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2014年1月30日 (木)

人生のパスポート

私は別に“名言狩り”をしているわけではないのですが……

下記の言葉の出典を教えてほしいというメールをいただきました。

この人生は旅である。その旅は片道切符の旅である。往きはあるが、帰りはない。この旅で様々な人と道中道連れになる。それらの人と楽しくスムーズにやっていくには人生のパスポートが大切だ。それはお辞儀とあいさつである。

そう聞かれるからには、と思い検索してみると、web上に広く流布していました。

吉川英治はあいさつを大事にした人で、自分の子供たちにも朝夕のあいさつだけは厳しくしつけたというエピソードがありますから、吉川英治が口にしていても不思議はない言葉です。
先日の「人生列車」のこともありますから、人生を旅にたとえるのも類例があります。
しかし、いささか違和感があります。

何となく当たりをつけて探してみたところ、出典が見つかりました。

扇谷正造「君よ 朝の来ない夜はない」(1984年 講談社)の中に、『人生のパスポート』という項目がありました。
長くなりますが引用してみます。

さて、あいさつとお辞儀とは、どういう意味を持つか。
吉川さんによると、この人生は旅であるという。
しかし、その旅は、片道切符の旅である。行きはあるが帰りがない。オギャーと生まれたときが、人生という旅の始発駅であるならば、ウーンといって大往生を遂げるときは、人生という旅の終着駅である。
われわれは、この人生という旅において、さまざまな人と道中道連れになる。小学校、中学校、高等学校の友だち、勤め先の仲間、取引先の人々、隣近所の人々……。それらの中で、一番縁の深いのは、夫と妻という道連れである。これらの道中、道連れと人生という旅を仲よくスムーズにやっていくには、人生のパスポートが必要である。それがおじぎとあいさつである。
「扇谷君、ぼくの人生はあとわずかである。せめて生きているうちに、自分の愛する子どもたちに、目に見えない人生のパスポートをきちんと授けていこうと思っているんだ」と、しみじみいわれたことを思い出します。そして、それをそのまま、私は皆さんにお伝えいたします。

いかがでしょうか?

扇谷正造は、元『週刊朝日』編集長で、同誌に「新・平家物語」を連載した吉川英治とは交流がありました。
そして、この本は、扇谷が行なった講演をまとめたものです。

この文章の中で、吉川英治が語った言葉には、「 」がついています。
講演録ですから、後から校正してつけたものでしょう。
と言うことは、逆に言えば、その直前の部分は、吉川英治が語った言葉そのままではないということです。
「 」内も、聞いた言葉を書いたものですから、言い回しや用語など吉川英治の言葉そのままとはいかないでしょうが、その「 」すらつけていない部分は、推して知るべしでしょう。
つまり、吉川英治との会話の中で扇谷正造が受け取った言葉を、講演の聴衆に伝わりやすいようにアレンジしたものが、この『人生のパスポート』という文章である、と考えるべきなのだと思います。

吉川英治の精神を表しているけれども、吉川英治の言葉そのものではない、ということです。
しかも、流布している言葉は、それをさらにアレンジしていますから、さて、これは吉川英治の名言と言うべきなのか、はなはだ疑問です。

まあ、言わんとすることが伝わっていれば良いのだ、と言うならば、それまでですが。

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2014年1月28日 (火)

「ことわり屋」と「にらみ返し」

先週、当館の草思堂落語会で吉川英治の新作落語を演じてくださっている柳家禽太夫さんの出演する落語会があったので、足を運んでみました。

一度くらい、スタッフとしてではなく、純然たる客として禽太夫さんの落語を聴いてみたかったのと、禽太夫さんの演目が「にらみ返し」であったことが、大きな理由です。

吉川英治の新作落語に「ことわり屋」というものがあります。

以前演じてもらった時、これと「にらみ返し」がよく似ていると禽太夫さんから伺ったので、気になっていたのです。

リンク先でも簡単に紹介していますが、「ことわり屋」はこんな作品です。
(ちなみにリンク先では主人公の名前を間違ってます。お恥ずかしい)

