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2012年11月21日 (水)

複数のタイトルを持つ作品(5)

(6)その他

最後は複合型と言えばいいでしょうか。
作品は「親鸞」です。

(1)では複数の地方紙に連載され、それぞれでタイトルが違うという「江戸城心中」をご紹介しましたが、「親鸞」も複数の地方紙に異なるタイトルで連載されました。

「親鸞聖人」(『名古屋新聞』昭和9年9月28日~10年8月9日)
「愚禿親鸞」(『神戸新聞』昭和11年1月5日~8月6日)
「愚禿頭巾」(『京城日報』時期不明)
「紙衣祖師」(『台湾日日新報』時期不明)
「受難菩薩」(紙名も時期も不明)

色々不明になっていますが、これは当館では新聞の切り抜きしか所蔵していないため、タイトルはわかるものの紙名や年月日が確認できなくなっているということです。

「江戸城心中」と異なるのは、掲載時期にズレがあることです。

その上、これが単行本化(講談社 昭和13年)される際に、タイトルが「親鸞」に変更されています。

そんな訳で、これは“その他”としました。

以上のような具合に、様々なパターンで複数のタイトルを持つ作品が存在しています。

聞いたこともないタイトルの吉川英治作品に出くわしたら、ちょっと参考にしてみてください。

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2012年11月20日 (火)

複数のタイトルを持つ作品(4)

(4)再録の際にタイトルを変更

3作品あります。

・「治郎吉格子」(『週刊朝日』昭和6年秋季特別号)
⇒「治郎吉と二人の女」(『名作クラブ』昭和23年?月号)

・「さむらい行儀」(『冨士』昭和13年夏の増刊号)
⇒「壱両小判」(『冨士』昭和24年9月号)

・「悲母観音」(『オール読物』昭和15年4月号)
⇒「町の鶯」(『小説世界』昭和23年12月号)

戦後、出版ブームが起こり、いわゆる“カストリ雑誌”と呼ばれる短命な雑誌が数多く発行されました。
もちろん、従来からの雑誌も継続、あるいは復活を遂げていました。
戦後の吉川英治は、一時期断筆したり、戦前の濫作への反省から作品を絞って執筆したりしていましたから、そうした数多い雑誌からの執筆依頼に対して、旧作の再録で対応したようです。
上記の3作品はタイトルが変ったものですが、これらと同じ時期にタイトルはそのままで再録された作品も複数存在します。

5)初版は原題のままだが途中で変更

これは2作品。

・「桜田事変」(書き下ろし 「維新歴史小説全集2 桜田事変」改造社 昭和9年12月)
⇒「井伊大老」(昭和23年愛山社版以降改題)

・「親鸞上人」(『日の出』昭和10年6月・7月号) 初版「松風みやげ」大元社 昭和15年10月
⇒「若き親鸞」(昭和24年文章社版以降改題)

いずれも戦前に一度出版され、戦後はタイトルが変わったということになります。

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2012年11月19日 (月)

複数のタイトルを持つ作品(3)

(3)特定の単行本でのみタイトルが異なる

このパターンが一番多く、10作品あります。

・「神州天馬侠」(『少年倶楽部』大正14年5月号~昭和3年12月号)
⇒「新州天馬侠」 昭和26年ポプラ社版と昭和30年集英社版(大城のぼるによる漫画化作品)で使用。

・「一領具足組」(『講談倶楽部』昭和4年4月号~8月号)
⇒「恋の祐夢」 「剣侠百花鳥」(自由文庫 昭和23年11月)でのみ使用

・「梅颸の杖」(『文藝春秋 オール読物号』昭和5年7月)
⇒「山陽の母」 「日本名婦伝」(全国書房 昭和17年1月)でのみ使用

・「田崎草雲とその子」(『文藝春秋』昭和7年夏期増刊号)
⇒「田崎草雲とその妻」 「日本名婦伝」(全国書房 昭和17年1月)でのみ使用

・「べんがら炬燵」(『週刊朝日』昭和9年新春特別号)
⇒「雪のあした」 「吉川英治自選集」(輝文堂 昭和17年7月)でのみ使用

・「無明有明」(『婦人倶楽部』昭和11年1月号~13年2月号)
⇒「婦情母心」 昭和23年玄理社版でのみ使用
 「有明無明」 昭和29年および昭和32年の桃源社版でのみ使用

