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2012年6月30日 (土)

TV時代劇の日

明日7月1日は「TV時代劇の日」だという記事を見かけました。

吉川英治の作品でテレビドラマになったものというと、まずはNHKの大河ドラマになった「新書太閤記」「新・平家物語」「私本太平記」「宮本武蔵」が挙げられます。

この4本の大河ドラマ以外に、私が把握している限りでは29本のテレビドラマがあります。
大河ドラマも含めた内訳は

「宮本武蔵」=9本
「鳴門秘帖」=4本
「新書太閤記」=3本
「新・平家物語」=2本
「天兵童子」=2本
「あるぷす大将」=2本
「神州天馬侠」=2本
「牢獄の花嫁」=2本
「旗岡巡査」=1本
「左近右近」=1本
「玉堂琴士」=1本
「月笛日笛」=1本
「龍虎八天狗」=1本
「吉野太夫」=1本
「私本太平記」=1本

この他に、吉川作品を舞台化したものの中継だとか、調べのついていないものだとかがあるのですが、それはとりあえず置いておきます。

年代で見ると

昭和30年代=16本
昭和40年代=9本
昭和50年代=4本
昭和60年以降=4本

となりますので、テレビ草創期に貢献したという感じになるでしょうか。
初期の『少年マガジン』に吉川作品を漫画化した作品が複数掲載されていたことと、パラレルな印象を受けます。

また、そういう目で見ると「天兵童子」「神州天馬侠」「左近右近」「月笛日笛」「龍虎八天狗」といった≪少年少女小説≫が多いのも、興味深いところです。
「あるぷす大将」も主人公が少年なので、ここに含めてもいいかもしれません。

「旗岡巡査」と「玉堂琴士」はいずれも短編作品ですので、ドラマ化されたものも単発のものです。
そういう単発ものは結構あって、9本もあります。
もっとも、テレビ東京系で新年にやっていた≪12時間ワイドドラマ≫から、複数の原作に基づく連作もののうちの1本というものまで、その性質や放送時間は様々ですが。
「宮本武蔵」「新・平家物語」「新書太閤記」では、その一部のみを単発ドラマにしたものもあります。

残念なのは、吉川英治の作品には同じ主人公による連作が無く、そのためシリーズ化されにくいという点です。
半七や平次や佐七、金さんに桃太郎侍、そういうキャラクターを生み出さなかったので、大河ドラマのような重厚長大なドラマにはなっても、気軽に楽しめる一話完結の庶民的な連続時代劇は生まれないということになってしまうわけです。

作品が映画を意識していると批判された吉川英治も、さすがにテレビ時代にどういう作品が向いているかまでは想像しようがなかったのでしょう。

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2012年6月25日 (月)

写真コンテスト選考会余話

先日、全国文学館協議会の懇親会の席で、当館同様写真コンテストを開催している新潟市会津八一記念館の方と話をしていたところ、「下選考などはしないのですか」と聞かれました。

当館の写真コンテストの場合は、事前に写真の絞込みなどはせず、選考会の日に応募された全作品を選考会場に並べて、そこで一気に選考してしまいます。

最初に3人の選考委員が付箋を手にして、並べられた写真の間を歩き回り、気になる作品に付箋を貼っていき、頃合を見て付箋のついた作品だけを集め、その作品数によって二次選考、三次選考を行ない、最終的な作品数(25~30作品)に近づいたところで、吟味を始めます。

まず撮影者の名前をチェックします。
入賞は1人1作品としていますので、複数の作品が候補に残っている人がいないか確かめ、どれか1作品だけを残すようにするわけです。

その後、作品数を調整し、その上で上位作品を決めていく、という流れです。

一連の作業のうち、一番大変なのは、選考会の始まる前に全応募作品を並べることです。

募集テーマによって応募点数に上下はありますが、多い時は1000点を超えたこともあります。
これを3人くらいで、選考委員が見やすいように、写真同士が重ならないよう注意して並べるのは、かなりの手間です。

さて、今年は応募者が145名、応募点数は423点でした。
ちなみに、前回は147名から407点の応募がありました。
ほぼ同じ点数です。

ところが、いざ作品を並べてみると、前回よりわずかながら点数が多いにもかかわらず、前回よりも狭い面積で並べ終えてしまいました。

あれっ、と思い、よくよく見回してみると、総じて写真のサイズが小さい気がします。

当館のコンテストでは応募の際の写真サイズを「キャビネ以上四つ切まで(ワイド可)」としています。
選考の際は大きい方が見栄えが良いですし、入賞作品は展示することを考えると、大きく引き伸ばしてもピントがビシッとしているものの方が、選ばれやすくなります。

ですから、四つ切で応募なさる方は結構いらっしゃるのですが、今年はそこを六つ切り程度に抑えた人が多かったようです。
四つ切でプリントすると結構お高いですからね。

それと、デジカメで撮影して、自宅のプリンターからプリントアウト、という方も多かったようです。
この場合はプリンターのサイズにも左右されますが、A4サイズあたりが増えます。

そんなこんなで、写真のサイズが小さいのは、並べる作業は楽になるのですが、なんだかちょっとさびしい感じもしたのでした。

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2012年6月24日 (日)

第15回吉川英治記念館写真コンテスト入賞者発表

予告より一日遅れましたが、第15回写真コンテストの入賞者を発表いたします。

☆金賞(1名)
「あたたかいけど重いの」田中和夫(逗子市)

☆銀賞(1名)
「ニューファッション」中村光雄(和歌山市)

☆銅賞
「朝市おばちゃん(4枚組)」山崎秀司(太子町)

☆佳作(3名)
「コスプレ(3枚組)」伊藤知髙(生駒市)
「夜明けの出漁」添田英治(二宮町)
「ひと夏の思い」竹川義之(川越市)

