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2012年7月18日 (水)

悔しい

ある古書店から送られてきた目録に、これは!と思う本があったので注文したのですが、「先に注文があり売り切れました」という連絡が返ってきました。

ああ、悔しい。

目録によると、その本は昭和2年に榎本書店から刊行された「鳴門秘帖」。

著者名が書かれていないところは気になりますが、「鳴門秘帖」と言えば、吉川英治の作品です。

なぜ、この本に反応したかと言うと、当館でまとめた「吉川英治小説作品目録」という冊子に収録されていない本だからです。

また、こういう背景もあります。

吉川英治の「鳴門秘帖」は、『大阪毎日新聞』に大正15年8月11日~昭和2年10月14日にかけて連載された作品です。
作品の人気は高く、まだ連載中に複数の映画会社によって映画化されたほどです。

この作品の単行本は、これも連載中の昭和2年3月10日(奥付)に、連載していた大阪毎日新聞(および東京日日新聞)によって「鳴門秘帖 前編」として刊行されました。

ところが、ちょうどこの時期、日本の出版界は≪円本ブーム≫を迎えており、その一つの企画として平凡社から「現代大衆文学全集」が出ることになりました。
当然、そこには大衆文学界の俊英として頭角を現した吉川英治もラインナップされることになります。
そして、「鳴門秘帖」の全編が収録されることになったのです。

かくして、昭和2年12月20日(奥付)に「現代大衆文学全集」の第9巻として「鳴門秘帖」が刊行されます。
その結果、大毎・東日版は前編のみで刊行が中止になってしまいます。

この「鳴門秘帖 前編」は、こうした理由から吉川英治には珍しい稀覯本になっています。

その同じ昭和2年に刊行された「鳴門秘帖」とは、どういう本なのか?

想像するに、著者の許諾を得ずに出版されたもの、それもいわゆる赤本の類いなのでしょう。
しかし、現物を見ないことには、なんとも言い様がありません。

私より先に注文して手に入れた方、もしこれを読んだら、譲ってくれとは言いませんから、一度見せてくれませんか?

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2012年7月 7日 (土)

プラムポックスウィルス

昨日、ようやくプラムポックスウィルスの感染調査の係員がやってきました。

と言っても、何のことやらという方も多いでしょう。

詳しい説明はこのあたりをご覧いただくとして、この植物防疫法の対象となるプラムポックスウィルスの国内初感染の確認から、実に4年目になって、やっと実態調査の手が当館の庭園にまで及んだ、ということなのです。

この件については、言いたいことや不平不満が山ほどあります。

プラムポックスウィルスの感染発見は2009年。
しかし、その翌2010年に発生した宮崎県での口蹄疫が過剰なまでの大騒ぎによって人の記憶に残ったのに比べて、プラムポックスウィルスのことをご存知の方はごく限られているでしょう。
しかも、口蹄疫が数ヶ月で終息したのに対し、プラムポックスウィルスは4年経ってもまだ実態調査が続いているという状況です。
動物と植物では条件が違うし、プラムポックスウィルスは人体への害はないのだから、口蹄疫と同じにはいかないと言う人もいますが、それを言い訳に時間をかけているうちに、2011年には東日本大震災が発生し、結果的に、さらに人々の意識の隅に追いやられてしまった感があります。

また、この調査および対策というのも、縦割り行政というのか、土地の用途別に進行しており、実を取るための農地の梅については調査や対策が早く進み、その他のものは後回しになっています。
実際、民家の庭から一続きになった畑を所有している人の家に調査に来て、畑の梅だけ調査して、そのすぐ隣にある庭の梅は調査しないで帰った、などという事例があります。
しかし、ウィルスにとって、土地の用途など関係ありません。
感染が一定以下だったとして全面伐採を免れた農地のすぐ隣の民家の庭に感染樹があったとしても、その調査は後回しですから、その民家の梅が感染していると判明した時には、伐採を免れた隣の農地の梅に感染を広げている可能性があります。
土地の用途に関係なく、一つの地域はまとめて一気に調査すべきだったと、私には思えてなりません。

