代人的なものへ、私たち祖先が過去には持っていたところの強靭なる神経や夢や真摯な人生追求をも、折には、甦らせてみたいという望みも寄せた。とかく、前のめりに行き過ぎやすい社会進歩の習性にたいする反省の文学としても、意義があるのではあるまいか、などとも思った。」
というものです。
私なりにまとめれば、明治以降、日本人が欧米に追いつこうとして取り入れてきた近代思想や合理主義に対して、日本人がその歴史の中で培ってきた日本人らしい心、精神性を置き去りにしてはいけない、今こそそれを取り戻さなければならない、というようなことになるでしょうか。
小説「宮本武蔵」の中で、主人公である武蔵は、初めは粗野でただ強いだけの若者として登場しますが、沢庵や本阿弥光悦など一流の人物たちとの交流の中で、日本の文化の奥深さを知り、剥き出しの力を精神によってコントロールしていくことを理解していきます。
小説「宮本武蔵」のラストシーン、佐々木小次郎との闘いに決着がついた後、なぜ武蔵は小次郎に勝てたのかについて
「小次郎が信じていたものは、技や力の剣であり、武蔵の信じていたものは精神の剣であった。それだけの差でしかなかった。」
と書いていますが、そこに端的に吉川英治の思いが表れています。
それを読者に訴えるために、吉川英治は、一つの理想像として架空の≪宮本武蔵≫という人物を造形したのであって、史実を書いたわけではありません。
ですから、「宮本武蔵」連載終了後に書き下ろした「随筆宮本武蔵」という本の序文で、
「小説が読まれれば読まれるほど、作家の創意と、正伝の史実とが、将来、混考されてゆかれそうな惧れがある。」
と書いて、小説はあくまでも小説で史実ではないと強調しています。
にもかかわらず、吉川英治が造形した≪宮本武蔵≫が、史実のように人々に信じ込まれたのは、吉川英治の筆の力と、読者自身の、ヒーローにはそうあって欲しい、という願望のなせるわざだったのではないでしょうか。
また、吉川英治は、ひとつの理想的日本人像を描き出すために宮本武蔵を素材として用いたのであって、宮本武蔵の実像を描こうとしたわけではありませんから、「沼田家記」などの資料が、執筆当時に知られていたとしても、おそらくそれを取り入れることはなかったでしょう。

太字にしたところが、番組で使われた部分です。

ちょっと悔しい気持ち、わかってもらえます?

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