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2016年4月23日 (土)

吉川英治と関東大震災

熊本地震の余震もおさまらない状況では時期尚早かもしれません。
5年前の東日本大震災の際には、逡巡した末に、ブログに掲載するのはやめました。

しかし、吉川英治は関東大震災の被災者の一人であり、その経験をご紹介することにも意味があるのではないかと考え、アップすることにしました。

吉川英治が、関東大震災の発生以降、どのように過ごしたのかを、本人およびその周辺の人物の文章でたどってみようと思います。


日本橋の小さな夕刊新聞社で吉川英治さんと机を並べていたのだが、彼は生来地震が大嫌いであるばかりでなく、その寸前に予知して顔色が変るのだった。ちょうどそのときもスーッと水がひいたみたいな顔色になったかと思うと、バタバタバタッと階段を疾風のごとく往来に飛び出した。ギョッとしてあたしも立ったとたん、編集局がグラグラとなり、工場の活字ケースが引っくり返ってすさまじい音を立てた。

川上三太郎(出典不詳)


次の転機は、大震災の時に来た。私は、M新聞社の編輯局の一員だった。今の大毎の社会部長徳光衣城氏が編輯長で、私は、その下に家庭部をうけもっていたが、焔につつまれた社に踏みとどまって、最後に一艘の肥料舟をみつけて、一緒に大川のまん中で共にあの一夜を明かした人は、その頃社の営業局長だった矢野正世(ペンネーム谷孫六)氏だった。

鉛色の金盥みたいな太陽、ポンペイのあしたみたいな東京――黒焦げの死体がぽかぽかと浮いている隅田川を、夜明けに、「地球の怒った顔だ。永久に、忘れないように、見ておこう」と、ふたりとも、黙りあって、眼のくらむほど、二時間も肥料船のヘリで膝をかかえて眺めていたものだった。

(「人生の転機」より。「草思堂随筆」収録)


震災のとき、ぼくは東京毎夕新聞という社の編集部にいた。家庭部と学芸記者をかねていた。ひる、編集局であの異変にあったのだった。もちろん、社屋は、灰燼になってしまった。新聞も、工場が全焼したので、まず再起の見込みはないという。

(略)

社員としての年歴の浅いぼくでもあったが、そういう会合にぼくは一切出なかった。ひとの話をよそ事にして、上野に一個の床几と葭簀とをもち出して、軒なみのスイトン屋牛めし屋さんの一軒にわりこんだのである。そして、夜も葭簀がこいの桜の木の下で寝た。

この間に、この葭簀の蔭で、ぼくは幾十人の宿なき人を泊めたかしれない。そして、その人々の巷の経験を夜もすがら聞きあかない思いで聞き学んだことかしれない。造船界に知名な科学者もいたし、吉原にいた、たいこもちの夫婦もあった。盲人で大火傷をしていたが、生命のあるかぎり行方のしれなくなった老妻を探しますという針医の顔も忘れかねる。監獄なら、網走まで知っていると嘯いた凄いのもいたし、何しろ、数かぎりもなく、あらゆる職業と、世の体験をもった人たちと、宿を一つにしたのである。ぼくは、わずか二ヵ月ばかりで、上野を去り、そして信州の角間温泉に、その冬を籠って、初めて、小説みたいなものを、書き初めたが、それが、後に、文筆生活にはいることになった機会であった。

(「一つの体験」より。「折々の記」収録)


ところで、わたしの奉仕場所は、上野公園の小松宮銅像前にあった。西郷さんの銅像の下から一望品川の海が眺められるほど一面焼野が原。立木にも石垣にも、肉親や知人を探すビラや立札が一杯。山下から博物館へ行く道の両側はヨシズ張りのスイトン、牛飯屋が所せましとひしめいていた。池の端に急造バラックがやっと建て始められていたが、罹災者達は、焼トタンや何かを工夫してやっと雨露を凌いでいた。戒厳令下、軍装いかめしい兵隊が着剣して、要所要所を警備していたのが、イヤに印象的だった。

とある日の午下り、わたしはヨシズ張りの牛飯屋に入った。

年の頃三十歳くらいの、やせがたで、人品いやしからぬ主人は、どう見ても商売人ではなくインテリらしかった。(略)客もないので、話相手が欲しかったのか、主人はわたしの腕章を見て、静かな口調で話しかけてきた。

(略)

主人は、わたしの持っていた、ウォルター・ラテナウ(ドイツ経世家、学者、暗殺さる)の本を見ていたが、

「君、良い本を読んでいるネ」

といった。インテリと見た私の想像はやはり間違いではなかった。ラテナウを知っている以上、時代の尖端をゆく知識人である。話しているうちに、この主人が驚くべき博識であることがわかった。上野図書館の本を読破しようとしたが三分の一ぐらいしか読めなかったこと、印刷のこと、カンカン虫の話など淡々と話してくれた。(略)

(略)昭和六年と思うが、大連本社への出張の途次、雑誌の口絵写真で、かつての牛飯屋の主人が吉川英治先生に間違いないことを知って、驚くというより懐かしさで一杯だった。

紀脩一郎(「一期一会」より。「吉川英治全集月報29号」収録)


関東大震災(一九二三年)のとき上野でスイトンを売ッたあの人の姿が目に浮かぶ。あの人自ら書いたあの人の年譜によれば“夜々流離の人々と樹下に眠りあらゆる境遇の人間の心に会い――卒然として文学の業の意義深きを感じ”とある。あの人の一生はこれで決まったのである。爾来川柳のペンネーム雉子郎の名はうすれ、“英治”という小説家として世にあらわれたのである。

川上三太郎(「“うまいうまい”話」より。「吉川英治全集月報6号」収録)


だが、矢野氏も、私も、頭のなかは、ただこれから先?――でいっぱいだったに違いない。いや、私たちばかりでなく、あの震災に遭った人々は、すべて転機に立ったのだ。そして焼け跡の岐路から、西に、東に、南に、と思い思いに選んだ道が今日へ来ている。震災史のなかを生きて来た人は、みな天災と自己の力で合作した歴史的人生を持っている。

その後私は、いわゆる大衆作家として、生活するようになった。これも後になって考えるとあの天災がなかったら、私はまだ新聞記者生活をつづけていたかも知れないと思う。なぜならば、私は、新聞社にはいって、曲がりなりにもペンで立つようになってからでも、文章を売って生活するというような、作家志望などは、少しも起こらなかったからである。(略)

(「人生の転機」より。「草思堂随筆」収録)

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