しかも、今回の調査の結果は、東京都が統計をまとめてプレス発表することになっているので、結果の通知はその発表後の11月になると言うのです。
その間に感染が広がる可能性もあるのですから、感染樹は発見次第伐採すべきだと思うのですが。

まあ、この他にも言いたいことはありますが、伝聞情報に基づくものもあるので、ここに書くのはやめておきます。

何にせよ、樹木の成長には時間がかかりますから、再び梅林として復興しようとする場合、20~30年のスパンでものを考える必要があります。
そちらに目を向けるためには、まずは防除対策が終了しなければ話になりませんから、一刻も早く、調査を終えて欲しいと、願うばかりです。

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2012年7月 5日 (木)

文学展

昨日、7月1日まで開催されていた北九州市立文学館での吉川英治没後50年展の資料の返却を受けました。

同じ7月1日まで、当館では『吉川英治没後50年と吉川英治記念館35年の歩み』という企画展示を行なっていました。
その展示物の中に、昭和43年9月27日~10月2日に小倉の井筒屋で開催された「日本人の心の文学 吉川英治展」のポスターがありました。

せっかく北九州から返却に来るのだから、このポスターを見せてあげようと思い、企画展は終了していましたが、そのまま展示しておきました。

さて、そのポスターを見た北九州市立文学館の担当者が、「昔も今もやっていることが同じですね」と言って笑っていました。

それというのも、当時のポスターによると、小倉・井筒屋では、オープニングの9月27日に川口松太郎と升田幸三の講演と東映映画「巌流島の決闘」の上映会が開催されることになっているのです。

そして、今回の北九州市立文学館の方も、オープニングの際に吉川英明が講演し、さらに後日、指方恭一郎さんの講演と大倉隆二さん(元熊本県立美術館副館長)、明石善之助さん(作家、「午前」同人)らによる講座が開かれ、「巌流島の決闘」の上映会の行なわれたのです。

さらに、北九州の担当者が気づいたかどうかわかりませんが、ポスターには展示内容の概要が列挙されていて、その中に≪書斎再現≫が含まれているのですが、実は今回も北九州側からのご要望で≪書斎再現≫をやっているのです。

確かにやっていることが同じです(苦笑)

しかし、これは逆に言えば、45年前には≪文学展≫の展示のあり方や、それを軸にしたイベントのあり方が、既に確立されていた、ということです。

それに、美術館における絵画展だって、現代美術の場合を別にすれば、百年一日で、やってることは同じなわけで。

ただ、絵画そのものを見せることが目的の絵画展と、展示することが出来ない≪文学≫を扱う文学展では、展示の趣旨が違います。
実物資料の展示の向こう側に≪文学≫を感じさせる、作家の人間性を滲み出させる、そういう展示のためには何をどうすればいいかは、まだ模索されてしかるべきもののように思えます。

と言いつつ、私にはありきたりな文学展しか思いつけないのですが。

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2012年7月 4日 (水)

京都(1)

