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2016年4月27日 (水)

震災と文学

ふと手に取った白井喬二の自伝「さらば富士に立つ影」(昭和58年 六興出版)に、こんな記述がありました。

父は地震が大きいと知ったとき、母との問わず語りですぐぼくの仕事のことを心配したそうだ。今後しごとが面倒になりはしないだろうかと云う心配だった。鶴子が母から聞いてぼくに伝えたから、ぼくも始めて「なるほど」と思った。まったく重大事である。東京が壊滅してしまえば再建までは仕事どころでないかも知れない。出版社も雑誌社も焼け、印刷工場も全滅状態だ。そうと分ったとき菊池寛が「東京の文化はこれで当分おしまい」と嘆じたことが伝わった。全文化人に衝撃を与えた。
(略)
三日目に春陽堂の木呂子という支配人がぼくをたずねて来た。足ごしらえをした姿で火事場の臭気が全身から発散していた。意外だったのは出版の話だった。木呂子支配人は出版は大丈夫だといった。こんな時こそ人は読み物を欲すると云う。「ないものねだりで、そこが出版のコツですよ」とも云った。聞いていると理路整然たるものである。あれこれ作品をえらんで出版を承諾した。これは木呂子支配人の予想があたったことが後日になって分った。火事場では金時計とバナナ二本と交換したなどという話もつたわったが、一方では心を満たす読書熱ももえたっているのだ。

以前、こんなことを書いたことがあります。

白井喬二は、ご存知の通り、日本の大衆文学の先駆者・創始者というべき作家です。

読者の方を向いて小説を書いている作家には、こういう局面にぶつかる機会が多いのかもしれません。

もちろん、木呂子支配人の発想は、あくまでも商売目線であり、その意味では“不謹慎”なものかもしれませんが、被災者が求めているものは何かを探し当てる嗅覚は確かだったということでしょう。

いわゆる“不謹慎狩り”に精を出している人たちにも、その嗅覚が備わっていれば、良かったのですが。

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2016年4月23日 (土)

吉川英治と関東大震災

熊本地震の余震もおさまらない状況では時期尚早かもしれません。
5年前の東日本大震災の際には、逡巡した末に、ブログに掲載するのはやめました。

しかし、吉川英治は関東大震災の被災者の一人であり、その経験をご紹介することにも意味があるのではないかと考え、アップすることにしました。

吉川英治が、関東大震災の発生以降、どのように過ごしたのかを、本人およびその周辺の人物の文章でたどってみようと思います。


日本橋の小さな夕刊新聞社で吉川英治さんと机を並べていたのだが、彼は生来地震が大嫌いであるばかりでなく、その寸前に予知して顔色が変るのだった。ちょうどそのときもスーッと水がひいたみたいな顔色になったかと思うと、バタバタバタッと階段を疾風のごとく往来に飛び出した。ギョッとしてあたしも立ったとたん、編集局がグラグラとなり、工場の活字ケースが引っくり返ってすさまじい音を立てた。

川上三太郎(出典不詳)


次の転機は、大震災の時に来た。私は、M新聞社の編輯局の一員だった。今の大毎の社会部長徳光衣城氏が編輯長で、私は、その下に家庭部をうけもっていたが、焔につつまれた社に踏みとどまって、最後に一艘の肥料舟をみつけて、一緒に大川のまん中で共にあの一夜を明かした人は、その頃社の営業局長だった矢野正世(ペンネーム谷孫六)氏だった。

鉛色の金盥みたいな太陽、ポンペイのあしたみたいな東京――黒焦げの死体がぽかぽかと浮いている隅田川を、夜明けに、「地球の怒った顔だ。永久に、忘れないように、見ておこう」と、ふたりとも、黙りあって、眼のくらむほど、二時間も肥料船のヘリで膝をかかえて眺めていたものだった。

(「人生の転機」より。「草思堂随筆」収録)


震災のとき、ぼくは東京毎夕新聞という社の編集部にいた。家庭部と学芸記者をかねていた。ひる、編集局であの異変にあったのだった。もちろん、社屋は、灰燼になってしまった。新聞も、工場が全焼したので、まず再起の見込みはないという。

(略)

社員としての年歴の浅いぼくでもあったが、そういう会合にぼくは一切出なかった。ひとの話をよそ事にして、上野に一個の床几と葭簀とをもち出して、軒なみのスイトン屋牛めし屋さんの一軒にわりこんだのである。そして、夜も葭簀がこいの桜の木の下で寝た。

