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2013年7月13日 (土)

未発表作品は“作品”なのか

吉川英治記念館のサイトは現在リニューアル作業中です。
リニューアルに合わせてこのブログも再開しようと思っていたのですが、なかなか作業が進まないので、再開の機を逸してしまった感があります。

ということで、ちょっと戯言でも書いて場を繋いでみようと思います。

世田谷文学館から「没後80年 宮沢賢治 詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心」展(7月13日~9月16日)のチラシが送られてきました。

そう言えば、7月7日に終了した青梅アートジャムの一環として当館で開催された“能楽らいぶ”で、能楽師の中所宣夫さんが、演目のひとつとして「雨ニモマケズ」を謡いながら舞われました。

さて、以前から疑問に思っていたのですが、この「雨ニモマケズ」は文学作品と言えるのでしょうか?

文学を含む芸術はコミュニケーションの一種であると、私は考えています。

作者が一定の意図と意志をもって作品を公表し、それを作者以外の人間が鑑賞してその人の中に何らかの情動が生じた、その瞬間をもって芸術は初めて成立する、というのが私の芸術観です。

「雨ニモマケズ」は、よく知られている通り、宮沢賢治の死後、その遺品の手帳の中から見出されたもので、それまで誰もその存在を知りませんでした。

ということは、作者たる宮沢賢治に、これを公表する意志があったかどうかは不明なのです。
しかも、あくまでもメモであって、これが完成形であるのかどうかもわかりません。

例えば、死んだ画家のアトリエから誰も存在を知らなかったデッサンが見つかったとして、それを“作品”として扱うでしょうか。

それは“作品”ではなく“資料”なのではないでしょうか。

つまり、「雨ニモマケズ」は、宮沢賢治という人物の内面を知るための重要な“資料”ではあるけれども、“作品”としての要件は満たしていない、と考えるべきではないのかと思うのです。

本人の推敲、校正を経て、その意志によって公表されているわけではない以上、それは“資料”であって“作品”ではない。
それが“代表作”として、他の作品を差し置いて最も人口に膾炙している状態というのは、宮沢賢治にとって極めて不幸な状態ではないのか。

そう思えてならないのです。

「雨ニモマケズ」の中の表現をめぐって「『ヒデリ』『ヒドリ』論争」などというものがありますが、“作品”でないものの表現を論じてどうなるでしょう。
「発表してもいないものを勝手に世に出して、どちらの表現が正しいかなどと論じるなど、余計なお世話だ」と、あの世で宮沢賢治も苦笑しているのではないでしょうか。

ま、これも「ヒデリ」か「ヒドリ」かを論じるのと同じくらい、手前勝手な想像でしかありませんが。

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