次にご紹介するのは、これ。

京都も作品数が多いので避けていたのですが、まあいいでしょう。

「吉野太夫」

六条柳町の扇屋の二代目吉野太夫は名妓として知られているが、いまは特に鷹ヶ峯の常照寺の総門を一人で寄進するというので、すっかり時の人となっている。
その吉野の実父である松田武右衛門は、鍛冶屋の駿河介を仲介として借金をしており、その返済に困っていた。
世間では総門寄進の吉野太夫の父となれば、いつでも金の工面は出来るものと見ていたが、実際には生活苦から娘を売ったに過ぎず、その暮らしは相変わらず苦しいものだった。
駿河介から借金の返済を強く求められた武右衛門は十日の猶予を願うが、結局十日後になっても、金の工面はつかなかった。
ところが、駿河介の代理で返済を求めに来た駿河介の弟子の時安は、武右衛門にこう告げた。
借金は私が奉公の間に貯めたお金で返済しておいた、その代りに吉野太夫への紹介状を書いてもらえないだろうか、と。
さて、当の吉野だが、いま苦悩の中にあった。
七分通り完成している総門の建築費が底をついてしまい、あと千両必要なのだ。
その千両を求める相手は、彼女を身請けしたいと申し出ている近衛応山か灰屋三郎兵衛かとまでは心を決めているものの、決断を下しかねていた。
そこへ、吉野に会いたいと武右衛門の紹介状を持って時安がやってくる。
店の者に足蹴にされながらも、必死に面会を請う時安の姿に、吉野はつい彼を部屋に通すことにする。
虚像に過ぎぬ≪吉野太夫≫としての自分に、これほどまでに思いを寄せてくれる者がある、ということに心動かされた吉野は、密かに恋慕の心を抱いている三郎兵衛へ手紙を書く。
それからしばらく後、身請けされ三郎兵衛と暮らす吉野の姿があった。
とは言え、灰屋の一族からは結婚を反対され、灰屋の家には入れぬまま、市中に家を求めての暮らしであった。
しかし、吉野の真心が通じ、灰屋の一族から正式に三郎兵衛の妻と認められることになった。
その同じ日、三郎兵衛と暮らす家の近くで、一人の男の溺死体が揚がった事を吉野は知る。
それは両替屋に盗みに入った挙句、逃げ切れなくなって川に飛び込んだ時安であった。

初出は昭和12年1月20日発行の『週刊朝日 新春読物号』。
最新の単行本は「吉川英治時代小説傑作選 吉野太夫・雲霧閻魔帳」(学研M文庫 2002年12月16日)になります。

この作品は山本富士子が舞台で繰り返し演じていますが、昭和45年に放送されたテレビドラマでも、やはり山本富士子が吉野を演じています。

ある時代の日本における美人の象徴だった方ですから、はまり役と言えばはまり役ということになります。

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2012年7月 3日 (火)

江戸(1)

次はこれ。

東京は作品の数が多いので、多摩と江戸府中に分けると前に書きましたが、それでもなお多いので、しばらく手を付けないつもりでいましたが、まあ、いいでしょう。

「牢獄の花嫁」

かつての名与力・塙江漢は、今は役職を退き、長崎へ蘭医学を学びに行っている息子・郁次郎が帰れば、許婚の花世と祝言を挙げさせ、養生所を開くことを計画している。
そんなある夜、南町奉行所同心の浪越八弥と加山耀蔵は塙江漢の隠居を惜しむ会へ向う道すがら不審な人影に出会う。増上寺の御霊廟の裏から現われたその男は、鎧櫃を背負った大男であった。
格闘の末に男を捕らえ、奉行所に連行し、鎧櫃の中を改めてみると、そこにはなぜか人差し指だけが切り取られた若い女の死体が入っていた。
奇怪な事件に遭遇した担当の与力・東儀三郎兵衛は引退した江漢に意見を求め、江漢も策を授けるが、相談役にという依頼には自分は隠退した身とこれを固辞、代りに推薦したのがたまたま江戸表に出て来ていた大坂の与力・羅門塔十郎であった。
やがて江漢の策によって女の身元が笛師の鷺江雪女と知れる。
しかし、あろうことか、羅門と東儀の探索により、江漢の息子・郁次郎が雪女と関係があることが知れ、雪女殺しの容疑者とされてしまう。
その郁次郎は既に江戸に戻っているにもかかわらず、なぜか江漢の元には姿を見せず、人目を避けているうちに江の島神社にまでやって来ていた。
その江の島の巫女・直美の手の中指を見た郁次郎は戦慄する。その指は許婚の花世と同じようにおはぐろで染められた黒い爪をしていたのだ。
しかし、その直美が中指を切り取られた死体となって見つかるのと前後して、羅門の手によって郁次郎は捕縛されてしまい、直美殺しの疑いまで掛けられてしまう。
郁次郎の逮捕を知った江漢は、必死の懇願により、処刑まで百日の猶予を与えられ、老骨に鞭打って息子の冤罪を晴らそうと捜査を開始する……

