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2013年1月28日 (月)

時代劇

先日、地元の中学校の生徒が総合学習で当館の見学に来ました。

さて、当館では、最近は吉川英治原作映画のポスター類を常設展示しています。
いま展示しているのは、美空ひばりと中村錦之助が主演の「ひよどり草紙」、長谷川一夫と市川雷蔵が共演の「鳴門秘帖」、高橋英樹主演の「宮本武蔵」の3枚。

中学生たちが、そのポスターの前にいたので、「それ、高橋英樹だよ」と、声をかけました。

上記の役者のうち存命なのは高橋英樹だけですし、最近はバラエティ番組にも出演していますから、中学生でも知っているだろうと思ってのことですが、みんな「???」という顔をしています。

そこで重ねて、「サムライの格好して越後製菓のCMに出てる人」と言ったら、「ああー」と納得した様子。

オジサンにとっては「桃太郎侍」の人なんだけど、中学生じゃ知らないよなぁ。
「一つ人の世生き血をすすり、二つ不埒な悪行三昧、三つ醜い浮世の鬼を、退治てくれよう、桃太郎」なんてそらんじてるんだけどなぁ。

しかし、私が彼らくらいの年の頃には中村梅之助の「遠山の金さん」、大川橋蔵の「銭形平次」、加藤剛の「大岡越前」、中村敦夫の「木枯らし紋次郎」、「大江戸捜査網」シリーズに「必殺」シリーズ、などなど、挙げ出したらきりがないくらいの時代劇がテレビで見られたものですが、いまは地上波ではほとんど見る機会がないでしょう。

まあ、吉川英治の場合は同一主人公の連作がないので、テレビでは大河ドラマか単発ものかという両極端なものにしかならないので、ある意味ではあまり影響がないと言えばないのですが。

でも、時代劇、復活して欲しいものです。

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2013年1月27日 (日)

散髪

記念館のある柚木地域では、誰か亡くなると短期間に立て続けに葬式が続く、少なくとも3件は続く、という一種の伝説があります。

厳密に統計を取れば、ただの思い過ごしか偶然なのでしょうが、確かに、昨年末から年明けにかけて、数件の葬儀がありました。

そのうちの1件は、私も行きつけにしている散髪屋のおかみさんでした。

この散髪屋は、今のご主人の先代も散髪屋で、吉川英治から「鉄幹子」という俳号をもらった俳人でもありました。

吉川英治がこの地に住んでいた頃、頼まれて、いま記念館になっている屋敷まで出向いて、吉川英治の髪を切ったこともあったそうです。

もっとも、吉川英治はなぜか散髪嫌いで、そんなことも一度か二度くらいだったと聞きます。

では、あとはどうしていたかと言えば、文子夫人が髪を切っていたのだそうです。

その様子が、吉川英明著「吉川英治の世界」(昭和59年 講談社文庫)に書かれています。

しぶしぶと書斎から出て来て椅子に坐るが、そんな時でも、首に巻く白いシーツは、きつく締めさせなかった。「ゆるいと、なお、チクチクしますよ」と言っても、きついのは嫌だと言い張るのだった。
父にとって、母の散髪の利点は、そんな我儘がきくことと、時間が短く済むことだった。短く済むといっても、父の方で、「もういい、もういい」と、やめさせてしまうのである。

この文章から知れる通り、散発が嫌な理由は、首の周りにきつく布を締められること、長時間じっと座っていること、髪や顔を人にいじくられること、刈った髪がチクチクすること、などだったそうです。

子供か!と言いたくなる言い訳ですね。

しかし、厳しい父親の、こんな子供っぽさというのは、きっと息子から見て好ましいものだったのでしょう。

そんな気がします。

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2013年1月26日 (土)

作家の犬2

平凡社のコロナブックスの1冊として1月25日付で、「作家の犬2」が刊行されました。

この本に登場する28人の作家・著名人の一人として、吉川英治が取り上げられています。
また、吉川英治と犬にまつわるエッセイを、当館館長の吉川英明が執筆しています。

吉川英治は、その生涯を通してみればペットとは縁の薄い人でしたし、私もそのあたりにはあまり興味がなかったのですが、この本の取材に協力しているうちに、吉川館長から吉川英治と犬についてのエピソードをいくつか聞き、とても参考になりました。