☆特別賞(23名)
「化粧中」浅岡由次(知立市)
「ほらっ豊年エビ」石川賢一(高知市)
「花弁を支える露」内田志津子(国立市)
「おでかけ」小藏武三(草津市)
「控室へ」鹿島秀夫(さいたま市)
「朝の露」小久保英夫(恵那市)
「残業」近藤洋(宝塚市)
「それぞれの努め」齊藤芳正(横須賀市)
「出番待ち」佐伯範夫(安来市)
「雨宿り」城田祥男(久御山町)
「お熱計りましょ!」鈴木修吉郎(鎌倉市)
「宝石」竹尾康男(宮崎市)
「ハート・スポット」竹村悦子(高知市)
「自慢のあおさ海苔」橘初雄(神戸市)
「女子パワー」谷内浩(桑名市)
「あふれる思い」直井和子(札幌市)
「お勤め」中世古健吾(伊勢市)
「二人の秋」長谷川悟(栗東市)
「とても楽しいのだろうな」幅周一(大田区)
「髪飾り」早川英夫(春日部市)
「靴直し」藤代彰憲(大阪市)
「雨のち晴れ」藤森保男(岡山市)
「秋空の下で」米倉辰雄(東京都北区)

以上、29名の方々、おめでとうございます。
(入賞辞退者が出たのでその方の名を削除しました。120703)

通知の方はこれから発送しますので、少しお待ち下さい。

なお、上位の6作品は準備が出来次第、記念館ホームページ上に公開いたします。
お楽しみに。

展示スケジュールなどはまた改めて告知します。

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2012年6月22日 (金)

写真コンテスト

昨日、第15回になる写真コンテストの選考会を行いました。

以前書いたような作業をした上で、明日、結果を発表いたします。

応募者の方、楽しみにお待ち下さい。

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2012年6月19日 (火)

関東では、梅雨の最中に台風までやって来るという雨だらけの日です。

そんなわけで、吉川英治の梅雨や雨の句を数句、ご紹介します(一応季節の合うものを)。

雨蛙啼くや女の肌を見て
霧雨に鳴海しぼりが舟を下り
五月雨に黙し合うたる二人かな
女等は三味線持てり雨来れば

このあたりはちょっと色っぽい感じが漂いますね。

梅雨空のどんより町や酒屋藤
絵看板込み合ふ傘に細き雨
雨の庵茶釜の湯気がスート立ち

最後のものは≪女優≫のお題で作られたへなぶりです。

紫陽花の一夜嵐に褪め果てし色を悲しむ老女優かな

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2012年6月18日 (月)

将門

北方謙三さんが最初に読んだ吉川作品は「松のや露八」で、主人公の転落人生に、何だこれは?と困惑したという話に、昨日触れました。

翻って考えてみると、私が最初に意識して読んだ吉川作品は「平の将門」でした。
北方さんのように中学生ではなく、20代になってからですが。

しかし、ちょっと違和感を覚えたことは、共通体験と言えるかもしれません。

私が中学生の時、たまたま学級文庫に海音寺潮五郎の「平将門」があったので、それを読みました。
その後、読み直していないので内容はうろ覚えですが、そこで描かれた将門の姿に、やがて訪れる武家の世、地方勢力の台頭、その先駆的な人物で、勇猛なサムライという印象を受けたのですが、吉川英治の描く将門像はそれとは随分違います。

純粋で善良だが、その裏返しでもあるかのような愚鈍さ、無知、そういったものを抱えた人物、そういう将門像なのです。
そのため、周囲の悪意や権謀術数に振り回され、気がついたら朝敵になってしまっていた、という、どうにも行動に自発性の感じられない、受身な人物に見えてしまうのです。
野心家で策謀に長けた人物として描かれる藤原純友の方が、むしろ魅力的に見えます。

これが「宮本武蔵」の作者が書いた作品なのだろうか?と、戸惑ったのでした。

もっとも、一通りの作品に目を通した今は、こうした世間知を持たない野生の人物を、吉川英治は好んで書いていることに気づきましたが。

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2012年6月17日 (日)

露八が先

一昨日の北方さんの講演で興味深かったことの一つが、北方さんが最初に読んだ吉川作品が「松のや露八」だったことです。

「松のや露八」はこんな作品です。

中学生の時のことだそうですが、中学生が読むにはちょっと渋すぎる気がします。

実際、講演の中で、剣豪の榊原健吉も登場しているのに特にチャンバラのシーンも無いし、露八は女に身を持ち崩して転落していくだけだし、なんだこれは?と思ったという感想を述べておられました。

もっとも、後年、売れっ子作家となり、≪月刊北方≫と揶揄されるほど盛んに執筆していた頃に改めて読み直した時には、露八の生き方に対して「俺もこんな風に自由に生きたい」という感想を抱いたのだそうです。

これは、講演中の話ではなく、講演後に楽屋で話しておられたことですが、「松のや露八」の後、次は「宮本武蔵」を読んだが、中学生の自分にはお通は理想の女性だった、しかし、いま読み直すと、こんなどこまででもついてくる女はかなわないと思う、ともおっしゃっておられました。

中学生と大人では、同じ作品でも抱く感想が違う、人生経験は読後感を変えてしまう、という、当たり前と言えば当たり前な話ですが、しかし、逆に言えば、そうした様々な読み方ができると言うことが、文学の懐の深さということになるのでしょう。

ところで、以前こんなことを書きましたが、この≪露八=又八≫ということに中学時代の北方さんは気づいたそうで、それを今回の講演で話すつもりでいたところ、直前に第一部として話をした吉川英明が、吉川文学の転機として≪露八=又八≫の話をしてしまったので、話すことが無くなった、なんてことも話しておられました。

講演ではその他に、ご自身の青春時代、文壇裏話なども飛び出して、面白かったのですが、そのあたりは吉川英治とはおおむね無関係でしたので、ここでは触れません。

とても良い講演会でした。

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2012年6月16日 (土)

