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2016年10月29日 (土)

文アル

先日、「文豪ストレイドッグス」は横浜を舞台にしているのに、横浜出身である吉川英治は出てこない、ということを書きました。

そうしたところ、今度、「文豪とアルケミスト」というゲームが発売されるという記事に出合いました。
そして、そこには吉川英治も登場すると書かれていました。

この「文アル」自体は「文スト」のヒットを受けて企画されたものなのでしょう。
<二匹目のドジョウ>感が漂ってきますが、まあ、それはともかく。

吉川英治のビジュアルが10月下旬に発表されるというので、注目していたのですが、こんなお姿でした。

誰だよ、こいつ(笑)

私のような血のつながりのない者はともかくとして、親族の方はどう感じるのでしょうかね。

ちなみに、こんなことを書いてもいいのか分かりませんが、かなり昔、記念館に関係のある人が、酒の席で「吉川英治は人間としては立派だが、見た目はそう大した男じゃない」と口にしたところ、故文子夫人が大変ご立腹になったという話を耳にしたことがあります。
私はその場にいなかったので、実際はどんな様子だったのかわかりませんが、これが本当だとすると、文子夫人の眼には吉川英治は“イケメン”に映っていたのかもしれません。

とは言え、上記のような姿ではないと思いますが(笑)

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2016年10月22日 (土)

赤川次郎さん

本日、「赤川次郎さんを囲むひととき」が無事に開催されました。

定員50名で募集しましたが、定員を超える応募があったため、枠を拡大して75名で開催しました。
それでも落選となった皆さん、申し訳ありませんでした。

せめて内容をご紹介、と思ったのですが、実は、今回の講演内容は講談社が発行する『IN☆POCKET(インポケット)』の11月15日発売号に掲載されることになっていますので、ぜひご購読ください。

というだけでは、ケチ臭いので、感想かたがた、少しだけ内容に触れると、私の予想とは違い、自分の作品の創作の裏側というような話はほとんどなく、古典文学、それも海外のものを読むことの重要性について、穏やかな口調ながら、熱く語られました。

そもそも赤川さんの読書遍歴が、そうした古典中心であったことなど、ファンというわけではない私にはとても意外でした。
いや、来場されたファンの方でも、意外そうな顔をしている人が見受けられました。

その読書遍歴から、なぜ「三毛猫ホームズ」?

ということでしょう。

詳しいことは、『IN☆POCKET』で(笑)

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2016年10月19日 (水)

文学散歩「吉川英治と関東大震災」参加者募集中

文学散歩「吉川英治と関東大震災」を開催します。

2016年12月3日(土)の開催です。

詳しくはこちらを。

最近は、ストイックに歩くだけの文学散歩が続いていましたが、今回は最終目的地が船橋屋です。
くず餅を食べながら歓談する時間が予定されています。

なぜ船橋屋に行くのか、ちゃんと理由があるのですが、それは行ってのお楽しみということにしておきます。

とか言いつつ、昔、こうしてガッツリ紹介していますが。

ご興味のある方は、ぜひご参加ください。

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2016年10月18日 (火)

ドイツ語版「新・平家物語」

昨年、こんなことがありました。

今日、今度は「新・平家物語」をドイツ語訳した方が、ご来館になりました。

日本人ですが、ドイツに住み、同地の製薬会社に勤務し、現在はドイツ国籍になっておられる方です。
日本で勤務していた時に」新・平家物語」に出会い、これを翻訳しようという志を持たれたのが1990年代のこと。
それから長い時間をかけて翻訳し、定年退職した後になって、ようやく刊行にこぎ着けたとのことで、その第1巻をご持参くださいました。

決して文学に造詣があるわけでも、翻訳のプロでもない方ですが、ドイツ人の夫人の助言も得て、コツコツ翻訳されたようです。

上記のリンクでも触れたように、「新・平家物語」はまだ完訳されていませんが、このドイツ語版は日本語からの完訳で、既に原稿は出来上がっているとのこと。
これから2年ほどかけて全12巻を刊行するとのことでした。

スペイン語版より先に完結するかな?