・「悲願の旗」(『サンデー毎日』昭和12年新春特別号)
⇒「大蔵経開眼」 「吉川英治自選集」(輝文堂 昭和17年7月)でのみ使用
 「大蔵経開版」 「柳生月影抄」(中川書店 昭和22年12月)でのみ使用

・「東雄ざくら」(『現代』昭和14年1月号)
⇒「佐久良東雄」 「吉川英治自選集」(輝文堂 昭和17年7月)でのみ使用

・「彩情記」(『婦人倶楽部』昭和15年1月号~16年1月号)
⇒「隠密色絵奇談」 昭和24年向日書館版でのみ使用

・「梅里先生行状記」(『朝日新聞』昭和16年2月18日~8月24日)
⇒「水戸黄門」 昭和48年および昭和52年の六興出版版でのみ使用

このうち、「神州天馬侠」を「新州天馬侠」としたのは、敗戦直後の時期であったため「神州」の語を使用するのをはばかったという理由があったようです。

「梅颸の杖」⇒「山陽の母」と「田崎草雲とその子」⇒「田崎草雲とその妻」は、収録した短編集の「日本名婦伝」というコンセプトに合わせてタイトルを変えたのでしょう。

「吉川英治自選集」でのみタイトルを変えているものが3作品もあります。
この短編集には6作品が収録されているので、半分タイトルが変っていることになります。

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2012年11月18日 (日)

複数のタイトルを持つ作品(2)

次はその

(2)単行本化の際に初出時とはタイトルが変った作品

です。これは6作品あります。列挙してみます。

・「武田菱誉の初陣」(『少年倶楽部』大正14年1月号)
⇒「誉の初陣」(「少年少女教育講談集5」講談社 昭和6年3月)

・「仇斬草」(『少女倶楽部』大正14年5月号)
⇒「天女の冠」(「初旅坊ちゃん」ポプラ社 昭和25年4月)

・「魔金」(『冨士』昭和11年臨時増刊号)
⇒「魚紋」(「英治短編抄」新英社 昭和11年12月)

・「悪党祭り」(『オール読物』昭和11年9月号)
⇒「鍋島甲斐守」(「英治短編抄」新英社 昭和11年12月)

・「春燈辰巳読本」(『オール読物』昭和12年臨時増刊号)
⇒「春の雁」(「松風みやげ」大元社 昭和15年)

・「太閤記」(『読売新聞』昭和14年1月1日~20年8月23日)
⇒「新書太閤記」(新潮社 昭和16年~20年)

上が初出時のタイトルと掲載紙誌、下が単行本収録時に変更されたタイトルとそのタイトルで収録された最初の単行本です(「太閤記」以外は短編なので、最初の単行本のタイトルとは一致していません)。

ちなみに、現在の「新書太閤記」は、昭和24年になって複数の地方紙に連載された「続太閤記」を含んだ作品になっています。上記の新潮社版にはその部分がありません。
これを別物と見るならば、パターン(2)は7作品ということになりますが、「太閤記」+「続太閤記」で1作品ということにしておきます。

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2012年11月17日 (土)

複数のタイトルを持つ作品(1)

メールで、こんな内容のお問合せをいただきました。

吉川英治氏作の「悲願四目菱」の切り抜きを入手しました。同名の作品の刊行がないかを調べてみましたが、見つけ ることができずにいましたが、最近入手した「江戸城心中」と同じ作品であることに気がつきました。
連載小説の時と名前を変えて出版されることは多いのでしょうか?