小説の意義

昨夜、青梅市民会館で吉川英治没後50年記念講演会が開催されました。
実質的に青梅市の主催で、講師は第一部は当館館長の吉川英明、第二部は北方謙三さんでした。

北方さんのお話の中で、印象に残った興味深いエピソードがありました。

今までに、小説は無力だ、と感じたことが2回あったというのです。

一度目は西アフリカを旅行した時のこと。
最貧国に数えられる某国を訪ねた際、自動車を借りて走らせていると、路傍に放置されている餓死死体を見つけた。
それを見ていると、腹だけがポコンと膨れた、飢えた子供たちが集まってきた。
その姿に、この子供たちの飢餓に対して小説など無力だ、と衝撃を受けた。
そんな思いを引きずったまま、隣国に移動し、とあるホテルに滞在することになり、そこのフロントの若い女性と仲良くなった。
ある日、ホテルの前のベンチに腰掛けて、物思いにふけっていると、隣のベンチにそのフロントの女性がやって来た。
すると、そこに彼女と親しいらしい若い女性がやって来た。
彼女たちの話す言語がわからないので、話している内容はさっぱりわからなかった。
しばらくすると急に静かになったので、ふと目をやると、後からやって来た女性が天を仰いで号泣している。
実は、文字の読めないその女性に対して、フロントの女性が小説を読み聞かせてやっていたのだった。
そして、その作品に感動して涙もぬぐわずに泣いていたのだ。
その姿を見て、小説は飢餓には無力だが、こうして人の心を動かすことが出来るのなら、小説にも確かに意味がある、と思い直した。

二度目は昨年の東日本大震災。
巨大な堤防を設置し、防災の見本地区と思われていた田老地区は、この震災による津波で壊滅的な被害を受けてしまった。
そこに住む男性から、手紙が届いた。
そこには、津波で何もかも失ったが、次第に食料を得られるようになり、住む場所も出来、どうにか落着いてきた。
そんな時に、高台にあって被害を受けなかった学校に行き、そこで北方「水滸伝」を見つけた。
もともとその作品のファンだったので、全巻をむさぼるように一気に読んだ。
そんなことが書かれた手紙は、「この作品を書いてくれてありがとう」という言葉で結ばれていた。
震災の被害に対する小説の無力さを感じていたけれども、この言葉に接して、むしろ「読んでくれてありがとう」と思った。

この二つのエピソードに対し、関東大震災の被災者でもある吉川英治が、他の被災者と接するうちに「文学の業の意義深き」を感じて、作家の道を目指したという話との共通性を感じました。

来場者の中には、吉川英治とはかけ離れた内容の講演と感じた方もいらっしゃるかもしれませんが、こういう方向から見ると、ちゃんと吉川英治に対するオマージュになっていた(無意識的にとは思いますが)のだなあと、私には感じられました。

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2012年6月15日 (金)

写真

一昨日、全国文学館協議会という組織の総会がありました。

そこで今回話題になったことの一つが写真の著作権の問題。

それとは直接の関係はないのですが、以前経験した釈然としない話を思い出しました。

元カメラマンの方から、こういうお問合せの手紙をいただいたことがありました。

若い頃雑誌の取材で撮影した吉川英治の写真があるのだが、撮影データを紛失してしまって、いつ撮影したものかわからなくなった。そちらでわかるだろうか?

お問合せいただいたので、こちらにある写真資料を調べ、わかったことを返信しました。
すると後日、礼状が届いたのですが、その中の一文が、ちょっと引っかかったのでした(記憶で書いているので文章はそのままではありません)。

もしご必要なら実費でプリントいたします。

もちろん、写真をプリントするには印画紙などの材料費がかかります。
かかりますが、その時の私は、ふとこんな思いにとらわれたのでした。

私が問合せを受けて調査するのは“タダ”で、お礼に提供すると言う写真は有料なの?

「実費でプリント」という言葉の意図は、わかりません。

「私には著作権があるので、本来ならば著作権料を頂くところだけれど、調べてくれたお礼に実費だけで良いですよ」ということかもしれませんし、単に「写真をプリントするのは結構お金がかかるので、そこは勘弁してくれよ」ということなのかもしれません。

しかし、その日の私は、その文章にカチンときたのでした。

興信所ではないので、調べて得た情報に金を払えと言う気はありません。
まして、このインターネットの時代です。
タダでいくらでも情報が得られる(まあ、偏りがある上に玉石混交ではありますが)このご時世に、自分が他人に提供する情報が≪カネを取れるもの≫であるという自信はありません。

問合せに答えるのはサービスの一環ですし、そうすることが、緩やかな広報活動にもなると捉えてもいます。

でも、何か、「実費でプリント」と言われると、バランスが取れていないような気がしてしまう、そういう心の狭い自分も、私の中にいることは確かなのです。

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2012年6月14日 (木)

三笠宮殿下

本日、先頃お亡くなりになった三笠宮寛仁殿下の斂葬の儀が執り行われると報道で見ました。

吉川英治は、寛仁殿下の父・崇仁殿下と交流があったことは、このブログで書いたことがあります。
歴史学者でもある崇仁殿下が、多くの歴史学者たちとともに、現在記念館になっている吉野村の吉川邸を訪ねていらしたこともあります。
その際の寄せ書きは、現在、北九州市立文学館での吉川英治展に出品しています。

当館館長の吉川英明は吉川英治の長男ですが、寛仁殿下とは、それぞれの息子同士、何か交流があったのかと尋ねてみたところ、取り立てての交流はないけれど、飲食店などで顔を合わすと会話を交わすくらいの仲ではあったそうです。

神道に冥福という概念があるのかどうかよくわからないのですが、ご冥福をお祈りいたします。

ところで、こんなところで書く話ではないかもしれませんが、以前、吉川館長からこんな話を聞き、興味深いと思ったので、ご紹介してみます。

上記の通り、吉川英治は崇仁殿下と交流があったのですが、そのため時々、殿下本人から電話がかかってくることがあったそうです。
ある時、たまたま若き日の吉川館長が電話に出たところ、相手が「三笠です」と名乗ったので、一瞬誰のことかわからなかったそうです。

ご自分には≪宮≫をつけないものなんですね。

寛仁殿下は崇仁殿下がご存命のため、将来、嗣子として≪三笠宮≫を継ぐという前提で宮号がなく、厳密にはまだ≪三笠宮≫ではない、という形になっていたそうで、ご本人もそのような発言をされているそうですが、果して、電話の名乗りはどうされていたのでしょうか。

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2012年6月13日 (水)