無職の頓公は、ご隠居に新商売の≪ことわり屋≫をやってみないかと奨められます。
≪ことわり屋≫とは、要するに、本人に代わって借金その他の断りをして、お代を頂戴するというもの。
これなら元手要らず、身体ひとつあればすぐにも開業できるということで、すっかり乗り気になった頓公は、さっそく「ことわり屋~」と街を流し始めますが、声をかけてくるのはおかしな客ばかりで、ちっとも儲かりません。
そうこうするうちに、気が付けば自宅に戻ってきてしまった頓公。
女房から、家に借金取りが10人も来ていて居座っていると訴えられた頓公、借金なんかすぐに何とかなると自信満々。
「見ろ、一人二円宛にして、十人断りゃ直ぐ二十円になるぢゃねえか」

一方、「にらみ返し」はこんな話です。

時は大晦日。
熊さんが帰宅すると、掛取りに何度も来られてうんざりしていた女房になじられます。
そこへ折悪しくやって来た薪屋の掛取りの「払ってくれるまでここを動かない」という言葉尻を捉えた熊さん、「じゃあ、半年間そこを動くな」と返して、まんまと撃退に成功します。
とは言え、大晦日だけに、まだ掛取りは何人もやってくるはず。
どうしたものかと思案するところへ、表から「借金、言い訳~」という声が。
招き入れてみると、ひとりの男が、1時間2円で代りに掛取りを追い返してくれると言います。
これは幸いと、どうにか2円をこしらえて仕事を依頼すると、この男、煙草をふかしながら、無言で掛取りをにらみつけて追い返してしまいます。
しかし、3人追い返したところで1時間が過ぎてしまいます。
まだまだ掛取りがくるので、時間を追加してくれという熊さんの頼みを断って、男が答えます。
「今度は家の方をにらみ返さねばならん」

なるほど、似ています。

本人に代わって借金の断りをする商売が登場すること、最終的に断る商売をしている者の家の話で落とすところ、なんかが同じです。

その一方で、断る商売をやる人間が主人公である「ことわり屋」に対して、「にらみ返し」では形としては脇役です。
また、「ことわり屋」は断りに成功していませんが、「にらみ返し」は成功しています。

それもそうでしょう、「にらみ返し」は、そのにらみ返す姿が見せ場になっている作品です。
一方、「ことわり屋」は、雑誌に掲載された“読む落語”ですから、にらみ返すのでは話になりません。
そこで奇天烈な依頼内容の方で笑わせようとしているということになるのでしょう。

また、「にらみ返し」は、話の前半と後半で主人公が入れ替わったような印象を受けます。
それは耳で聴く分には苦になりませんが、文章にすると妙な感じです。
「ことわり屋」の方が一貫性があります。

おそらく、吉川英治の頭には「にらみ返し」があったのでしょう。
それを、読む作品として再構成したのが「ことわり屋」と考えればいいのではないでしょうか。

そんなことを考えた一夜でした。

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2014年1月27日 (月)

All work and no play makes Jack a dull boy.

All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.All work and no play makes Jack a dull boy.

というジョークを、この休館期間中にやろうと思っていたのですが、意外と毎日のように来客があって、そんな雰囲気になりません。

……いや、みんな亡霊じゃなくて生身の人間のはずですが……

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2014年1月24日 (金)

続々横浜散歩(2)

この東福寺赤門前の清水町の家は、吉川英治の恵まれた幼少時代が暗転した場所でもあります。

桟橋会社の共同経営によって羽振りの良かった父親の直広は、自宅を改装して≪みどり屋雑貨店≫を起し、英治に商売の練習をさせようとしました。
その父の思いとは裏腹に、英治は中学校への進学を夢見ていました。
そんな暮らしが父親の訴訟沙汰で破綻し、小学校を中退して奉公に出されてしまうことになります(奉公に出された先は、以前触れました)。

その後、英治がその奉公先にいるうちに、残された家族は清水町の家を引払い、転居します。
それが今回足を運んだもう一ヶ所、西戸部蓮池という場所です。
現在は戸部町です。

奉公先で店主の不興を買い家に帰されてしまった英治は、母親の手紙により、奉公に出ている間に転居したことだけは知っているものの、それまで一度も見たことのなかった実家の姿をこんな風に書いています。

 字蓮池という所は、伊勢山から紅葉坂の反対側の方を西へだらだら降りて行って、中途から狭い横道をまた右へ降りきった一劃の窪地であった。藪やら古い池の残痕やらを繞って安ッぽい借家がぼつぼつ建て混み初めて来たといった風な場末であった。その一軒の格子先に、紛うなきわが家の表札を見つけたとき、ぼくはこれがわが家かと疑った。そしておずおずと足を踏み入れるばかりな狭い土間の中へ入ってまず奥を覗いた。
 家はたった三間ほどであった。以前の家庭にあったような家具や飾りは何一つ見当たらない。父の姿も見えなかった。奥の六畳にまだおむつの要る妹が蒲団にころがってい、狭い裏庭の外に物干竿へ洗い物を懸けている母の後ろ姿があった。(略)