吉川英治の作品で、同じ作品でありながらタイトルが複数存在するものが、いくつかあります。
お問合せを受けて、少し調べてみたところ、そうした作品が23作品ありました。
吉川英治はおよそ250編の作品を残していますので、約1割が該当することになります。

作品のタイトルが複数ある理由は様々ですが、それをパターンに分けて、以下にご紹介してみようと思います。

まずは、お問合せのあった「江戸城心中」から。

(1)複数の媒体に同時掲載され、その媒体ごとにタイトルが異なる

これは「江戸城心中」の1作品のみです。

「江戸城心中」は『河北新報』昭和5年9月1日~6年5月9日に掲載された作品ですが、同時に『北海タイムズ』昭和5年9月5日~6年5月9日に「恋愛三世相」として、『新愛知』昭和5年9月5日~6年5月7日に「悲願四目菱」として掲載されました。

全国紙ではこういうことは起こりませんが、流通範囲が重複しない地方紙の場合は、同じ作品が複数の地方紙に掲載されることがありました。
吉川英治の作品では、「三国志」(『中外商業新報』『名古屋新聞』他)もそうですが、「三国志」は同一タイトルで掲載されたのに対し、「江戸城心中」の場合は新聞ごとにタイトルを変えて掲載されました。

したがって、この場合、単行本化の際にタイトルを変えたというよりは、タイトルを統一したと言うべき事例でしょう。
 

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2012年11月15日 (木)

「石を耕す男」余聞

さて先日、中之条町歴史と民俗の博物館に行った際、その常設展示を見て驚きました。

昨日紹介した「石を耕す男」の登場人物、出浦対馬守と割田下総はどちらも実在した人物として文献に名が残っていると言うのです。
そこで、中之条町歴史と民俗の博物館で販売されていた「真田忍者と中之条町」(山口武夫編 昭和60年 中之条町教育委員会・中之条町歴史民俗資料館発行)を購入してみました。

それによると、「加沢記」「吾妻記」という古文献に中之条の忍者についての記述があり、割田下総の最期について以下のような話が残っているそうです。

秀吉の兵農分離によって帰農した割田下総は、生活苦から忍者の腕を生かして盗みを働くようになり、それを下男によって吾妻郡奉行の出浦対馬守に密告され、奉行所の同心によって討たれた。
その死を悼んだ出浦対馬守が主君・真田信幸に報告したところ、「割田の盗みは、私がさせたようなものだ」と落涙した。

当館で保存している吉川英治の旧蔵書の中に、「加沢記」「吾妻記」というそのもののタイトルの書物はありませんので、どうやって知ったかは不明ですが、この逸話が「石を耕す男」のベースになっていることは間違いないでしょう。

すると興味深いのは、「真田忍者と中之条町」に記述されている出浦対馬守と割田下総の姿と、「石を耕す男」での両者の設定の違いです。

昨日書いたあらすじにある通り、「石を耕す男」では出浦対馬守は都会からやって来た、文化や風俗の最新の教養を持つ“インテリ武士”、割田下総は地元でも低い身分とされる乱波者、という形で吉川英治は両者を対照的な存在として描いています。
しかし、「真田忍者と中之条町」によると、出浦対馬守は信州埴科郡坂城町出浦の出身で、武田信玄に仕えて忍者の養成に努め、武田氏滅亡後に真田氏に仕えて、同様に忍者の養成に努めた人物だといいます。
ということは割田下総の上司のような存在です。
割田下総も、真田信幸から死を惜しまれているくらいですから、吉川英治が書くほど粗略に扱われていたわけではないようです。

それを敢えて対照的な存在にして、その間に一人の美女を配して、悲劇的な物語を紡ぎ上げたのは、吉川英治の空想力ということになるでしょう。
また、都会者と地元の者の融和できぬ対立関係ということで言えば、当時吉川英治が関心を持っていた都市と農村の格差の問題も背景にあるのかもしれないなどとも、想像してしまいますが、それは考え過ぎな気もします。

