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2018年4月 8日 (日)

足利紀行―その3

さて、緑町配水池のあるのは小高い丘の上ですが、その丘を渡良瀬川方向に降りたところに草雲美術館があります。

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ここは、南画家・田崎草雲の作品を展示している美術館です。
田崎草雲は、足利藩の江戸藩邸で文化12年(1815)に生まれ、明治31年に足利で84年の生涯を閉じました。

吉川英治にはこの田崎草雲を主人公とした「田崎草雲とその子」(別題「田崎草雲とその妻」)という短編作品があります(『文藝春秋』昭和7年夏季増刊号掲載)。

江戸で貧しい絵師をしていた時代を中心に、草雲の生い立ちや同時代の文化人との交流などを描いていますが、肝となるのは、貧しい時代を共に耐えてきた妻の菊が、発狂して死に至るエピソードと、尊王の志を持つ草雲が足利藩内の意志を勤王に統一していく一方で、草雲の息子の恪太郎が佐幕に走り、維新を迎えて自害して果てるエピソードです。

ちなみに、『文藝春秋』掲載時の挿絵は田崎草雲の弟子である小室翆雲が描いています。

その田崎草雲が、明治11年から暮らしたのが白石山房でした。

草雲美術館、足利市在住の鈴木栄太郎が、昭和43年に私費を投じて、その白石山房の敷地に建設し、足利市に寄付したものです。

吉川英治は、美術館になる前の白石山房を訪ねたことになります。
その写真がこちら。

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実は、私が訪ねたのは定休日の月曜だったので、外からしか眺められず、同じアングルからは写真が撮れませんでしたが、裏から見るとこんな感じでした。

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そして、最後に向ったのは、足利市の超有名スポット、渡良瀬橋です。

吉川英治が訪れた時の写真を見ると、トラスの終りから橋の欄干の終りまでの間に、少し間があります。このことから、これが橋の南詰であることがわかります。
つまり、市街地の対岸から足利の地を眺めたということです。

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今は橋の上流側に人道橋が設置され、車と人は分けられています。

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これで、私の足利市滞在時間は、およそ4時間。
吉川英治も、大体この程度の滞在時間だったはず。
もっとも、私は徒歩で、吉川英治は車だったので、もう少し時間に余裕はあったと思いますが。

これで、吉川英治の短時間の足利視察に合わせた(?)、私の足利紀行も終わります。

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2018年4月 7日 (土)

足利紀行―その2

次に鑁阿寺に移動しました。

吉川英治は「筆間茶話」で、

まず鑁阿寺を訪ねた。足利市の街中である。濠は旧態をのこしているが、古図に見える林泉や大杉は面影もない。多宝塔そのほかの諸堂も荒れている。住職山越氏の住む階上に、国宝の宋窯花瓶やら尊氏自筆の古文書などが、からくも無事をえている有様だった。

と、当時の様子を描写しています。
「筆間茶話」では、この後に住職の言葉が語られますが、それは要するに、明治維新後、日本を支配した皇国史観の中では、足利尊氏は逆賊と扱われたため、中央政府から保護を受ける機会がなかったということです。
文中にはありませんが、この時、吉川英治は鑁阿寺に、

雪山春不遠

との書を残していきました。

その鑁阿寺での写真はこんなものです。

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窓の形から、経堂であろうと思われます。

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私が訪ねた時は、ちょうど桜が満開で、吉川英治が感じたような荒廃は見えませんでした。

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さて、次に訪ねた場所がここです。

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写真の裏には「足利市展望台から足利の地勢を見る」とあります。

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写真に写っている石碑には、2枚の写真から「聖上御展望之處」とあるのがわかります。
つまり、天皇が周囲を眺めた場所、ということになります。それも、おそらくは昭和天皇が。

ここはどこでしょうか?

