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2012年10月24日 (水)

吉川英治流・歴史時代作家の心得

作家というのは、何かをテーマに作品を書く時には、関係のある土地に取材旅行に行き、古書店などで関係図書を買い漁る、というイメージがあります。

しかし、吉川英治は、それを必ずしも是とはしていなかったようです。

大衆的な作品を書くといふ用意についてみても、一概にも言へないが、多くの新人は、同じく勉強といつても、長い無駄、準備を、してゐない。例へば濱本浩君なんかは非常に熱心で、さし当つてかういふ事を書こうと思へば、庄内へ旅行して調べたとか、何処へ出ていつて調査したとかいふが、その誠意は結構だが、今書くものを今使ふので調べる、のでは本当には書けないものだ。書物をよむにしても、参考書をよむにしても、今書く為めにいろいろとひつぱり出してゐるのでは、どうしても生硬で、自分のものにはなり切らない時が多い。やはり十年十五年と無駄をしてみて、はじめて分ることだが、それが結局に於ては無駄にならない。

これは『文芸通信』昭和10年3月号に掲載された「新人への希望」という文章(単行本未収録)の一部ですが、同じことを「大衆文学随想」(初出は『現代』昭和11年7月号 「草思堂随筆」に収録)という 随筆の一項「作家たらんとする人に」でも書いています。

(略)僕はよく本を読むといわれるが、しかし新たにする仕事のすぐ役に立てるために本を読まない。(略)今読んで今それを役立てているようなあわただしいことでは、実際において間に合うものではない。(略)自分が目的もなく、興味で読んだものは、何年か経っているうちに、それは一体本から得た知識だか、自分に生まれながら持っている知識だか分らなくなる。そうなってから蚕のように手繰ると糸になって出て来る。そこに価値があるのだ。(略)それから例えば、ある小説を依頼されたという場合に、それを書くため、それを調べるため急に旅行するという人がある。あれなんか僕は凡そ意味はないと思う。何故かというに、長崎なら長崎を書く場合には、長崎を実際に知らなくても、長崎についてはあらゆる文献がある。(略)あらゆる長崎の歴史を坐っていて幻想することが出来る。その幻想を捨てて、自分が実際に長崎に行って、長崎に現存した文化の中へ没入したら却って分らなくなる。

目的を決めずに読書し、勉強せよ、そうすれば何かきっかけを得た時に、その中から創作の芽となる幻想が生れてくる、それを大事にせよ、現実に縛られることはない、というようなことになるでしょうか。

吉川英治は晩年、懸賞小説入選を機に吉川英治に師事することを希望した杉本苑子に対して、10年間は商業誌に発表することはせずに勉強に専念しなさいという指導をしていますが、その背景にあるのは、こうした考えだったのでしょう。

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