現在の「吉川英治歴史時代文庫」には収録されていない作品なので、収録図書を探すのが大変ですが、気になった方はご一読下さい。

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2012年11月14日 (水)

群馬(1)

そんなわけで、作品を紹介してみましょう。

「石を耕す男」

元織田信長の鉄砲方だという出浦大介は、本能寺の変後、秀吉の家臣となるのを嫌って浪人し、自分の売り込み先を求めて、上州中之条にやって来た。
逗留する旅館・鍋屋の主人の話から、売り込むなら岩櫃城の真田信幸と決め、取り次いでくれそうな人物を鍋屋に尋ねる。
一人は乱波者の割田下総だが、これは中之条までの道中でたまたま一緒になった夏萩という娘をめぐって悶着となった人物で、望みは薄い。
もう一人は、その夏萩の父であり、地元の旧家の秋間三郎兵衛で、出浦大介はこちらへの接近を図ることにする。
出浦大介の心には、真田家の家臣となり、夏萩を娶るという願望が芽生えていた。
祭りを利用して夏萩に近づこうとする出浦大介であったが、夏萩に恋慕する割田下総と争いになり、斬られて傷を負ってしまう。
しかし、結果として、それによって出浦大介は秋間家に近づくことができ、一方の割田下総は乱波者に秋間家の娘はやれんと三郎兵衛から一喝され、すごすごと引き下がることになる。
九年後、出浦大介は鉄砲の改良の功により真田信幸の寵臣となり、出浦対馬守と名乗っていた。
そして、夏萩を妻とし、一子・新太郎をもうけていた。
対する割田下総は、乱波者の身分に縛られ、功績を挙げても報われずにいた。
その年、秀吉の小田原攻めに乗じて、真田軍は北条方の大戸城を攻める。
割田下総はおのれの力を見せ付けようと、大戸城に忍び込んで火を放ち、真田軍に勝ちをもたらすが、その独断を叱責され、また乱波者という身分もあって、信幸へのお目見えすら叶わない。
その頃、大戸城の残兵が、真田軍の裏をかいて中之条方面に出現、中之条に妻子を残している出浦対馬守は信幸に討手を願い出て中之条に急ぐが、町は焼き払われ、夏萩は人質として連れ去られていた。
夏萩を連れ去った北条軍を追討することを渋る出浦対馬守を罵倒した割田下総は、単身、北条軍を追い、夏萩を救い出す。
それから二十余年の元和元年。
平和になった世に乱波者の居場所はなく、割田下総は腕のものを言わせて近隣で盗みなどを繰返す厄介者となっていた。
郡奉行となっていた出浦対馬守は、住民からの訴えに、ついに腰を上げ、割田下総を成敗するために配下を連れて彼の家に向う。
自らは手を下さず割田下総の首を取った出浦対馬守が帰宅すると、この成敗になぜか同行しなかった息子の新太郎が旅装しているのに出くわす。
何故来なかったのかという出浦対馬守の叱責に対して、新太郎は「母からあなたの実子でないと打ち明けられた、母は自刃した」と告げ、そのまま出奔してしまうのであった。

初出は『週刊朝日』昭和9年秋季特別号。
最も新しい収録図書は「ふるさと文学館11 群馬」(平成6年 ぎょうせい)です。

割田下総はその身分から世に受け入れられずにいるという側面はあるものの、きわめて粗暴で自堕落で粘着質な男ですし、夏萩はそんな“だめんず”と情を通じてしまう浅はかな女です。
一方の出浦大介は弁舌鮮やかながら小心で侠気に欠ける策士です。

誰一人報われないし、新太郎を除いて誰にも同情し難い、あまり後味の良くない作品です。

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2012年11月13日 (火)