ちなみに、オンデマンド出版だそうです。
合わせて電子版も発売されるということです。

無事に完結することを楽しみにしています。

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2016年10月 8日 (土)

磯貝十郎左衛門

アクセス解析を見ると、このところ、このページへのアクセスが増えています。

どうやら、現在、放送中のドラマが、そのページで取り上げたエピソードを軸に置いた作品だからのようです。

ドラマの原作は諸田玲子さんの「四十八人目の忠臣」。

諸田玲子さんは平成15年度第24回吉川英治文学新人賞を「其の一日」で受賞されています。

また、10年前の2006年9月2日には、吉川英治賞40周年記念として開催した「吉川英治賞受賞作家と語るひととき」の講演者の一人として、吉川英治記念館の母屋でお話しいただきました。

このイベントは、今は「○○さんを囲むひととき」と名を変えて、存続しています。

今年は吉川英治文学賞受賞者の赤川次郎さんにお願いしています。

既に募集定員を超える応募が来ていますが、応募締め切りまでには、まだ数日ありますので、ご興味のある方は応募してみてください。

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2016年10月 7日 (金)

恋と偽名

ところで、年若い池戸文子との交際には、吉川英治も気を使ったようで、交際から間もない時期に英治が文子に宛てたハガキは、差出人の名前が偽名になっています。

その偽名が“栄子”。
苗字は書かれていないので、ちょっとしたお遊びだったのかもしれませんが。

ただ、せっかく女性名に擬しておきながら、わざわざ“エイジ”とフリガナが振られています。

なぜだろうと不思議に思っていたのですが、実は文子の姉の名が“栄子”なのです。
差出人の名を半ば冗談で“栄子”と書いてから、このことを思い出したのではないかな、と私は思っています。

なかなか子供っぽい話です。

その一方、もうちょっと本気の偽名もあります。

それは、先日触れた逃避行の際のもの。

妻のやすの目を逃れての旅だったので、追跡されないように偽名を使っています。

最初に使った名が“山上弁三郎”なのですが、これは英治の母方の祖父の名です。

そんな身内の名を使って、やすに感づかれないのかと思ってしまいますが、諸々あって山上家とは疎遠だったので、やすもそこまでは知らないだろうと判断していたのでしょう。

その後、場所を移動して、吉川英治は長野県の上山田温泉に到ります。

そこでは“菊池一郎”を名乗っています。
先日書いたように、この時に同行していたのは<津の守芸者>の“一郎”こと、菊池慶子です。
彼女の苗字と芸者としての名前を組み合わせているわけですが、いかにも偽名くさい感じになっています。

作品の登場人物の名前に比べて、あまりセンスが感じられません(苦笑)

そのためか、この時にはちょっとした騒動を起こしています。

偽名で宿泊していたため、地元警察の事情聴取を受けてしまうのです。

身元の確認のため、この逃避行で多大な面倒をかけている正木徳三郎(十千棒)の妻・すてが、わざわざ東京から駆け付けています。

後日、そのことを詫びる手紙を送っていますが、その手紙からは、地元警察の対応に腹を立てていることが伺えます。

いや、それは、そもそも女房の目を逃れて偽名で宿泊したあなたが悪い(笑)

しかも、女性側からすると、罪な話でしょう。

要するに、“菊池一郎・慶子”夫妻として宿泊し、つかの間、夫婦気分にさせておいて、結局、吉川英治は家庭に戻るのですから。

以上で触れた書簡類も、今回の特集「吉川英治の恋」で展示しています。

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2016年10月 6日 (木)

吉川英治のもう一つの初恋

昨日までの4項目で、今回の特集「吉川英治の恋」は構成されているのですが、初恋については、先日ご紹介したのとは別の話を自叙伝「忘れ残りの記」以外の場所で、書いています。

『文藝春秋』昭和10年10月号に掲載された「女」という随筆(「草思堂随筆」所収)には、小学生時代の初恋が書かれています。
それではあまりに色気がない話なので、今回はスルーしたのですが、それは要約すると、こんな話です。

当時、数多く発行されていた読者投稿を主体とした文芸誌に、吉川英治は小学生ながら作文を投稿し、当選した。
その同じ雑誌に、近所に住む、同じ学校に通う女生徒も投稿していて、入選しているのを発見した。
彼女の作文を読んで、その女生徒が好きになり、用もないのに彼女の家の前を通ったりした。