この間に、この葭簀の蔭で、ぼくは幾十人の宿なき人を泊めたかしれない。そして、その人々の巷の経験を夜もすがら聞きあかない思いで聞き学んだことかしれない。造船界に知名な科学者もいたし、吉原にいた、たいこもちの夫婦もあった。盲人で大火傷をしていたが、生命のあるかぎり行方のしれなくなった老妻を探しますという針医の顔も忘れかねる。監獄なら、網走まで知っていると嘯いた凄いのもいたし、何しろ、数かぎりもなく、あらゆる職業と、世の体験をもった人たちと、宿を一つにしたのである。ぼくは、わずか二ヵ月ばかりで、上野を去り、そして信州の角間温泉に、その冬を籠って、初めて、小説みたいなものを、書き初めたが、それが、後に、文筆生活にはいることになった機会であった。

(「一つの体験」より。「折々の記」収録)


ところで、わたしの奉仕場所は、上野公園の小松宮銅像前にあった。西郷さんの銅像の下から一望品川の海が眺められるほど一面焼野が原。立木にも石垣にも、肉親や知人を探すビラや立札が一杯。山下から博物館へ行く道の両側はヨシズ張りのスイトン、牛飯屋が所せましとひしめいていた。池の端に急造バラックがやっと建て始められていたが、罹災者達は、焼トタンや何かを工夫してやっと雨露を凌いでいた。戒厳令下、軍装いかめしい兵隊が着剣して、要所要所を警備していたのが、イヤに印象的だった。

とある日の午下り、わたしはヨシズ張りの牛飯屋に入った。

年の頃三十歳くらいの、やせがたで、人品いやしからぬ主人は、どう見ても商売人ではなくインテリらしかった。(略)客もないので、話相手が欲しかったのか、主人はわたしの腕章を見て、静かな口調で話しかけてきた。

(略)

主人は、わたしの持っていた、ウォルター・ラテナウ(ドイツ経世家、学者、暗殺さる)の本を見ていたが、

「君、良い本を読んでいるネ」

といった。インテリと見た私の想像はやはり間違いではなかった。ラテナウを知っている以上、時代の尖端をゆく知識人である。話しているうちに、この主人が驚くべき博識であることがわかった。上野図書館の本を読破しようとしたが三分の一ぐらいしか読めなかったこと、印刷のこと、カンカン虫の話など淡々と話してくれた。(略)

(略)昭和六年と思うが、大連本社への出張の途次、雑誌の口絵写真で、かつての牛飯屋の主人が吉川英治先生に間違いないことを知って、驚くというより懐かしさで一杯だった。

紀脩一郎(「一期一会」より。「吉川英治全集月報29号」収録)


関東大震災(一九二三年)のとき上野でスイトンを売ッたあの人の姿が目に浮かぶ。あの人自ら書いたあの人の年譜によれば“夜々流離の人々と樹下に眠りあらゆる境遇の人間の心に会い――卒然として文学の業の意義深きを感じ”とある。あの人の一生はこれで決まったのである。爾来川柳のペンネーム雉子郎の名はうすれ、“英治”という小説家として世にあらわれたのである。

川上三太郎(「“うまいうまい”話」より。「吉川英治全集月報6号」収録)


だが、矢野氏も、私も、頭のなかは、ただこれから先?――でいっぱいだったに違いない。いや、私たちばかりでなく、あの震災に遭った人々は、すべて転機に立ったのだ。そして焼け跡の岐路から、西に、東に、南に、と思い思いに選んだ道が今日へ来ている。震災史のなかを生きて来た人は、みな天災と自己の力で合作した歴史的人生を持っている。

その後私は、いわゆる大衆作家として、生活するようになった。これも後になって考えるとあの天災がなかったら、私はまだ新聞記者生活をつづけていたかも知れないと思う。なぜならば、私は、新聞社にはいって、曲がりなりにもペンで立つようになってからでも、文章を売って生活するというような、作家志望などは、少しも起こらなかったからである。(略)

(「人生の転機」より。「草思堂随筆」収録)

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2016年4月14日 (木)

現代人

あれは、もうどのくらい前のことだったでしょうか。

庭に咲いているカタクリの花がきれいなので、車までカメラを取りに行っていいですか?
そう言って門を出て、駐車場まで行ったお客様が、戻ってきて構えたのがケータイだったことに衝撃を受けたのは。

今や、写真を撮るのにカメラではなくスマホを使うのは、ごく普通のことになってしまいました。

いまだにガラケーを使っていて、写真はカメラで撮る私のような人間は、生きた化石に近くなっているのかもしれません。

そして、つい最近、とうとう現れました。

展示室のロビーにあるコンセントでスマホの充電をする人間が。

利用者の年齢層が高い吉川英治記念館では、今まで見かけませんでした。

充電可、とは一言も書いていないので、立派な盗電ですが、目くじらは立てますまい。
新幹線にもコンセントがついている時代ですから。

コンセントがある→充電する

昔の人ならいざ知らず、現代人なら当然ですよね。

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2016年4月13日 (水)

