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2014年1月23日 (木)

続々横浜散歩(1)

今年の6月に文学散歩を行う予定です。
今回は吉川英治の出身地である横浜を歩く企画を立てています。

先日、その立ち寄り先とルートの確認のための下見に行ってきました。
そのついでに、以前の2度の横浜探訪(これこれ)で足を運ばなかった場所2ケ所に行ってみました。
ちなみに、この2ヶ所は企画中の文学散歩のルートには入っていません。

まずひとつが東福寺。山門が赤く塗られていることから“赤門”の通称があります。
Dscn1221

 家が、南太田の赤門前に引越したのは、ぼくが九歳の秋頃である。南太田尋常高等小学校へ転校した。こんどの学校は、家からも近く、駈け足でゆけば二分か三分だった。赤門前というのはその辺の俗称で、正しくは、横浜市南太田清水町一番地と書いた。
(「忘れ残りの記」より。以下同じ)

吉川英治の『自筆年譜』によれば、明治34年(1901)から明治38年(1905)まで吉川家のあった場所が、この東福寺赤門前であったということになります。
ただ、吉川英治は住所を≪清水町一番地≫としていますが、その頃、“吉川英次(英治の本名)”の名が雑誌『少年』明治37年9月号の投稿欄に出ており(これが活字で確認できる最初のものです)、そこでは住所が≪横浜市清水町4≫となっています。
雑誌の誤植の可能性もありますが、ただ、横浜時代の吉川英治について調査した「吉川英治と明治の横浜――自伝小説『忘れ残りの記』を解剖する」(横浜近代文学研究会1989年1月30日 株式会社白楽)は、吉川英治が記述する≪清水町一番地≫は、≪清水町四番地≫と考えた方が条件を満たすことを論じています。
ということは、吉川英治の記憶違いなのでしょう。
なお、現在の住所は赤門町です。

写真の奥に見えるのが東福寺の赤門で、門前の通りの向って右側の表通り沿いの一角がかつての清水町4番地になります。
Dscn1229

英治が描く街の情景はこんな感じ。

 いとも閑静な、そして小さな町で、清水町は一番地から四番地までしかないのである。戸数も何軒と数えられるようなその真四角な住宅地の周りを、西北の戸部山や久保山から流れてくるきれいな小川が繞っていて、どの家の門にも、その家だけの小さな橋が架かっていた。
 ぼくの家は、赤門とよぶ寺の山門通りに面した角地であった。だから家の横にも前にも、その清冽な水が繞っていた。(略)
 家の前は広い三叉路で、北へいくと、鉄温泉とよぶ鉱泉宿があった。南には、すぐ南太田小学校の校舎が望まれ、普門院というお寺やら、英町、霞町などという静かな町並の生垣がつづき、もすこし行くと初音町に出る。そこまで出ると、かなり賑やかで、角に大きな乾物問屋があった。(略)

訪ねてみると、確かに閑静な住宅街の雰囲気がありますが、今は自動車の交通量の多い通りに面しているので、風情は全くありません。
その通りを渡ったところに太田尋常高等小学校はありました。
英治は≪南太田尋常高等小学校≫としていますが、南が付かないのが正しいようです。
写真のガソリンスタンドのある一帯がその跡地です。
Dscn1227

この太田尋常高等小学校に通った作家がもう一人います。
大佛次郎です。
大佛次郎(本名・野尻清彦)は、上記の英治の文中にもある英町で明治30年(1897)に生れています。
明治37年(1904)に太田尋常高等小学校に入学するも、10日ほど通っただけで東京に引越してしまったそうです。

吉川英治の清水町の家と、大佛次郎の英町の家は歩いてものの1分程度の距離です。
今は赤門病院のある辺りが大佛次郎の生家跡のようです。

しかし、この時代には両者に接点はなかったようです。
吉川英治は明治25年(1892)生れで5歳年長であった上、家の没落から明治36年(1903)には他家に奉公に出されたりしていますので、それも無理からぬことでしょう。

「忘れ残りの記」では、大佛次郎と近所だった話は出てきませんが、他の著名人として「山本安英さんの生家もこの清水町だった」「それと、もひとりその頃の著名人として伊藤痴遊の家が、ぼくの家から広い三叉路をへだてた向かい側にあった」と書いています。

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