吉川英治と競馬

日本中央競馬会(JRA)が発行している『レーシングプログラム』というその日開催されるレースの情報を掲載した冊子に、『競馬を愛した人々』という連載が掲載されており、その第4回として吉川英治が取り上げられています(2012年4月14日号・15日号)。

発行からは時間が経っていますが、数日前にそれが手元に届き、内容を読んでみたところ、吉川英治と競馬の関係がコンパクトに良くまとめられていました。

冊子の性格上、特定の人の目にしか触れませんし、その日のレースが終わってしまえば不要になるものですから、あまり人に読まれることもない文章でしょう。
それはちょっと惜しいなと思っていたら、JRAのサイト上に同じ文章が公開されていました。

こちらです。

さらに、吉川英治が亡くなった直後に書かれた井上康文による『吉川英治氏と競馬』という文章も公開されていました(上記のページ内で表示されます)。

せっかくなのでご紹介しておきます。
ご一読を。

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2012年6月12日 (火)

児童労働

6月12日は、2002年に国際労働機関が制定した≪児童労働反対世界デー≫なのだそうです。

ここで言う≪児童労働≫とは、子供の労働全てを指すのではなく、あるサイトの記述にしたがえば、「15歳未満(途上国は14歳未満、つまり義務教育を受けるべき年齢の子供)の労働と、18歳未満の危険有害労働」と定義されているようです。

ろくに学校へも通わせてもらえないまま労働を強要されたり、大人並みの危険な労働を強いられながら子供だからと低賃金でこき使われる、というような状況を指すのでしょう。

今の日本ではそういう意味での児童労働はほとんど無いと言えるでしょう(児童ポルノや性風俗産業を除けば)。
むしろ、国際的には、そうしたものを失くそうと率先的に声を上げる側にいると言えます。

しかし、吉川英治が少年時代を過した明治の日本では、まだそうした風潮は存在していました。
そもそも吉川英治の経歴の中に、児童労働と指摘されかねないものが含まれています。

吉川英治は11歳の時に、家運が傾いたため、小学校を中退させられ、印章店の小僧として住み込みで働くことになります。
これは義務教育を修了しないうちに学業を中途で辞めさせている訳で、児童労働にあたるでしょう。

その後、吉川英治は自叙伝「忘れ残りの記」や、そこに掲載された『自筆年譜』によれば、印刷屋の活版工、税務監督局の給仕、雑貨商の店員などを経て、17歳の時に横浜ドックの船具部に就職しています。
この船具部の仕事はかなり危険を伴うもので、実際、吉川英治は船のペンキの塗り替え作業中に、足場ごとドックの底へ転落し、大怪我を負っています。
これも児童労働に属すると言えるでしょう。

もっとも、吉川英治によれば、横浜ドックでは規則上は20歳以上でないと採用しないことになっていたので、年齢を偽って入社したといいますから、自ら進んで児童労働に首を突っ込んだ、とも言えます。

ちなみに、ドックに勤め始める前には、日雇いの土工もやっており、それも児童労働になるような気がします。

吉川英治の場合には貧困のため、やむなく児童労働に従事していたわけですが、そこに埋もれることなく、独学で作家になる事が出来たのは、本人の意志の力や、偶然にもたらされた幸運を掴み取る才覚があったからでしょう。
もちろん、吉川英治はそうして自力救済したのだから君たちもガンバレ、で済む問題ではありませんが。

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2012年6月11日 (月)

ことわり屋

昨日リンクをつけた先は、以前書いた吉川英治作の≪新作落語≫のひとつ「夢ビル」のあらすじをご紹介したページでした。
私はこの作品を広い意味でSFの一種と捉えているので、「日本SFこてん古典」の編者である横田順彌氏には、どうせならこの作品に目を留めて欲しかったという意味でリンクをつけたものです。

さて、吉川英治の新作落語と言えば、これまた更新をサボっている間に終わってしまったイベントの一つが≪草思堂落語会≫です。
連休直前の4月28日に開催しました。
今年も演者は柳家禽太夫師匠でした。

例年、若手の噺家さんと禽太夫師匠の2人で3本やっていただき、そのうちのひとつに吉川英治の新作落語をやる、という形でやっています。

今回やっていただいた吉川英治作の新作落語は「ことわり屋」でした。
実は、昨年も演じていただきましたが、口演するには作品が短かいということで、古典落語を演じる前に枕的にちょっとやってみる、という形でした。
今回はそれを改めて本編として演じてくださいました。

無職の熊さんは、ご隠居から新商売≪ことわり屋≫をやってみないかと持ち掛けられる。
要するに、借金取りの断りなどの厄介なことを、本人に代わって断ってやり、いくばくかお代を頂戴しようという商売だ。
これなら身体ひとつあれば簡単に始められると言うので、熊さん、早速、「ことわり屋~、断り~」と街を流し始めるが、持ち込まれるのはおかしな仕事ばかりで……

という内容の話です。

ところで、今回の落語会では、若手として前座の林家なな子さんがいらっしゃいました。
林家正蔵師匠のお弟子さんだそうです。
名前の通り女性です。

女性とは珍しいと思い、打ち上げの席で色々聞いてみようと考えていたのですが、打ち上げには参加せずにお帰りになりました。
なんでも正蔵師匠の一門では、前座のうちは打ち上げなどの席には参加させない、酒を飲ませない、という決まりがあるのだそうです。

それを意外と言っては失礼なのでしょうね。
どうも、「こぶ平!」と呼ばれて、バラエティ番組でいじり倒されていた頃の姿が浮かんでしまうので、ついね。

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2012年6月10日 (日)

青空士官

これまた更新をサボっている間に、イベントが一つ終了してしまいました。

実は5月12日~25日に東京駅近くの八重洲ブックセンター8階ギャラリーで小規模ながら「没後50年記念 読み継がれる吉川英治文学」展を開催していたのです。
本格的な展示というよりも、出張展示という感じのもので、ご覧になった方が興味をもって吉川英治記念館まで足を運んでくれれば良いな、という企画です。