中之条町訪問

昨日、中之条町を訪問しました。
先日ご紹介した中之条町歴史と民俗の博物館で開催中の新井洞巌展を見学するためです。

中之条町歴史と民俗の博物館は、旧吾妻第三小学校の建物を利用した施設です。
Dscn0171

数年前に増築された新館がこの写真の右側にあり、そちらで企画展を開催し、校舎では常設展示が行なわれていました。

さて、新井洞巌展ですが、当館からお貸しした掛け軸が1本展示されているほか、交流のあった人物として吉川英治のコーナーも設けられていました。
ちなみに、もう一人コーナーを設けられていたのは安岡正篤です。

当館からは「霜柯翡翠図」と「山居深趣図」をお貸ししていますが、会期を前半と後半に分けて交代で展示しているので、現在は「霜柯翡翠図」が展示されています(上のリンク先で書いた掛け替えの情報は間違っていました、すみません)。

興味深かったのは、「霜柯翡翠図」は翡翠、すなわちカワセミを描いたものなのですが、数多い展示作品のうち、鳥獣を描いたものはこれ1点のみで、あとはほとんど山水画だったことです。
してみると、これは珍品に属するものということになります。
ひょっとして、吉川英治が所蔵していた宮本武蔵画「蓮池翡翠図」とつながりがあるのだろうかと、想像してみたくなります。

さて、中之条町に足を運んだ理由が、もうひとつありました。

吉川英治の書いた短編「石を耕す男」の舞台が、中之条町なのです。

博物館の方に、作中に登場する旅館・鍋屋まで案内していただきました。
Dscn0182

既に旅館は廃業しているとのことですが、ここは高野長英が脱獄後に身を隠した場所のひとつでもあるそうです。

これは、JR吾妻線の郷原駅に停車中の列車の窓から撮った岩櫃山。
ここにあった岩櫃城も、作中に登場します。
Dscn0200

作品については、明日ご紹介します。

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2012年11月 8日 (木)

小説は「読んだ人のもの」

一昨日の毎日新聞夕刊に映画監督の周防正行氏による「映画は「見た人のもの」」という文章が掲載されていました。

 自分がどんなつもりで映画を作っても、見た人が感じたものこそがその映画であって、見た人の感想を前にして「それは僕の映画じゃない」と言ってみたところで、その人にとっては、その人が見たようにしか僕の映画は存在しないのである。
 そのことを虚しいとは思わない。映画とは、いや「表現」とはそういうものだと思うし、だからこそ面白いのだ。

周防氏の書くこの一節に、私は共感を覚えるとともに、吉川英治の語ったある言葉を思い出しました。

小説っていうものは、小説を読んでいる気で、読者は実は自分を読んでいるということですね。
(略)
ぼくの場合は、読者の持っているものを呼び起こさせる、つまり「呼び水」が、ぼくなだけ。

これは、昭和35年11月3日にNHKラジオで放送された八木治郎の「朝の訪問」という番組の中での発言です。
当館で製作販売している「吉川英治と吉野の里」というDVDの中に、この部分の音声が収録されているので、頭に残っていたものです。

「自分を読んでいる」とは、その人の過してきた人生や置かれている境遇によって、同じ小説を読んでも、それぞれ感じ方は異なる、ということを言っているのだと、私は理解しています。
また、自分は「呼び水」だというのは、そうした読まれ方を肯定している、ということでしょう。

その意味で、周防氏の文章と通じるように思えました。

しかし、そうなると、文芸評論というものは何なのだろうか、読者がどのように作品を読んでも良い以上、そんなことは無意味ではないのか、と思ってしまうのは、私が文学を何も理解していないからなんでしょうね、きっと。

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2012年11月 1日 (木)

本日から冬時間

例年通り、本日から営業時間が冬時間になります。

開館が午前10時なのは変りませんが、閉館が午後4時30分、入館締切りが午後4時となります。

近年はアートプログラム青梅の期間中に時間が変るので、うっかり4時過ぎにお越しになる方がいらっしゃいます。
閉館が早まっていますので、ご注意下さい。

よろしくお願いいたします。

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