というストーリーです。

事件の裏にあるのは、亀山藩の世継ぎ問題。
藩主・松平龍山公には世継ぎとなる子が無かったが、実は江戸出府中に妾に産ませた男子がいた。
その子は武家に養子に出され、その後四人の娘をもうけたが、ある諍いから切腹、娘たちは離散してしまった。
その娘たちは後の目印にと爪をおはぐろで黒く染められていた。
羅門塔十郎は、与力としての才を買われてその娘たちの行方を探索していたが、やがて悪心を起して亀山藩家老の大村郷左衛門と結託、四人の娘を殺害し、自分の情婦である玉枝を替え玉にして藩を乗っ取ろうと企んだ。

という訳で、陰謀を隠して全てを郁次郎の罪にしてしまおうとする羅門と、息子の無実を信じる江漢の戦いが繰り広げられるということになります。
もちろん、江漢がその才能に信を置いた羅門が真犯人であることは、土壇場まで伏せられますが、現代の読者なら読み進むうちに割と簡単に犯人の目星はつくでしょう。

初出は『キング』昭和6年1月~12月号。
「吉川英治歴史時代文庫」の第9巻に入っていますので、現在でも購入可能です。

なお、「牢獄の花嫁」についての裏話として、こんなことを書いたことがあります。
そちらもご参照を。

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2012年7月 2日 (月)

岡山(1)

続いてはこの作品。

「玉堂琴士」

備前岡山藩の支藩・鴨方藩の藩士・浦上兵右衛門は、文人画家浦上玉堂としても知られる。また、琴を愛したことから玉堂琴士とも名乗った。
今は役職から引退している兵右衛門と、その長子の紀一郎を悩ませる問題があった。
娘のお之(ゆき)が、不義密通の末、私生児を生んだのだ。
今は表沙汰にならぬようにしているが、藩主にまで事が知れてしまえば、家名断絶は避けられない。
兵右衛門を慕う藩士たちは心配し、身内からは事が知れる前にお之を斬れと迫られるが、兵右衛門は「わしの家、わしの娘じゃ」と動じない。
その姿に、紀一郎は自分が家を守らねばと、姉を斬ろうとするが、その行方がわからない。
探しあぐねて帰宅すると、そこには旅装をした兵右衛門がいた。
家名を捨てての脱藩であった。
兵右衛門は琴を、紀一郎は先祖と母の位牌を、その他には牛の背にお之の子を入れた籠とつづらが結わいつけられているだけのわずかな荷物で脱藩してゆく一行。
彼らが国境にたどり着いた時、待ち受ける数人の武士の姿があった。
紀一郎は追っ手かと緊張するが、武士たちは兵右衛門を慕う者たちの尽力で藩主が寛大な措置を取ったことを告げ、餞別だと言って一人の男の身柄を彼らに預ける。
立ち去ろうとする武士たちを呼び止めた兵右衛門が名残に奏でる琴と詩に涙する男。
その男の前に、つづらの中に潜んでいたお之が姿を現す。

初出は『オール読物』昭和9年1月号。
単行本の最新のものは「吉川英治全集47 短編集1」(昭和58年10月 講談社)ですが、平成4年6月発行の『オール読物増刊 名作時代小説30選』にも収録されています。

浦上玉堂は実在の人物で、確かに50歳の時に鴨方藩を脱藩し、以後、流浪の生活を送っています。

ただ、作品の末尾に「作者附言」という一文を加えていて、そこで「玉堂研究家諸氏の指摘あらんかと思って」として、これは小説として書いたものだと述べています。
特に、作品の冒頭に司馬江漢が浦上玉堂を訪ねてくる場面があることから、玉堂の脱藩と江漢の西遊の年次が合わないことは知った上で書いていることを強調しています。