ふたつでひとつ

最近見たCMにこんなものがありました。

「子供には色々経験させたくて」という劇団ひとりに対して、ビートたけしが「それも良いけど、ひとつのことを極めるっていうのも良いんじゃねえか」と応じる、というものです。

私には、まず色々経験させて、その中から極めるべき何かを本人に見つけさせればいいのではないか、だから、これはそもそも対置するようなものではないのではないか、と思えます。
まだ、自己も確立できていない子供の時から極めるべきひとつのことなど、見つけようもないと思えるのですが。

日本人には、こうした≪ひとつの道≫というのが受け入れられ易いと見て、こうしたCMを制作しているのでしょう。
しかし、その結果が、昨年来続いている、スポーツ選手による賭博の問題に通じているような気がします。

吉川英治は「宮本武蔵」の中で、千年杉に吊るした“たけぞう”に対して沢庵にこう語らせています。

おぬしには生れながらの腕力と剛気はあるが、学問がない、武道の悪いところだけを学んで、智徳を磨こうとしなかった。文武二道というが、二道とは、ふた道と読むのではない。ふたつを備えて、一つ道だよ。――わかるか、武蔵

また、戦時中に刊行された「南方紀行」の中で、インドネシアにおける日本の軍政に対して、こう苦言を呈しています。

スラバヤ市庁の前にあるのを日本橋とよぶのはまづよいとしても、スラバヤ駅の次が品川駅で、その次の駅が大森などとしてあるのは、たとひ仮称にせよすこし困る。文弱のわれらが持ちたいものは武人の気魄であり、武人にもありたいものは、多少を問はず文雅のたしなみではないかと思ふ。

ちなみに、前者は宮本武蔵の「五輪書」に原型がありますが、「五輪書」にはこうも書かれています(口語訳は「決定版 宮本武蔵全書」〔松延市次・松井健二監修 平成15年 弓立社〕のもの)。

むかしから、十能七芸というものがあり、それぞれに利があるわけだが、利があるというからには、剣術だけで良いわけがない。剣術だけの利得では、剣術を知っていることにはならない。もちろん、兵法とも言えない。(地の巻)

ひとつのことを極めるには、むしろ、色々なことを知るべきなのだということでしょう。

別に、何かを極めようというわけではない私がこんなことを言っても、誰にも響かないでしょうが。

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2016年4月12日 (火)

作家と読者

昨日は、吉川英治賞の贈呈式がありました。

今年で50回となる吉川英治賞ですが、それを機に新たに吉川英治文庫賞を創設したので、受賞者は下記のようになります。

第50回吉川英治文学賞
「東京零年」 赤川次郎

第1回吉川英治文庫賞
「しゃばけ」シリーズ 畠中恵

第37回吉川英治文学新人賞
「Aではない君と」 薬丸岳

第50回吉川英治文化賞
嘉瀬誠次(世界をも感動させた長岡の花火師)
玉井義臣(恵まれない子供たちを50年間支援し続けているあしなが育英会会長)
鶴丸礼子(「鶴丸式製図法」を開発し、障害者向けの服のデザイン、普及に努める)

さて、贈呈式では各賞の選考委員と受賞者のスピーチがあるのですが、今年、印象に残ったのは、文学新人賞選考委員である京極夏彦さんのスピーチ。
配布される要項の選評と同じ内容のものでしたが、印象に残ったのは、こういう部分。
録音していたわけではないので、表現はそのままではありません。

小説は面白ければいいので、テーマは必要ない。
だたし、それがあることで作品が面白くなるのなら、テーマは「あっても良い」。
そもそも、作家が強いテーマを作品に込めても、それがその通りに伝わるとは限らない。
それどころか、作家がテーマを特に込めていない作品からでも、読者は勝手にテーマを読み取ってしまうこともある。
それは読者の権利で、作家がどうにかできるものではない。

作家である京極さんが、こうした読者目線の発想をされていることに驚きましたが、私も、実は同じような考えを持っているので、非常に共感できました。
読者が正しい読解ができていないと非難するのではなく、それも読者の権利だと言っているところが素晴らしいと思いました。

各受賞者の皆さま、おめでとうございました。

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2016年4月 9日 (土)

閲覧室

昨年の秋の開館期間に来館したお客様が、こんなことを言い捨てて行かれました。

どうして閲覧できる場所がないのか。
他の文学館にはあるのに。
展示を見て、本を読みたいと思っても、読めないではないか。
失望した。

確かに、吉川英治記念館には閲覧室はありません。
しかし、文学館と図書館は似て非なるものですから、展示内容に失望した、と言われれば、頭を下げる以外ありませんが、閲覧できないことに失望されても、おっしゃる通りです、とは同意できかねます。

