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2012年6月 3日 (日)

映像と文学

さて、昨日触れた吉川英治賞の贈呈式に出席すると、冊子になった要項が配布されます。

そこには受賞のことばや選評が掲載されているのですが、ちょっと興味深い一節がありました。

吉川英治文学新人賞の選考委員である浅田次郎さんが選評の中で、候補作になりながら落選した「ジェノサイド」(高野和明)について

しかし、これほど映像性を追求した作品が、はたして文学賞にふさわしいかどうか。つまり小説そのものについての議論というより、文学観によって評価が分かれたと言っていい。小説と映像はまったく異なった表現手段であり、手法上の融合も親和もありえないという持論から、私は推さなかった。

と書いておられます。

一方、やはり吉川英治文学新人賞の選考委員である大沢在昌さんは

映画的と評する声もあるが、「映画のように」小説を読ませる力は、誰しもがもちうるものではない。なぜなら「ジェノサイド」は、シナリオではなく、大作映画を観たと思わせるほどのイメージ喚起力をもっていたからだ。

と、推しておられます。

これを読んで、思い浮かべた文章があります。

私の書く物は初めから映画を意識して書いていると誰かがやや批難した口吻でいったことがある。
(略)
どう書いたって、小説なら、小説であればいいのだ。そして、少なくも大衆の求望に関心をもって、また、時代人の感覚を、小説機構のうえに考えて、ものを書くとすれば、小説が、そのテンポを、表現を、映画的にリズムを持つのは、当たりまえ過ぎるほど、当たりまえな現象であろう。

誰あろう、吉川英治の文章です(随筆「映画」)。

もっとも、吉川英治は映画的であろうと意識したのではなく、大衆に対して大衆のための作品を作ろうと考えれば、小説も映画も似たような表現が現われるのは当たり前だ、というふうに続けています。

ちなみに、この随筆の中で吉川英治が問題にしているのは≪心理描写≫です。
人間同士が面と向かった時には、何の説明もなく相手の心理を感得するのに、小説では会話の中にいちいち心理描写がうるさく入ってくるというのは冗漫だし、賢明な表現法ではないと批判しています。

「たくさんな行数を、心理描写などに費やさないで、もっと、ぴんと感じるような表現を」と吉川英治は書いていますが、それを求めた結果が映画的テンポになっている、ということなのでしょう。

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