小説としての効果を優先し、時代考証は敢えて無視しているので、そこは受け流してくれ、ということでしょう。

当時よりは時代考証に対する知識も意識も向上している現代の読者は、このあたり、どう感じるのでしょうかね。

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2012年7月 1日 (日)

神奈川(2)

昨日触れた、テレビドラマ化された吉川作品の中に出てきた作品をご紹介してみましょう。

まずは「旗岡巡査」です。

水戸藩内も出てきますが、主たる事件は横浜で発生するので神奈川に含めます。

「旗岡巡査」

桜田門外で井伊大老を襲撃した水戸藩士の一人、海後磋磯之介は下総松戸の宿で追っ手を避けて権十・お松父娘の醤油船へ逃げ込む。
狼狽する権十だが、お松は躊躇いもなく磋磯之介の怪我の治療をする。
船はやがて関宿の河番所に到るが、お松の機転により無事に通過、磋磯之介は生きて水戸藩に戻ることができた。
磋磯之介は神主である兄の粂之介のもとに匿われたが、その粂之介を頻繁に訪ねてくる女がいた。
磋磯之介に思いを寄せるお那珂であった。
磋磯之介への思いと自らの縁談の狭間で思い悩むお那珂は、どうしてもここに足を運ばずにはいられなかったのだ。
だが、あることから磋磯之介が神社に匿われていると確信したお那珂は、そこにいる磋磯之介に会わせてもらえないことに対し、自分の思いが裏切られたように感じて、縁談を受け入れた上に、代官所に密告をする。
かろうじて難を逃れた磋磯之介は、信じていたお那珂が自分を密告したことに衝撃を受けながら、他国へと落ち延びて行った。
さて、時は明治9年、茨城県結城警察屯所の巡査、旗岡剛蔵はとある犯罪者の追跡のため刑事とともに横浜へと出張してきた。
目当ての犯罪者が見つからないため、漠然と街を巡回する旗岡巡査だったが、そこに血相を変えた女がやって来て、殺人事件の発生を伝える。
生糸の仲買人の男を、その妾が拳銃で撃ち殺したというのだ。
管轄が違うし任務もあると渋る旗岡巡査だったが、女の勢いに押されて、現場に駆けつける。
現場となった妾宅の表札を見て、旗岡巡査はあることを思い出す。
そこに殺された男の本妻が現われるが、その姿を見て一瞬硬直する旗岡巡査。
実は、旗岡剛蔵とはかつての海後磋磯之介であり、偶然にも殺された男の妻はお那珂、妾はお松の今の姿なのであった。
一人で殺人犯の捕縛に向ったふりをして、お松と二人きりになった磋磯之介は、お松と語らいたい気持ちを抱くが、お松は拳銃で自ら命を絶ってしまう。
その十分後、元の任務に戻り、街頭で黙然と見張りをする旗岡巡査の姿があった。

短編のわりに長々とあらすじを書きましたが、それはこの作品が私の好きな作品だからです。
決して要約する能力がないからじゃありません……と思います。

初出は『週刊朝日』昭和12年初夏特別号。
「吉川英治歴史時代文庫76 柳生月影抄 名作短編集(二)」(講談社)に収録されており、現在も購入可能です。

海後磋磯之介は実在の人物で、桜田門外の変の後、実際に明治の世まで生き残り、警視庁などに勤務の後、神職となり、明治36年に76歳で没しています。

前半生で関わった二人の女が、同じ男の本妻と妾であったというのは、もちろん小説上のご都合主義ですし、旗岡剛蔵=海後磋磯之介のキャラクターも創作されたものでしょう。

ただ私は、「真実は皆死んで行った」と全ての感動を喪失した旗岡巡査の、幕末に多くの血が流されたのはこんな世の中のためだったのかという懐疑の念に、どこか共感を覚えるのです。

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