会場側からの要望もあり、会場の監視係はこちらで出すことになり、私も会期中何日か八重洲ブックセンターに出向いたのですが、何しろ場所が書店です。
合間合間に店内をウロウロして、何冊も本を買ってしまいました。

そのうちの1冊が横田順彌「近代日本奇想小説史 入門編」(2012年3月24日 ピラールプレス)。
この中の『近代日本奇想小説史番外編 児童向け戦後仙花紙本の奇想小説』という章の中に、吉川英治の「青空士官」が取り上げられていました。

さて、この作品をどういう観点で取り上げたのか、その内容をどう紹介しているのか、というと、「短篇戦争小説集」「三十八篇のショートショート集」「スパイ小説や世相風刺小説なども数篇含まれている」という文言が文章中に並んでいます。

あれ、「青空士官」というと、吉川英治には珍しい現代小説で、新聞社の伝書鳩係として仮採用された青年が、恋人とのすったもんだの末に、特ダネをものにして新聞社に本採用され、自身も恋人と結婚する、といった内容の小説のはずだけどな、横田氏が取り上げている昭和22年の早川書房版は編集が違うのだろうか?

ちょっと不可解だったので、現物を書庫から出してきて読んでみました。

小説の内容は私の記憶通りで、また、これ1冊が全て「青空士官」に当てられていて、短編集などではありません。

大体、「青空士官」は、『婦人公論』の昭和10年1月号~12月号に1年間連載された作品なので、短編ではないのです。
それに、上に書いたように、新聞社の伝書鳩係の話で、それゆえにタイトルが「青空士官」なのであって、戦争小説でもありません。

横田氏の本は何冊か読んでいて、大学生の頃にちょっとした講演も聴いたことがあります。
吉川英治の遠縁にあたる人物で攻玉社の創立者である近藤真琴が翻訳した「新未来記」が、日本初の翻訳SF小説と言われていることを知ったのも氏の著書によってでした。

しかし、これはいただけません。

目次が16項目に分かれ、小見出しが38あるというところまで細かく書いているのに、どうしてこんな勘違いをしたのでしょうか。
不思議なことです。

それにしても、どうせ吉川英治に目をつけるなら、横田氏にはこの作品あたりを取り上げてもらいたかったですね。
ペンネームが違うので気づかないかもしれませんが。

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2012年6月 9日 (土)

論文

私はよく冗談で、「読者は少ないが研究者が多いのが純文学、読者は多いが研究者は少ないのが大衆文学」などということを言ったりします。

実際、「吉川英治の研究といえばこの人」という方は、あまりいらっしゃいません。
また、「吉川英治の研究をしているので○○について教えて欲しい」とか「研究のために□□という資料が見たい」といったご要望を、当館に寄せられる方も、滅多にいらっしゃいません。

その滅多にないことが、数年前に複数、重なったことがあります。

吉川英治を取り上げて修士論文を書きたいという人が2名、卒業論文を書きたいという人が2名、同じ頃に現れたのです。

面白いのは、4名のうち3名が「三国志」を取り上げようとしていたこと(ちなみに残りの1名が取り上げた作品は「新書太閤記」)。
また、4名中3名が女性であったこと。
そして、修士の2名は外国出身者であったこと。
いずれも、戦時下での執筆意識の問題に関わることに関心を持っていたこと、です。

最初の点は、現状、最も読まれている吉川作品が「三国志」であることを考えると、そう不思議でもないのですが、女性や外国出身者が吉川英治に関心を持つというのが、意外でした。
それと、同じ時期に、似たような傾向の研究をしたいと考える人が重なったことも。

私はポンコツ学芸員なので、今思うとご要望に十分応えられなかったのではないかと危惧していますが、それでも、こうして吉川英治について真面目に研究したいという方には、協力は惜しまないつもりです。

もっとも、当館の収蔵資料も完璧ではありませんので、所蔵がなくてご提供できないものや、資料の性質や当館の事情からご提供できかねるものもあります。

それは念頭に置いた上で、ご相談いただけば、可能な限りの対応はいたします。

うまく吉川英治記念館を活用していただければ、こちらとしても幸いです。

ちなみに、この時に卒論のための調査に来た女子学生が、後年、修士論文の調査にもやって来て、このまま研究者として吉川英治を対象にしてくれれば嬉しいなと思っていたのですが、残念ながら博士課程には進まずにまったく無関係の仕事に就職してしまったことを知りました。

やはり読者は多くても研究者は少ないのですな(苦笑)

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2012年6月 8日 (金)

岩登りと岩汚しは同義語か

しばらく前の朝日新聞多摩版に、御岳渓谷でボルダリングが人気沸騰中だ、という記事が出ていました。

実際、週末に御嶽駅や青梅駅に行くと、ボルダリングの際に用いる落下の際の怪我防止用のマットを背負った若い人達の姿を多く見かけます。

以前、地元の観光関係者の方と話している時に、「最近多くなった中国人観光客を青梅にも呼び込みたい」という話題になりました。
そのために実際に青梅を見てもらう誘致活動をしたいというので、どんなところを見せるつもりなのかと聞いたところ、御岳神社や塩船観音などの社寺を挙げたので、私は反対しました。

「中国人は日本の社寺文化を自分たちの国の亜流だと思っているので、それでは興味を示さない。それよりも中国ではまだ広がっていないだろうアウトドアスポーツを体験させてはどうか。中国でできないことをPRしないと意味がない」というのが、その際の私の意見でした。

しかし、地元の観光関係者の多くは、御岳渓谷で近年増加したカヌーやボルダリングの愛好者は、観光の障害になっているという意識が強く、彼らを活用するというアイデアには消極的でした。

観光の障害とはどういうことかと言えば、以前にこんなことを書きました。

さて、朝日新聞の記事では、御嶽駅前にできたボルダリング用品専門店が盛況だと紹介されていました。

こちらの想定する観光客像と合わないからと言って邪魔者扱いするのではなく、彼らに合わせた店を作れば需要はあるということでしょう。
「金を落とさない」のではなく、「金を落とす場所が無い」という側面もあったということです。