ご興味のある方はぜひご一読を。

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2013年1月15日 (火)

江戸(2)

ある雑誌のサイトを見ていたら、江戸時代にも今日の「大食い選手権」のようなイベントが存在していたという事が書かれていました。

この江戸時代に行なわれていた「大食い選手権」に材をとった作品があります。

「醤油仏」

日雇い人足を扱っている親方の銅鑼屋の亀の寄子部屋に左次郎という若い男がいた。
それを武家の息子とにらんだ銅鑼亀が事情を聞くと、確かに因州池田家の家臣だという。
六年前、藩の重役から名品の壺の代金として二百両の金を預かって仲間(ちゅうげん)一人を連れて上方へ出た養母が、行方知れずになった。その間に父親が死んだが、この養母の事があって跡目が継げない。金を取り戻すか、せめて仲間の男の首を取らないことには帰藩できない。その養母たちが江戸にいるらしいと聞いて江戸に出てきたが、路銀が尽きて、ここにお世話になっている。
そんな打ち明け話を聞いて、銅鑼亀は協力を申し出る。
一方、その当時流行の大食会の影響で、賭食いなるものが、彼ら人足たちの間でも流行っていた。
そんな中でも名の知られていたのが「醤油賭の伝公」という男で、醤油の賭け飲みをして、いつも掛け金をさらっていく。
銅鑼亀の寄子部屋の連中が、面白がって伝公との賭けに挑むが、負けてしまう。
それで意地になった銅鑼亀の子分たちが再戦を挑むが、また負ける。
だが、その様子を見ていた銅鑼亀が、ある一計を案じ、子分たちにもう一度賭けをするようにとけしかける。
数日後、またしても賭けは伝公の勝ちとなる。
しかし、いつものように賭けの後、人足連中と分かれた伝公は慌てふためく。
銅鑼亀の差し金で、付近の銭湯がどこも休みなのである。
実は、伝公は醤油を飲んだあと、銭湯に入って、体の塩気を抜くことで、体調を保っていたのだ。
銭湯に入れなかった伝公は、ついに悶死してしてしまう。
死ぬとまでは思わなかった銅鑼亀たちが駆けつけると、伝公の死体にすがって泣く女がいた。
聞けば、この二人こそ左次郎の探していた養母と仲間であった。
銅鑼亀はそのことを左次郎に伝えようと部屋に戻るが、なぜか左次郎は姿を消していて、二度と戻らなかった。

『改造』昭和3年5月号が初出の短編小説です。
刊行中の「吉川英治歴史代文庫75 治郎吉格子 名作短編集(一)」に収録されています。

醤油を飲んだ後、熱い風呂に入って、醤油の塩分が対外に排出できるのかどうか、むしろ体内の水分が減って塩分濃度が上りやしないか、いささか不安になりますが、そこはお話ということで。

ちなみに、サイトの記事では「醤油1升8合」を飲んだ記録があるそうですが、伝公は2升8合を飲み干します。
ま、それで死んでしまうわけですが。

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2013年1月11日 (金)

誰何

当館の館長は吉川英治の長男である吉川英明です。
先日、その吉川館長と雑談中に、こんな話が出ました。

吉川英治は、その生涯に30回ほどの引越しをしており、そのため、そのほとんどは借家でしたが、最後に住んだ東京都港区赤坂新坂町の家は、自分で建てた家でした。
それも、設計段階から様々な要望を出し、あれこれと注文をつけて建てた家でした。
とにかく、家が完成するのが待ち遠しくて、家の建設中に住んでいた渋谷区松涛の家から、何かの用事で外出したりすると、その帰路に赤坂の家の建設現場に立ち寄って、その様子を眺めるのを楽しみにしていたそうです。

そんなある日、いつものように赤坂の建設現場に立ち寄り、敷地の周りをウロウロしながら、現場を覗き込んでいる時、不審者に間違われて警官から職務質問されてしまったのだそうです。