私にも、同じような記憶があります。誰しも通る幼い恋の1ページでしょう。
しかし、吉川英治のこの初恋は、その後の境遇によって、かき消されてしまいます。

父親の事業上のトラブルから、家が傾き、小学校も卒業できないまま働きに出た吉川英治は、

友達がみんな中学へ入る頃、僕は職工服を着たり草履をはいたりしていたので、以前のように好きな女生徒の家の前は遠廻りをしても通らないようにしていたが、意地わるく、女学校の往復によく出会う。あわてて僕は横丁へかくれるのだった。それ以後は、恋愛に対して、自分は、卑屈になっていたようである。

そして、こう書いています。

僕には恋愛らしい恋愛はない。青春とよぶような時代には、惨憺たる一家の計を負っていたから、恋愛をしている暇がなく通ってしまったし、その責任を果たしかけてどうかなりかけると、今の文学の方へ、わき眼もふらないで入ってしまったからである。

しかし、これが最初の妻・やすとの婚姻中の昭和10年に書かれていることを思うと、ちょっとどうなのかという気にもなります。
やすにすれば、私は何なんだという話ですよね。
既に夫婦としては破綻していたとは言え。

そして、再婚する池戸文子と出会うのは、この頃のこと。
そうなると、文子との交際は、吉川英治にとっては初めての恋愛らしい恋愛ということになるのでしょうか。

ちなみに、昨日の文章では触れなかったので、念のため書いておきますが、吉川英治は明治25年(1892)生まれで、昭和10年(1935)には43歳。
池戸文子は大正9年(1920)生まれで、昭和10年には15歳です。

果たせなかった初恋をやり直しているような気持ちだったのでしょうか。

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2016年10月 5日 (水)

池戸文子との出会い

やすとの関係がすっかり冷え切っていた昭和10年、吉川英治は一人の少女に出会います。それが当時15歳だった池戸文子です。

彫刻家である父・末吉の二女である文子は、尋常小学校を卒業すると家計を支えるため働き初め、英治と出会った時は銀座の河豚料理屋に勤めていました。
その後、別の料亭に勤め出した文子が、英治を知る客に対し、「吉川先生にはお目にかかったことがございます。よろしくおっしゃってください」と話したところ、しばらくして英治がその店に通うようになりました。

幼くして母を亡くし、身体の弱い父に代わって家計を支える文子の姿は、英治に同じような苦労を重ねたかつての自分を思い起こさせたのかもしれません。また、汚れのない少女のたたずまいに、安らぎを感じてもいたでしょう。

やがて、二人は店の外でも会うようになり、英治は文子を故郷の横浜や村山貯水池、湯河原などに連れて行きました。

昭和12年、英治はやすと離婚します。作家生活と家庭生活の乖離を、ついに埋めることはできませんでした。所有資産のほとんどをやすに譲ったのは、貧しい時代を支えてくれたことへの感謝も込められていたでしょう。

同年、文子は父・末吉を亡くします。そして、同年末、英治は文子を入籍します。

文子は、英治が作家活動に集中出来るように気を配り、また、家庭生活でも二男二女をもうけるなど、充実させました。
文子を得て、英治の作家生活と家庭生活は融合し、そのことは以後の文業に影響を与えていきます。

吉川文学の完成に、文子の存在は不可欠だったと言えるでしょう。

(これは現在開催中の特集「吉川英治の恋」の解説です)

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2016年10月 4日 (火)

逃避行

妻・やすとの関係が最悪であった昭和5年。
この頃の英治は、文壇でも“恐妻家”として有名になっていました。

そんな時、英治は自ら随筆にも書いたひとつの事件を起こします。“津の守芸者”との1年にわたる“逃避行”です。

英治の書くところによれば、こうなります。

ある夜、英治が飲み過ぎて、酔い覚ましの休憩のために四谷の待合に立ち寄った際、なじみの芸妓に家まで車で送ってもらったものを、やすに見咎められます。
やすのいつまでも続く叱責と癇癪に耐えかねた英治は、自宅での執筆活動をあきらめ、やすと距離を置くために家出をし、各地の旅館を転々としながら執筆活動をすることを選びます。
そこに、この騒動の原因は自分であると思い込んだ芸妓が押し掛けてきたため、そのままズルズルと行動を共にすることになりました。

