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2014年2月15日 (土)

吉野村の梅――承前

さて、幸堂ら一行は日向和田駅から5・6丁の所にある渡し場を渡り、対岸を4・5丁歩いて吉野村に入ったと書いていますが、行政区からすれば対岸は全て吉野村のはずなので、梅の多い場所に着くまでに4・5丁歩いたということなのでしょう。

ちなみに、私の持っている古絵葉書の中にこんなものがあります。
Photo

タイトルが「奥多摩渓谷神代萬年橋の渡(青梅町)」となっています。
その名の通り神代万年橋という橋が、現在の神代橋の上流側下方にあったはずなのですが、それとは別に渡しもあったということなのでしょう。

一行が渡ったのは、こんな渡しなのでしょうか。

帰路は、そのまま吉野村側の道を進み、万年橋を渡って青梅に入り、青梅駅から列車に乗車しています。

万年橋についてはここここで触れています。

『吉野村の梅』という文章は明治38年のものですから、当時の万年橋は木造橋だったはずです。

さて、気になったことの一つは、一行の食事の場面。

渡し場の近くの万年屋という料理屋で食事をするのですが、どんな料理があるかと聞くと、東京から持ってきたマグロの刺身と言われてガッカリするという描写があります。
なにか、こう、いまでも山奥の温泉地に行ったのに、出てきたのが海産物の刺身盛り合わせで脱力する、ということがママありますが、明治の昔からそんな状況だったんですね。

もっとも、この店では、結局は地元のハヤを出すのですが。

一方、こんな記述があります。

当所は梅の実を作る所と見えて、古木の茂れる枝先を無闇とヘシ折ゆゑ、枝は彼方此方に絡て、恰ど女の髪の縺たるが如き有様なり。併し、盛とならば定めて見事なる眺めなるべし。

これについて、吉川英治も文章を遺しています。

奥多摩地方では、梅の実を多く収穫するために、梅の枝を、捻じ折る習慣がある。ために、下向きの枝がふえ、樹の姿が、傘のように見える。吉野の“折り梅”と呼んで、これを名物と見る人もあり、また自然でないといって、好まない人もある。川合玉堂氏などは、後者の方である。(随筆『梅ちらほら』より)

この文章が掲載されたのは3月の終わり頃ですが、どうやら幸堂らは2月頃に吉野村を訪れたようです。
その結果、ほとんど梅を見られませんでした。

実は、吉野の梅は3月のお彼岸頃が満開のピークなのです。
いまでも、そうとは知らない観梅客が2月に来てしまって「全然咲いてないじゃない」とぼやかれることがあるのですが、幸堂一行も、そのお仲間となってしまったわけです。
そして、こう書きます。

彼岸の末といへば、彼岸桜も綻びる頃ゆゑ、東京より杖を曳いてこの梅を観んといふ人もあるまじけれど、仏は仏、祇王は祇王、名残の梅も又清き花の香を止めて、床しきふしのなきにしもあらざるべし。

「仏は仏、祇王は祇王」とは、「平家物語」の平清盛に寵愛された仏御前と祇王のこと。
梅も桜も美しさでは甲乙つけがたい、どちらにもそれぞれの良さがあるということでしょう。

そんなわけですから、桜前線が近付いてきても、吉野の梅は咲いていますから、是非お運び下さい。

色々と問題は山積していますが、今年も梅まつりは開催しますから。

と、最後は宣伝で締めましょうか(笑)

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