これは、地元の観光関係者の一人としては反省点です。

ただ、カヌーはともかく、ボルダリングには滑り止めの粉で岩が白く汚れるという問題があり、「景観を汚す」という観点からの地元民の批判や反発もあるのですが、その記事には全く取り上げられておらず、それでは一面的過ぎないかと、少し気に入りません。

岩を汚さない、あるいはすぐに水で流したりできる、そういう滑り止めってないんですかね。

暖かくなってきて、アウトドアスポーツには良い季節になってきましたが、そういう軋轢を回避する方法を考えて欲しいものだなと思ったりします。

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2012年6月 7日 (木)

たられば

昨日触れたように、吉川英治の終焉の地である赤坂新坂町の家は、吉川英治記念館の候補地のひとつだったと聞きます。

かつて、当館の入館者数が年間10万人を越えていた頃、私の先代の学芸員が、こんなことを口にしていました。

昭和50年代の「ディスカバー・ジャパン」の波に乗って記念館は入館者を増やしてきた。そのことを考えると、赤坂ではなく青梅に記念館を造ったことが幸いした。

つまり、国内への小旅行がブームとなり、青梅のような都市近郊の“田舎”にも魅力を感じる人が多く現われ、その人たちによって入館者数が支えられてきた、ということです。
それに青梅には≪梅≫という観光の核になるものもありました。

しかし、入館者数が激減し、震災の影響もあったものの、昨年度はついに2万人を下回るまでになってしまった今、そして、プラムポックスウイルスの影響で梅林の今後が不透明になっている今、もし赤坂に吉川英治記念館があったら、どんな風になっていただろうと思わなくもありません。

現在記念館がある青梅では、どうしても観光客を軸にした形になってしまいがちです。
周辺人口は決して多くはありませんし、地元に住む方々は、英治忌のような特別な日でもなければ、休みの日にわざわざ近所の記念館に行こうとは思わないでしょう。

一方、赤坂であれば、周辺人口が青梅よりも多い。
住んでいる人だけでなく、周辺のオフィスなどに勤めている人の数も多い。
現在記念館には飲食施設はありません。
それは安定した需要が見込めないからですが、赤坂であれば、飲食施設だけを利用するお客さんをある程度の数確保できるのではないかとも思います。
ミュージアムグッズの販売も含め、商売的な展開が色々出来そうな気がするのです。
また、いま記念館は冬季には営業時間を短縮していますが、逆に、営業時間を延ばしてアフター5の勤め人を呼び込むという方向性もありうるでしょう。

ただ、入館者数は、かつてのように10万人を超えるなどということは、赤坂ではありえないような気はします。
交通の便は格段に良くなりますが、逆に≪梅≫のような多くの人を呼ぶ要素があまりありません。

一度にたくさんの人は来ないけれども、日常の延長としてフラッと立ち寄ることが出来る、そんな感じを目指すことになるのでしょう。

さて、実際に赤坂に記念館があったらどうなっていたのでしょうね。

まあ、赤坂の家が現存しない以上、考えても無駄なのですが。

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2012年6月 6日 (水)

小倉・門司散歩――4年後のおまけ

現在の北九州市立文学館の館長は今川英子氏ですが、先代の館長は作家の佐木隆三氏でした。

その佐木隆三氏が「吉川英治歴史時代文庫80 神州天馬侠(三)」の巻末にこんな文章を寄せています。

 ところで昭和四十九年暮れ、わたしは講談社の“カンヅメ”になった。地下鉄の赤坂見附から、青山通りを上って、カナダ大使館の角を曲ったあたり、御屋敷街である。そこに赤坂別館があって、小説家が何人かこもっていた。広い庭に面した座敷をあてがわれ、わたしは落着けない。
「どういう由来の建物ですか?」
「旧吉川英治邸です」
 それを聞いて、体が震えた。(以下略)

この頃、吉川英治の赤坂新坂町の家は、講談社が管理し、講談社の赤坂別館として、佐木隆三氏が経験したように執筆者を、いわゆる“カンヅメ”にして原稿を書かせる場所として利用されていました。

吉川英治は昭和37年に亡くなっていますが、昭和40年代になると、英治の子供たちは、就職や結婚で独立していき、英治本人もいないので秘書や書生、お手伝いさんも不要となり、文子夫人としては、家が広すぎて落着かない感じになっていたのでしょう。
そこで文子夫人は近くのマンションに引っ越し、残された屋敷を講談社に任せたようです。

なお、その後、この屋敷は吉川英治記念館の候補地のひとつとなりましたが、結局、記念館は青梅(吉野村)の屋敷に建設されたこともあり、いまは処分されて現存していません。
吉川英治が生前、ただ1ヶ所、自分の意思で建てた家がこの赤坂新坂町の家だったのですが、もったいない話です。

ちなみに、佐木隆三氏の文章の続きによると、「復讐するは我にあり」を書くためにカンヅメしたはずが、結局、「吉川英治文庫」を買ってきて、予定の10日間そればかり読みふけっていたそうです。

北九州とは関係がありませんが、おまけの話にさらにおまけ。

2010年に館内の企画展として「吉川英治の家族と家」という展示を行いました。
この企画展で、佐木隆三氏がカンヅメにされた赤坂新坂町の家の表札を展示していました。
少し白っぽくなっていて、文字もほとんど消えかかっているいるという代物なのですが、それをご覧になった吉川英治の次女・香屋子さんが、こんな思い出話をしてくれました。

赤坂表町の屋敷の塀にいたずら書きをされたことがあった。
業者を頼んで消してもらうことにしたが、消すのは難しいので、上からペンキを塗り直すことになった。
すると、この業者がいい加減な業者で、表札までペンキで白く塗りつぶしてしまった。
そうと気づいて慌ててペンキを拭き取ったが、一緒に元の文字も消えてしまった。

そんな話でした。

このことを文子夫人は大変残念がっていたそうです。

今となっては存在しない屋敷のかすかな痕跡に、そんな事があったとは、私も残念です。

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2012年6月 5日 (火)