実際にその蓮池と推定される場所に立ってみると、英治が描写するように、確かに低地です。
写真の道路を見ると一目瞭然です。
Dscn1252

Dscn1251

「父の姿も見えなかった」とあるのは、父親が投獄されていたからで、そのため困窮していた吉川家は、この蓮池の家の家賃が払えず、間もなく同じ西戸部の別の家に転居することになります。

「忘れ残りの記」の記述を追いかけてみると、一時的に羽振りが良くなった時期に関内の尾上町に転居した他は、以後数年間、西戸部の一帯で転居を繰返しています。
吉川英治にとって、貧困に喘いだ少年時代のその舞台は、この西戸部だったということになるでしょう。

古い西戸部という地名は、ぼくの頭には飢餓の辻みたいな印象を今ものこしている。尾上町から越した先は、また西戸部だった。家賃も物価も安く周りも同格者ばかりなので、貧乏がしよいのである。

そう書き残しています。

ふと見上げるとランドマークタワーが見えました。
ランドマークタワーは元横浜ドックです。
Dscn1246

吉川英治が横浜ドックで働き始めた頃の住まいは、やはり西戸部でした。
ここらあたりから、あのランドマークタワーの足元まで働きに行っていたのだと思うと、感慨深いものがあります。

西戸部での逸話はまだ多くありますが、今回は時間も余力もなくなってきたので、かつての蓮池を訪ねるにとどめました。

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2014年1月23日 (木)

続々横浜散歩(1)

今年の6月に文学散歩を行う予定です。
今回は吉川英治の出身地である横浜を歩く企画を立てています。

先日、その立ち寄り先とルートの確認のための下見に行ってきました。
そのついでに、以前の2度の横浜探訪(これこれ)で足を運ばなかった場所2ケ所に行ってみました。
ちなみに、この2ヶ所は企画中の文学散歩のルートには入っていません。

まずひとつが東福寺。山門が赤く塗られていることから“赤門”の通称があります。
Dscn1221

 家が、南太田の赤門前に引越したのは、ぼくが九歳の秋頃である。南太田尋常高等小学校へ転校した。こんどの学校は、家からも近く、駈け足でゆけば二分か三分だった。赤門前というのはその辺の俗称で、正しくは、横浜市南太田清水町一番地と書いた。
(「忘れ残りの記」より。以下同じ)

吉川英治の『自筆年譜』によれば、明治34年(1901)から明治38年(1905)まで吉川家のあった場所が、この東福寺赤門前であったということになります。
ただ、吉川英治は住所を≪清水町一番地≫としていますが、その頃、“吉川英次(英治の本名)”の名が雑誌『少年』明治37年9月号の投稿欄に出ており(これが活字で確認できる最初のものです)、そこでは住所が≪横浜市清水町4≫となっています。
雑誌の誤植の可能性もありますが、ただ、横浜時代の吉川英治について調査した「吉川英治と明治の横浜――自伝小説『忘れ残りの記』を解剖する」(横浜近代文学研究会1989年1月30日 株式会社白楽)は、吉川英治が記述する≪清水町一番地≫は、≪清水町四番地≫と考えた方が条件を満たすことを論じています。
ということは、吉川英治の記憶違いなのでしょう。
なお、現在の住所は赤門町です。

写真の奥に見えるのが東福寺の赤門で、門前の通りの向って右側の表通り沿いの一角がかつての清水町4番地になります。
Dscn1229

英治が描く街の情景はこんな感じ。

 いとも閑静な、そして小さな町で、清水町は一番地から四番地までしかないのである。戸数も何軒と数えられるようなその真四角な住宅地の周りを、西北の戸部山や久保山から流れてくるきれいな小川が繞っていて、どの家の門にも、その家だけの小さな橋が架かっていた。
 ぼくの家は、赤門とよぶ寺の山門通りに面した角地であった。だから家の横にも前にも、その清冽な水が繞っていた。(略)
 家の前は広い三叉路で、北へいくと、鉄温泉とよぶ鉱泉宿があった。南には、すぐ南太田小学校の校舎が望まれ、普門院というお寺やら、英町、霞町などという静かな町並の生垣がつづき、もすこし行くと初音町に出る。そこまで出ると、かなり賑やかで、角に大きな乾物問屋があった。(略)