たまたま、その時はハンチング帽をかぶっていたことも、怪しさを醸し出して、誰何される要因になったようです。

笑える話ですが、実は、吉川英治が職務質問を受けるのは初めてではありません。

下の関より夜の急行寝台車に入る吉川氏此駅の刑事に怪まれ不満の形相なりしも食堂にて一盃愁雲を散じて寝に就く

吉川英治は、昭和12年1月9日~18日に九州を旅行し、熊本などで宮本武蔵の遺蹟を訪ねています。
連載中だった「宮本武蔵」の取材旅行です。

その旅の同行者である画家の野口駿尾が書いた「好日の旅」(『書と詩画』昭和12年4月号に掲載)の一節が、上記の引用です。

「好日の旅」や吉川英治自身の一連の紀行文の記述によると、1月17日、朝に熊本を出て、門司に移動した吉川英治は風師山から巌流島を見下ろしたり、伊織が建てた武蔵顕彰碑を見たりした後、下関に渡って、そこから夜行列車で東京に戻ります。

この時、下関駅で職務質問されたというわけです。

当時の関門海峡は要塞地帯として警備が厳重でしたし、テレビのない時代ですから、地方の刑事が著名作家の顔を知らなくても不思議はありません。

それにしても、下関の刑事は吉川英治をスパイか何かと思ったのでしょうか?

写真で見る吉川英治の風貌は、そんなに職務質問されやすいタイプとは思えないのですが。

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2013年1月 9日 (水)

調べるのは楽しい

昨日のようなことを書くと、「それが学芸員の仕事だろ?」という意見が出るでしょう。

それはある意味でその通りではあるのですが、それだけが学芸員の仕事ではありませんし、それによる対価は得ていないわけですから、それは“仕事”ではなく“奉仕”です。

それに、何かに疑問を持ち、それについて調べることは、本来楽しいことのはずなのです。

実は、昨日はあのように書きましたが、問合せを受けて、それについて調べるということ、それ自体は、私は嫌いではありません。
わからないこと、知らないことが判明していく過程は、楽しいものです。

困るのは、質問者のタイミングでそれをしなければいけないという点と、あくまでそれは質問者の疑問・興味であって、私の疑問や興味ではないという点です。

こちらに時間の余裕がない時に、今まで自分では問題意識を持っていなかったことについて、急に尋ねられても、ちょっと困る、ということです。

それよりも、自分で調べて、不明だったことがわかっていく過程を楽しんだ方が、その人にとっても良いんじゃないかな、と思うのです。
そこからさらに知的関心が広がっていくということもありますし。

それを、電話一本で答えだけを聞いて、それでスッキリしておしまいでは、もったいないし、つまらない、と思うのですが、どうでしょう。

ちょっとズレますが、昨日触れた全国文学館協議会資料情報部会の発表の中で、ある文学館の方が、大学の教員からある雑誌に掲載されたある人物の歌だったか詩だったかを全てリストアップして欲しいという依頼があったという事例を報告なさいました。
それは、その調査自体が立派な研究であって、それを“外注”してしまう大学の教員って、何が楽しくて学者をやっているのかと言いたくなる話です。

結局、問合せに対して、レファレンス情報としてこちらが提供すべき範囲と、疑問・興味を抱いた本人自身が調査・研究すべき範囲との境界というのは、幅の広いグレーゾーンで、その人の考え方によりけりということになるのでしょう。

とりあえず、私は、武者小路実篤記念館方式は採らず、問合せに対しては可能な範囲でお答えしていこうと思いますが、時間の猶予はいただきたいと思う次第です。

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2013年1月 8日 (火)

検索

アクセス解析を見てみると、年が明けてから、普段よりアクセスが多くなっているので、どうしたことかと思ったら、大晦日に更新した吉川英治の著作権切れの記事への反応があったようです。
と言っても、リンク元をたどると、青空文庫への言及に対しての反応が主のようですが。

ところで、昨年11月に行なわれた全国文学館協議会資料情報部会の際に、武者小路実篤記念館の学芸員の方が、質疑応答の場で、「当館では問合せに対しては、その質問への答えではなく、その調べ方について答えるようにしている」と発言されました。

つまり、例えば、「武者小路実篤の○○について教えてください」という問合せがあると、「それについては■■という本に出ていますから、それを読んでみて下さい」と答える、というようなことです。
また、典型的な質問については、「館のホームページ上に『よくある質問とその答え』という欄を設けてあるので、そこを見てください」と答えるのだとか。

確かに、電話での問合せというのは、突然かかってきて、しかも、その場ですぐに回答を求めるということが多いので、手の離せない作業をしている時には、困ることがあります。
また、質問内容によっては、十分に時間をかけて調査しないと即答できないものもあるわけで、質問者の都合に合わせて、それに優先的に取り組むと、他の仕事ができなくなるという問題もあります。

