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2012年11月15日 (木)

「石を耕す男」余聞

さて先日、中之条町歴史と民俗の博物館に行った際、その常設展示を見て驚きました。

昨日紹介した「石を耕す男」の登場人物、出浦対馬守と割田下総はどちらも実在した人物として文献に名が残っていると言うのです。
そこで、中之条町歴史と民俗の博物館で販売されていた「真田忍者と中之条町」(山口武夫編 昭和60年 中之条町教育委員会・中之条町歴史民俗資料館発行)を購入してみました。

それによると、「加沢記」「吾妻記」という古文献に中之条の忍者についての記述があり、割田下総の最期について以下のような話が残っているそうです。

秀吉の兵農分離によって帰農した割田下総は、生活苦から忍者の腕を生かして盗みを働くようになり、それを下男によって吾妻郡奉行の出浦対馬守に密告され、奉行所の同心によって討たれた。
その死を悼んだ出浦対馬守が主君・真田信幸に報告したところ、「割田の盗みは、私がさせたようなものだ」と落涙した。

当館で保存している吉川英治の旧蔵書の中に、「加沢記」「吾妻記」というそのもののタイトルの書物はありませんので、どうやって知ったかは不明ですが、この逸話が「石を耕す男」のベースになっていることは間違いないでしょう。

すると興味深いのは、「真田忍者と中之条町」に記述されている出浦対馬守と割田下総の姿と、「石を耕す男」での両者の設定の違いです。

昨日書いたあらすじにある通り、「石を耕す男」では出浦対馬守は都会からやって来た、文化や風俗の最新の教養を持つ“インテリ武士”、割田下総は地元でも低い身分とされる乱波者、という形で吉川英治は両者を対照的な存在として描いています。
しかし、「真田忍者と中之条町」によると、出浦対馬守は信州埴科郡坂城町出浦の出身で、武田信玄に仕えて忍者の養成に努め、武田氏滅亡後に真田氏に仕えて、同様に忍者の養成に努めた人物だといいます。
ということは割田下総の上司のような存在です。
割田下総も、真田信幸から死を惜しまれているくらいですから、吉川英治が書くほど粗略に扱われていたわけではないようです。

それを敢えて対照的な存在にして、その間に一人の美女を配して、悲劇的な物語を紡ぎ上げたのは、吉川英治の空想力ということになるでしょう。
また、都会者と地元の者の融和できぬ対立関係ということで言えば、当時吉川英治が関心を持っていた都市と農村の格差の問題も背景にあるのかもしれないなどとも、想像してしまいますが、それは考え過ぎな気もします。

現在の「吉川英治歴史時代文庫」には収録されていない作品なので、収録図書を探すのが大変ですが、気になった方はご一読下さい。

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