足利市に昭和天皇がいつ何のために行幸したのか。
それは昭和9年に行われた陸軍特別大演習です。
昭和9年11月に北関東で大規模な軍事演習が行われ、その後、群馬県・栃木県の主要都市に行幸しています。
これを記録した「行幸記念写真帖」(昭和9年12月30日 立見屋)の中に、「足利市水道配水池ヨリ市中御展望」という写真が掲載されています。

この場所はどこなのか。
それは水道山記念館のある緑町配水場です。

通常非公開となっているため、敷地内には入れませんでしたが、柵越しに問題の石碑と思われるものが見えました。

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あのあたりに昭和天皇が立ち、そして吉川英治も立っていたわけです。

感動しました。

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2018年4月 6日 (金)

足利紀行―その1

今週初めに、群馬・栃木県境あたりに私用で出かけたので、そのついでに足利市を訪ねてきました。
その目的は、吉川英治が訪れた場所を訪ねることです。

吉川英治は、「私本太平記」の連載開始(『毎日新聞』昭和33年1月18日から)直後の昭和33年2月21日に、足利の視察に出かけています。
新聞連載の合間に挟み込んだ「筆間茶話」という随想の昭和33年3月3日掲載分で、足利市内の鑁阿寺、足利学校、白石山房に立ち寄り、桐生・太田をまわって帰宅したことが書かれています。

そこにも書かれていますが、これは日帰りの旅でした。
秘書の残した業務日誌によると、「午前八時、毎日新聞社の車で足利視察に出発。文子夫人、杉本健吉、松本昭(注:毎日新聞社の担当編集者)同行。午後六時過帰宅。」とあります。
高速道路もなく、未舗装道路も多かった当時、片道3~4時間を要したのではないかと推測すると、足利市内の滞在時間はほんの3時間程度だったことになります。

その時に撮影された写真が残っているのですが、その内容から見て、上記の3ヶ所の他にあと2ヶ所に立ち寄っているらしいことがわかります。後日ご紹介しますが、1ヶ所はとても有名なあの場所、もう1か所は、今回色々と調べて見つけました。
5ヶ所立寄ったとすると、移動時間を考えれば、1ヶ所に20~30分程度の滞在だったことになります。

その5ヶ所を巡ってみようというのが、今回の目的です。

吉川英治がまず訪ねたのは鑁阿寺ですが、私は両毛線足利駅から向かったので、まず足利学校に立ち寄ります。

足利学校は平成2年に、建物や庭園を江戸時代中期の姿に復元しました。
実は、その翌平成3年に放送されたのが、吉川英治原作の大河ドラマ「太平記」でした。
絶妙なタイミングですが、足利学校の保存整備事業は昭和56年に着手されているので、偶然でしょう(何か足利市からの働きかけはあったかもしれませんが)。

当然、吉川英治が訪れた時と現在では建物が変ってしまっています。

そこで、足利学校の職員の方に声をおかけしたところ、所長の大澤伸啓氏にご対応いただきました。

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まずこの写真ですが、写っているのは「字降松」で、背後の建物は当時この場所に存在した東小学校の校舎であろうとのこと。
足利学校のパンフレットの年表によると、足利学校の建物の一部が明治6年に小学校となり、明治9年に小学校の校舎が新設されています。

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こちらは現在の「字降松」。実はもう何代目だかの松で、吉川英治が見たものとは違う木になっているとのこと。

「筆間茶話」には

足利学校の訪う人もない庭梅と、宋版の国宝古書籍の真新しさなどは忘れがたい。昔、文盲の領民が、なにか読めない文字があると、紙キレにに書いて、門前の小松に結いつけておき、翌朝を待つと、それにフリ仮名と解釈が付いていたという言い伝えのある“字降松”はホホ笑ましい。以て当時の学校なるものの在り方も、よく読める

と書いています。

先程の写真の背景が東小学校ならば、この写真もそうではないかと、私は推測しますが、こちらについては断言はされませんでした。

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