問題の芸妓は店での名は一郎、本名は菊池慶子と言いました。

この逃避行に関わる書簡が英治の川柳家時代の兄貴分で、信頼を寄せていた正木十千棒の元に残っていました。英治は、この逃避行の際、出版社や家族との連絡を正木に頼んでいたため、残ったものです。

書簡によると、原稿料の受け渡しを菊池慶子に任せるなど、英治が身の回りのことについて、彼女をあてにしていた部分が伺えます。
その一方で、文学のためにやすと距離を置いたつもりが、別の女性を招き入れてしまったことに対して

茨の花曲がった道も茨の花

と自虐するような句を書いています。

結局、英治は、およそ一年後に自宅に戻り、菊池慶子との関係は、ごたついたものの、解消されます。

(これは現在開催中の特集「吉川英治の恋」の解説です)

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2016年10月 3日 (月)

最初の妻・赤沢やす

東京に出てきて、すぐに川柳家・井上剣花坊の柳樽寺川柳会の同人となった吉川英治は、川柳の世界に多くの友人を得ます。
そのうちの一人の親戚が吉原の分武蔵という待合を経営していたため、英治はその店に川柳仲間たちとよく集まって、遊んでいました。

そこに芸妓として出ていたのが赤沢やすで、江戸の畳職人の娘でした。英治26歳頃、やす22歳頃のことです。
小粋で気風が良く、英治曰く「目のさめそうにきれい」な女性であったやすと英治は、すぐに魅かれあい付き合い始めます。
当時の英治は、輸出用の金属象嵌製品の製造販売を行っていましたが、第一次世界大戦後の不況で苦境に立たされていました。
そんな英治を、やすは経済的にも支えました。

やすが日本が租借していた大連へ出稼ぎに行き、英治自身も商売上の苦境を打開するため、やすの後を追って大連に出かけるということもありました。

やすは英治の母・いくにも気に入られ、弟・妹たちには慕われていましたが、二人が正式に入籍したのは両親死後の大正12年8月8日でした。

それから1ヶ月と経たずに、関東大震災が発生。
それを契機に、文学の意義深さを感じた吉川英治は作家となります。

しかし、それとともに、二人の間はぎくしゃくし始めます。
作家として精進を目指すと同時に、やすにも文化的な向上心を期待する英治と、水商売的な気質の抜けないやす。
そこに生まれた溝を埋めるために、子供のいなかった二人は養子を迎えるなどの努力をしましたが、それも限界となり、昭和12年に離婚することとなります。

(これは現在開催中の特集「吉川英治の恋」の解説です)

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2016年10月 2日 (日)

吉川英治の初恋

吉川英治が作家になるまでの若い日々をつづった“四半自叙伝”である『忘れ残りの記』。

私たちが青少年期を回顧する時、恋愛というものは大きな位置を占めるものです。しかし、『忘れ残りの記』の中には、恋愛話は登場しません。
父親の事業の失敗に伴い、小学校を卒業することすら許されずに、家計のために世に出なければならなかった吉川英治には、恋をする余裕もなかったのでしょう。

ただ、ひとつだけ、恋のようなエピソードが語られています。

吉川英治は、18歳の時に苦学の決意で、郷里の横浜から東京に出てきます。そして、紹介を受けて浅草三筋町の蒔絵師の元に住み込みで弟子入りします。
蒔絵師の自宅兼工房は四軒長屋の1軒でした。
その長屋の別の1軒に住む、造花の製造を行っている一家に、娘がいました。「紙人形のように薄手で弱そうな子」と英治が評するその娘に対し、心動かされたものの、ついに一言の口をきくこともないまま、娘の姿が長屋から消えます。
娘は上方の花柳界から舞妓に出たのでした。
しかし、娘はまもなく急死してしまいます。
娘の兄から、娘が死ぬ前に何度も自分の名を口にした、と聞かされた英治は、それを「終生の悔いである」と書いています。

(これは現在開催中の特集「吉川英治の恋」についての解説です)

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