特に、「△△という言葉がどの作品に出てくるのか教えてください」というのが、難しい。
吉川英治なら「我以外皆我師」とか「朝の来ない夜はない」などのよく知られた言葉については、すぐ答えられるのですが、それ以外の、こちらもすぐにはピンと来ないような言葉になると、かなりの手間をかけなければ答えが見つからないということもあります。
万が一、質問者の勘違いで言葉が間違っていたり、他の著名人の言葉だったりすると、当然、いつまでもその言葉にたどり着かないことになります。

そこで、青空文庫です。

デジタル化された文章なら、検索機能が使えます。
実際、作品中のある言葉をピンポイントで探す際には、私も電子文庫版の「吉川英治歴史時代文庫」を活用しています。
しかし、電子文庫は商品なので有料ですから、質問者に対して、電子文庫で検索してみて下さいとは言いづらい。

しかし、青空文庫は無料で公開しています。

検索機能を用いれば、作品を全部読み通さなくても、ある言葉を探すことは、比較的簡単です。

つまり、「青空文庫は無料ですから、そこで検索してみて、それでも答えが見つからなかったら、改めてお問合せ下さい」と回答することが可能になります。

そういう意味で、青空文庫で吉川作品が公開されることには期待している部分があるのです。

もっとも、吉川英治のように著作が多い場合、比較的簡単とは言っても、相当な手間がかかりますが。

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2013年1月 7日 (月)

森鴎外記念館

先日、ロゴマークについて触れた森鴎外記念館ですが、年末年始の休館中に、見学に行ってみました。

文学館と一口に言っても、当館のような個人記念館もあれば、神奈川近代文学館や世田谷文学館のような総合的な、また地域的な文学館もあり、俳句文学館や現代詩歌文学館のようなジャンルを特化した文学館もあります。

個人記念館でも、その立地が旧宅の敷地を利用したものから、縁の都市ではあるけれども立地自体はその個人とは無関係な場所に建てられているものなど、様々です。

そして、旧宅の敷地を利用している場合でも、その旧宅の建物が実際にその個人が居住していた時から現在まで残っている所と、建物は現存していない場合とがあります。

当館は幸いなことに旧宅が現存していて、しかも敷地が広いため、旧宅はそのまま手をつけず、別に展示室を建てています。

さて、森鴎外記念館は、鴎外が“観潮楼”と名付けた家のあった場所にあります。
しかし、残念ながら、“観潮楼”は現存しないため、新たな建物が建てられ、記念館となっています。

詳しい経緯は記念館のサイトを見ていただくとして、正直なところ、私は拍子抜けしました。

せっかく“観潮楼”のあった場所に建てられているのに、記念館の建物からは“観潮楼”をイメージできなかったからです。
少なくとも、私には感じられませんでした。

“観潮楼”があった当時から残っているものは「三人冗語の石」など、ごくわずかなものだけですし、当時は見えたという海も今は見えません。
記念館の建築それ自体で、“観潮楼”を表現してもらわないと、私のような凡下な者にはサッパリです。

上記サイトにある設計者の言葉によれば、「若き鴎外が学んだドイツの歴史的街並を彷彿」させることを意図したようですが、「鴎外が住んでいた頃の東京の街並みを彷彿」させるようなものではダメだったのでしょうか。

まあ、それは設計者の罪ではなく、この設計をコンペで通した者の罪と言うべきでしょうが。

森鴎外記念館は、既に出身地の津和野に存在しています。
そちらには隣接して鴎外の旧宅が現存しているそうですが(訪ねたことがないので具体的な状況は知りません)、そちらは作家としての鴎外の旧宅とは言い難いでしょう。

それよりも、30歳から亡くなるまで30年間暮らした“観潮楼”の方が重要だと思うのですが、館内に展示された模型でしかその姿が見られないとは、もったいないことだと思えて仕方がありませんでした。

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2013年1月 6日 (日)

2013年

新年明けましておめでとうございます。

吉川英治記念館は、本日から2013年の営業を開始します。

と言って更新しているのが閉館後で、しかも明日は定休日でお休みなのですが(苦笑)

なんにせよ、今年もよろしくお願いいたします。

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