小倉・門司散歩――意外な出会い

巌流島から船で門司港に戻ると、今度はJR門司港駅から鉄道で西小倉まで移動し、松本清張記念館に向います。

受付で、「吉川英治記念館の者ですが、館長さんはおいでになりますか?」と声をかけました。
まあ、無料で入館しようというケチな了見で声をかけたのですが、現われた藤井康栄館長が吉川家と関わりのある方だったので、驚いてしまいました。
というのも、藤井館長はかつて文藝春秋社にお勤めで、吉川英治の没後、その百か日にあわせて刊行された「わたしの吉川英治―その書簡と追憶」という本の編集担当者で、赤坂新坂町の吉川邸にも何度も足を運んでいたと言うのです。

ケチくさい根性で声をかけた私は恐縮していまいましたが、吉川英明館長にとっては懐かしい思いを抱かせる邂逅だったようです。

ちなみに、現行の吉川英治賞になって最初の吉川英治文学賞の受賞者は松本清張です。
その贈呈式の写真が館内に展示されていました。
そこには今年で7回忌になる吉川文子夫人が一緒に写っていました。
46年前のその写真を見ている吉川館長の姿は、とても感慨深げでした。

さて、今回の吉川英治没後50年展の企画段階で、「北九州と吉川英治」というコーナーを設けるということで、色々と思案したのですが、吉川英治と関わりのある北九州出身の作家となると、この松本清張と火野葦平くらいしか思い浮かばず、とりあえずこの2人との関係と、2度の取材旅行のことを中心に構成しました。

ところが、いざ北九州にやって来て、そこで北九州市立文学館の今川英子館長から、私がすっかり見落としていたもう1人の作家の話をご教示いただきました。

「富島松五郎伝」の作者、岩下俊作です。
「富島松五郎伝」というよりは「無法松の一生」という方が通りがいいでしょう。

今川館長の話では、2度も直木賞候補になりながら受賞を逃した「富島松五郎伝」を、選考委員であった吉川英治が惜しみ、雑誌『オール読物』に掲載するよう働きかけたうえに、推薦文まで書いた、それが岩田豊雄の目にとまり、それが文学座での舞台化のきっかけとなり、以後の映画化に結びついた、全ての出発点は吉川英治である、と言うことでした。

ご指摘を受けて帰京後に調べてみると、「吉川英治全集」の月報38に岩下俊作による「三十年の心の負担」という文章が掲載されており、全ては吉川英治の推薦文がきっかけだったのに自分は礼状も書かず、会える機会はあったのに会うこともせず、そのまま吉川英治は世を去ってしまい、深い後悔の念を抱いている、という内容のことが書かれていました。

私も見落としていましたが、吉川館長もこの文章の存在を忘れており、今川館長の説明を聞いて驚いていました。

翌21日、展覧会が開幕し、吉川英明による記念講演が行なわれました。
その後、北九州市立文学館の方々と会食をしたのですが、今川館長の計らいで、その席に岩下俊作のご子息である八田昂氏も同席なさいました。

吉川館長は大学卒業後、NHKに就職して記者をしていた時代があるのですが、八田氏もNHKで同時代に記者をしていたとのことで、これもまた、不思議な縁を感じさせる邂逅となりました。

私よりも吉川館長にとって心揺さぶられる旅になったようです。


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2012年6月 4日 (月)

小倉・門司散歩――4年ぶりの小倉

これまた、更新を怠っているうちに、北九州市立文学館での「没後50年記念 読み継がれる吉川英治文学――巌流島決闘から400年――」展も始まってしまいました。

始まってしまいましたも何も、4月21日~7月1日の会期ですから、もう半分過ぎています(苦笑)

さて、この展覧会の開幕に合わせ、4月20・21日の両日、北九州市を訪ねました。
2008年の全国文学館協議会の部会以来、およそ4年ぶりのことです。
今回は私1人ではなく、4月21日に記念講演をすることになっている吉川英明館長夫妻と、財団事務局のY女史の合計4人。

4月20日には特に行事はないので、ゆかりの地などを訪ねてみようという話になっていたのですが、結局、足を運んだのは巌流島と松本清張記念館の2ヶ所だけでした。

まず足を運んだのは巌流島。
私は4年前に来た時には、時間がなくて上陸していません。

昼食の後、タクシーを呼んでもらって、巌流島行きの連絡船が出る門司港に向います。

「門司港の巌流島行きの船の出る桟橋まで」と運転手に告げると、「それどこですか?」との答え。
旅行者に聞き返されても、説明の仕様もありません。
運転手はケータイで会社に電話して場所を聞いています。

巌流島に行きたいから門司港まで行ってくれ、という客はほとんどいないんでしょうかね?

途中車窓にそれらしき島が見えたので「あれが巌流島ですか?」と尋ねてみても、「いやぁ、よくわかりません」。

小倉の人は巌流島に興味が無いのでしょうか。

それでも無事到着して、船で巌流島に向います。

門司港からは15分ほどで巌流島に到着。
帰りの船の時間との兼ね合いで、滞在できる時間は30分ほど。

しかし、こんな感じで島も小さく、さして見る場所もないので、それで十分です。
Ganryu_01

ぶらぶら歩いていくと明治43年に建てられた佐々木小次郎の碑があります。
Ganryu_02

その近くに、昭和61年に建てられた村上元三の「佐々木小次郎」から抜粋した文章の刻まれた碑もあります。
Ganryu_03

平べったい島の中で少し小高くなっているところがあり、そこに宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の銅像があります。平成15年の建立で、その年の大河ドラマ「武蔵」の出演者が除幕式をやったという報道を見た記憶があります。
Ganryu_05

この写真は関門海峡を背景にしたものですが、右が門司、左が下関側になります。

そばに、この銅像とともに設置された碑がありますが、どういうものだか、吉川英治の「宮本武蔵」は無視されています。
記載された年表には吉川英治の「宮本武蔵」執筆の項目はなく、大河ドラマ「武蔵」に触れながら原作者の名はなく、決闘の場面を描いた文章は「二天記」と村上元三の「佐々木小次郎」からの引用です。
碑の中に石井鶴三の描いた決闘の場面の挿絵が使用されており、そこにわずかに「六興出版『吉川英治 挿絵名作集』より」とありますが、それだけです。