また、閲覧室はないものの、ミュージアムショップには吉川英治歴史時代文庫全85巻を揃えており、販売もしていますので、展示を見て作品に興味を持ったら、ぜひ購入してほしい、というのが本音です。

とは言え、実は、閲覧スペースは設けた方が良いだろうとは、少し前から思っていました。

吉川英治記念館の元来のコンセプトは≪追慕の館≫です。

つまり、来館する方は吉川作品の読者で、その心の中には既に吉川作品がある。
そうした方が吉川英治記念館を訪れることで、吉川英治を偲ぶとともに、その作品を読んだ時に覚えた感動を思い返し、その時の自分を振り返る。
そういう心の動きを呼び起こす“呼び水”となることが、吉川英治記念館の役割である。

という認識の上に成立しています。
この前提では、当然、閲覧室は不要ということになります。

しかし、吉川英治没後50年を過ぎ、窓口で「吉川英治って何した人?」とお尋ねになる方も多くなってきました。
追慕だけではなく、吉川作品を、改めて紹介していくことも必要だとは、感じています。

そんなわけで、この春の開館期間中、仮の閲覧スペースを設けてみました。
普段、企画展示を行っている多目的室の展示を最小限にして、イスとテーブルを置き、吉川英治全集を並べて、自由にお読みいただけるようにしました。

常設展のこの春の特集は「スターでたどる吉川作品」ということで、様々な映画化・テレビ化・劇化作品を紹介していますので、その原作を各自が探して読んでいただくという意図もあります。

春の開館期間が始まって1ヶ月余り。

利用状況はまれにパラパラとページをめくる人がいるけれど、熟読している人は皆無、というところです。
まあ、長編作品を真剣に読み始めたら、開館時間だけでは足りなくなりますからね。
それなら、入館料が必要な文学館ではなく、タダで読める図書館に行くでしょう。

とは思うものの、閲覧スペースは今後も適宜設けていこうとは思います。

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2016年4月 8日 (金)

全国文学館協議会紀要

吉川英治記念館も加盟している全国文学館協議会で発行している紀要の最新号(第9号)に「勝央美術文学館所蔵「吉川英治氏追放解除ノ訴願文」についての考察(翻刻と解題)」という論考を寄稿いたしました。

全国文学館協議会の加盟館の中には、予算が十分ではなく、研究発表のための紀要や館報の発行を行っていない館もあります。
そうした館に発表の機会をつくることを目的に、全国文学館協議会が紀要を発行しています。

吉川英治記念館は館報を発行していますので、今までに何度か、そこで簡単な研究発表をしてきましたが、今回は全国文学館協議会紀要を利用させてもらいました。

それは、研究対象とした資料が吉川英治記念館のものではなく、岡山県の勝央美術文学館の所蔵資料であるということと、貴重な資料を一括で紹介したかったということによります。

終戦前後の吉川英治を知る貴重な資料ですので、ご興味のある方はご一読ください。
一般への販売も行っております。

こちらをご参照ください。

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2016年4月 2日 (土)

名言集

本はできるだけ書店で買うようにしています。
特に目的もなく、何か面白そうな本がないかと書架を眺めているのは、とても楽しい時間です。

とは言え、特定の目的をもって本を探す時には、仮面ライダー……じゃない方のアマゾンは役に立ちます。
特に、吉川英治の著作権が切れてからは、吉川英治記念館にまで納本・献本してくれる出版社が減り、気が付かないうちに吉川英治の作品が本になっていたりするので、時々「吉川英治」で検索しています。
検索して吉川英治の作品が収録された本や、吉川英治に言及のある本が見つかると、購入するようにしています。

さて、先日検索した際に「日本人なら知っておきたい名言100」(木村進 2014年12月5日 総合法令出版)という本が引っ掛かってきました。
イヤな予感がしつつも購入してみました。

吉川英治の項目があり、そこには、こう書かれていました。

今度も立派に乗り越えてみせるぞ。
朝の来ない夜はないのだから。

「朝の来ない夜はない」というのは、吉川英治の座右銘で、作品にも登場する言葉ですが、吉川英治自身はこういう言い回しはしていない、と繰り返しこのブログで指摘してきたつもりですが、無駄な労力なのでしょうか。

ちなみに、宮本武蔵の項目もあって

私は、自分が選び、送ってきた人生を決して後悔しない。
とあります。 独行道の「我事において後悔をせず」の現代語訳ということなのでしょうね。 訳さない方がカッコいいように感じますが。

ま、そんな本でした。

もう名言集は買いたくない、と言いたいところですが、これもまた“吉川英治受容史”の一側面ということになるので、今後も買うことになるでしょう(苦笑)

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