訪ねてみると、確かに閑静な住宅街の雰囲気がありますが、今は自動車の交通量の多い通りに面しているので、風情は全くありません。
その通りを渡ったところに太田尋常高等小学校はありました。
英治は≪南太田尋常高等小学校≫としていますが、南が付かないのが正しいようです。
写真のガソリンスタンドのある一帯がその跡地です。
Dscn1227

この太田尋常高等小学校に通った作家がもう一人います。
大佛次郎です。
大佛次郎(本名・野尻清彦)は、上記の英治の文中にもある英町で明治30年(1897)に生れています。
明治37年(1904)に太田尋常高等小学校に入学するも、10日ほど通っただけで東京に引越してしまったそうです。

吉川英治の清水町の家と、大佛次郎の英町の家は歩いてものの1分程度の距離です。
今は赤門病院のある辺りが大佛次郎の生家跡のようです。

しかし、この時代には両者に接点はなかったようです。
吉川英治は明治25年(1892)生れで5歳年長であった上、家の没落から明治36年(1903)には他家に奉公に出されたりしていますので、それも無理からぬことでしょう。

「忘れ残りの記」では、大佛次郎と近所だった話は出てきませんが、他の著名人として「山本安英さんの生家もこの清水町だった」「それと、もひとりその頃の著名人として伊藤痴遊の家が、ぼくの家から広い三叉路をへだてた向かい側にあった」と書いています。

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2014年1月 8日 (水)

人間国宝

年末年始の休暇中、湯河原にある人間国宝美術館に行きました。

家族旅行で行く場所に窮してのことだったのですが(スミマセン)、訪ねてみると「珠玉の人形たち―四人の巨匠―平田郷陽 堀柳女 鹿児島壽蔵 野口園生」という企画展が行われていました。

以前書いた事があったかどうか忘れてしまいましたが、この四人の巨匠のうち堀柳女は吉川英治とは遠縁にあたる人物です。

吉川英治の母親・いく(旧姓山上)の祖母・加野子には二人の姉がおり、長女の真樹子は攻玉社の創立者である近藤真琴と結婚しています。
そして、次女の芳子の曾孫にあたる山田松枝(旧姓柿内)が人形作家“堀柳女”である、ということになります。

つまり、吉川英治の曾祖母の姉の曾孫が堀柳女ということになるわけで、ものすごく遠縁です。
事実、吉川英治も自叙伝「忘れ残りの記」の連載中(『文藝春秋』昭和30年1月号~31年10月号)に指摘を受けてそのことを知ったことを「忘れ残りの記」の中の『春の豆汽車』という章に書いているくらい遠い縁です。

堀柳女は明治30年8月25日生まれということなので、明治25年8月11日生まれの吉川英治より5歳年下です。
曾祖母の姉の曾孫ということは世代的には同じということになるので、年齢も近いわけですね。
奇しくも吉川英治が「忘れ残りの記」の連載を始めた昭和30年に≪衣裳人形≫で重要無形文化財保持者、いわゆる“人間国宝”に認定されています。
没年は昭和59年(1984年)なので、今年は没後30年ということになります。

そんな堀柳女の作品を、一度実際に見てみたいと思っていましたが、それが叶いました。
東海道線の線路近くにあって、車窓から何度も目にしていた美術館だったのですが、今まで一度も立寄らなかったとは迂闊でした。

企画展は3月28日までのようですが、興味のある方は実際に訪ねてみてください。

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2014年1月 7日 (火)

あけましておめでとうございます

新年となりました。

例年ならば本日から新年の営業が始まるのですが、今年は既報の通り2月28日(金)まで冬期休館となります。

その間、従来は固定的な展示を行っていた常設展示を、季節ごとにテーマを決めた展示に変えるための準備をしたりして過すことになります。
ちなみに、3月1日(土)~6月1日(日)のテーマは「『宮本武蔵』を中心に」です。

また、記念館は休館していますが、2月には当館主催の写真コンテストの入賞作品展をHCLフォトギャラリー新宿御苑で行います。

そちらにも足を運んでいただければと思います。

詳しいことはこちらをご覧下さい。

よろしくお願いいたします。

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