下関市(碑の設置者)は何か吉川英治に恨みでもあるのでしょうか(笑)

丘の上から銅像の反対側に眼を向けると、人工の砂浜があり、そこに1艘の船が。
Ganryu_04

どうやら武蔵が乗って来た船、ということのようです。

もっとも、勝者である武蔵は船に乗って島を去っていますから、これがここにあってはいかんのではないかという気はしますが。


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2012年6月 3日 (日)

映像と文学

さて、昨日触れた吉川英治賞の贈呈式に出席すると、冊子になった要項が配布されます。

そこには受賞のことばや選評が掲載されているのですが、ちょっと興味深い一節がありました。

吉川英治文学新人賞の選考委員である浅田次郎さんが選評の中で、候補作になりながら落選した「ジェノサイド」(高野和明)について

しかし、これほど映像性を追求した作品が、はたして文学賞にふさわしいかどうか。つまり小説そのものについての議論というより、文学観によって評価が分かれたと言っていい。小説と映像はまったく異なった表現手段であり、手法上の融合も親和もありえないという持論から、私は推さなかった。

と書いておられます。

一方、やはり吉川英治文学新人賞の選考委員である大沢在昌さんは

映画的と評する声もあるが、「映画のように」小説を読ませる力は、誰しもがもちうるものではない。なぜなら「ジェノサイド」は、シナリオではなく、大作映画を観たと思わせるほどのイメージ喚起力をもっていたからだ。

と、推しておられます。

これを読んで、思い浮かべた文章があります。

私の書く物は初めから映画を意識して書いていると誰かがやや批難した口吻でいったことがある。
(略)
どう書いたって、小説なら、小説であればいいのだ。そして、少なくも大衆の求望に関心をもって、また、時代人の感覚を、小説機構のうえに考えて、ものを書くとすれば、小説が、そのテンポを、表現を、映画的にリズムを持つのは、当たりまえ過ぎるほど、当たりまえな現象であろう。

誰あろう、吉川英治の文章です(随筆「映画」)。

もっとも、吉川英治は映画的であろうと意識したのではなく、大衆に対して大衆のための作品を作ろうと考えれば、小説も映画も似たような表現が現われるのは当たり前だ、というふうに続けています。

ちなみに、この随筆の中で吉川英治が問題にしているのは≪心理描写≫です。
人間同士が面と向かった時には、何の説明もなく相手の心理を感得するのに、小説では会話の中にいちいち心理描写がうるさく入ってくるというのは冗漫だし、賢明な表現法ではないと批判しています。

「たくさんな行数を、心理描写などに費やさないで、もっと、ぴんと感じるような表現を」と吉川英治は書いていますが、それを求めた結果が映画的テンポになっている、ということなのでしょう。

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2012年6月 2日 (土)

継続は力なり

ブログを更新せずにいた間の4月11日に、吉川英治賞の贈呈式がありました。

そうそう、そもそも今年の吉川賞の発表の際に受賞者の紹介をしませんでした。
いまさらですが、こちらをご覧下さい。

さて、贈呈式の際に、吉川英治文学賞を「大江戸釣客伝」で受賞なさった夢枕獏さんが、「脳は筋肉である」と前置きをして、こんな話をされました。

以前、50歳になったら仕事を一切断って、一年間釣り三昧の生活をしようと考えていたが、結局実現しなかった。
そこで60歳になったら、今度こそ、一年間釣りばかりしていようと決意した。
実は去年60歳になったけれど、釣り三昧は実行しなかった。
それというのも、サッカーのカズこと三浦和良選手が、40代半ばになった今も現役でいるために厳しいトレーニングや節制をしていることについて、「一日でもトレーニングを休むと、今の肉体が維持できなくなるのではないかと思うと怖いから」と言っているのを聞いて、「一年も仕事を休んで、今と同じペースで執筆ができるだろうか」と自問したら、怖ろしくなったからだ。
脳も筋肉と同じで、使い続けていないと衰えてしまうものだ。

なんともワーカホリックな日本人らしい発想とも言えますが、確かに、このブログでも一旦サボったばっかりに、なかなか以前のように毎日更新することができなくなってしまいました。

いや、作家の仕事と、こんな学芸員の余技を一緒にしてはいけませんが。

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2012年6月 1日 (金)

2012青梅アートジャム“森から響く祈りとくらし”

あけましておめでとうございます。
え、6月1日は正月じゃなかったですか。

気がついたら2ヶ月以上更新を怠っていました。
その間、ネタがなかったわけではないのですが、なかなか気合が入らず、何も書けないままになってしまいました。

そんなことをしている間に、イベントが一つ終わりかかっています。

ほぼ毎年何らかの形で関わっている青梅アートジャムに、今回も会場を提供しています。

今回の青梅アートジャムは青梅市立美術館を中心会場として、当館とゆずの里勝仙閣でも一部作家の展示を行い、当館の他、煉瓦堂赤とんぼと武蔵御嶽神社宿坊とでワークショップを行ないます。

さて、展示の会期は青梅市立美術館と勝仙閣では5月19日~7月1日なのですが、当館の展示のみ6月3日、つまり明後日までなのです。

現在当館では伊藤光治郎(木彫)、山口幹也(木彫)、塩野圭子(型絵染)、野口洋子(漆)の4氏の作品が展示されています。

実は当初は吉川英治没後50年にちなんで、当館で行なう展示に関しては≪吉川英治トリビュート≫というテーマで作品を製作・展示するというテーマが掲げられていたのです。
そのために吉川英明(吉川英治長男で当館館長)に対するヒヤリングなども実施したのですが、結局ほとんど参加作家の方は作品を吉川英治、あるいは吉川文学に結びつけることが難しいということで、当館での展示を回避なさり、上記の4氏だけとなったという次第です。

つまり、上記の4氏の作品は、皆さんが思案の上で吉川英治、あるいは吉川文学を作品の中に取り込んだものとなっています。

そんな作品を観ることができるのもあと2日。

関心のある方は是非お運び下さい。

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