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2012年11月 8日 (木)

小説は「読んだ人のもの」

一昨日の毎日新聞夕刊に映画監督の周防正行氏による「映画は「見た人のもの」」という文章が掲載されていました。

 自分がどんなつもりで映画を作っても、見た人が感じたものこそがその映画であって、見た人の感想を前にして「それは僕の映画じゃない」と言ってみたところで、その人にとっては、その人が見たようにしか僕の映画は存在しないのである。
 そのことを虚しいとは思わない。映画とは、いや「表現」とはそういうものだと思うし、だからこそ面白いのだ。

周防氏の書くこの一節に、私は共感を覚えるとともに、吉川英治の語ったある言葉を思い出しました。

小説っていうものは、小説を読んでいる気で、読者は実は自分を読んでいるということですね。
(略)
ぼくの場合は、読者の持っているものを呼び起こさせる、つまり「呼び水」が、ぼくなだけ。

これは、昭和35年11月3日にNHKラジオで放送された八木治郎の「朝の訪問」という番組の中での発言です。
当館で製作販売している「吉川英治と吉野の里」というDVDの中に、この部分の音声が収録されているので、頭に残っていたものです。

「自分を読んでいる」とは、その人の過してきた人生や置かれている境遇によって、同じ小説を読んでも、それぞれ感じ方は異なる、ということを言っているのだと、私は理解しています。
また、自分は「呼び水」だというのは、そうした読まれ方を肯定している、ということでしょう。

その意味で、周防氏の文章と通じるように思えました。

しかし、そうなると、文芸評論というものは何なのだろうか、読者がどのように作品を読んでも良い以上、そんなことは無意味ではないのか、と思ってしまうのは、私が文学を何も理解していないからなんでしょうね、きっと。

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