2017年5月13日 (土)

旧吉川邸を隅から隅まで見てみよう2017募集中

昨日、読売新聞に表記のイベントの記事が掲載されました。

記事は、詳しくはホームページへ、という体裁になっていますが、そのホームページを移転したばかりのため、古い情報にたどり着いてしまう人が多いようです。

同じイベントを毎年開催しているので、昨年以前の情報が残っていて、検索サイトが、移転したばかりのホームページよりも、古い情報の方を上位に表示してしまうようです。
検索サイトの落とし穴ですね。

ホームページ上に正しい情報はありますが、念のためここにも掲載しておきます。

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ご好評をいただいている「旧吉川英治邸を隅から隅まで見てみよう」を、2017年も開催します。

現在、吉川英治記念館の中心となっている旧吉川英治邸は、吉川英治の命日である英治忌(9月7日)にその一部を公開している他は、管理上の理由から原則立ち入り禁止としています。
その吉川英治邸の中を学芸員の説明付きで案内し、実際にそこで生活をしていた吉川英治長男の吉川英明(当館館長)による思い出話を聞くという企画です。
通常の来館者は立ち入り禁止の書斎や風呂場、あるいは2・3階部分も案内します。

作家がどんな家に住み、そこでどう暮らしたか。そんなことに興味のある方は是非ご参加下さい。

〈 応 募 要 項 〉

日   時:平成29年6月10日(土)・11日(日)/6月17日(土)・18日(日)
       各日、13時から(所要時間1時間30分の予定)

参加費用:600円

定員:各回15名(応募多数の場合は抽選)

申し込み方法
下記申し込み先に、「吉川邸見学希望」と明記し、お申込み下さい。
電話申込みは受け付けていません。
抽選結果は応募者全員にハガキで通知いたしますので、お申込みに際しては住所・氏名・電話番号を明記して下さい。

申し込み先
・ファックス=0428-76-1936
・郵送=吉川英治記念館(〒198-0064 青梅市柚木町1-101-1)
・メール=renraku-yehm@mbr.nifty.com

受付期間:平成29年5月20日(土)まで

問い合わせ先
吉川英治記念館 電話0428-76-1575

備考
申し込みの際は、4日間の中で第2希望まで指定してください。申し込みの多寡に応じて調整させていただきます。
2名以上の場合は全応募者の氏名、年齢をご記入ください(住所・電話は代表者のみで結構です)。
参加費用は当日承ります。
休館期間中のため、展示室の展示はご覧いただけません。

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2017年1月27日 (金)

第8回草思堂落語会参加者募集

サイトそのものを更新する予定でしたが、ちょっと遅れているので、まずはこちらで告知します。

昨年一回お休みした草思堂落語会を、今年も開催いたします。

前回までは、吉川英治が若い頃、吉川英治以外のペンネームで書いた「新作落語」を、実際に噺家さんに演じてもらうというコンセプトでやってまいりました。しかし、吉川英治が遺した「新作落語」は、これまでにひと通り演じていただきましたので、今回は「新作落語」を離れて、古典落語のみで構成することにいたしました。

演者は、今回も吉川英治の遠縁にあたる柳家禽太夫さんです。

演目は、『味噌蔵』と『船徳』。

草思堂落語会は元々、吉川文子夫人の命日である4月23日にちなんで始めたもので、毎回4月に行っています。そのため、「新作落語」に合わせる噺も春の噺ばかりでした。
そこで今回は、あえて冬の噺と夏の噺をやってみる、という趣向です。

禽太夫さんの二席のほかに、若手(未定)の一席を合わせて、合計三席の落語会となります。

参加ご希望の方は、以下の要項に沿って、ご応募ください。

〔 応 募 要 項 〕

○日時:2017年4月22日(土) 14時~16時

○定員:50人

○料金:2000円(入館料を含みます ので、吉川英治記念館の展示もご覧いただけます)

○参加受付:4月8日まで

○応募
・ハガキ:吉川英治記念館まで(〒198-0064 東京都青梅市柚木町1-101-1)

・FAX:0428-76-1936

・メール:oubo-rakugo@mbn.nifty.com

上のいずれかまで、「草思堂落語会参加希望」をタイトルに、参加希望者の住所・氏名を明記の上、お申し込み下さい。なお、希望者多数の場合は、抽選とさせていただきます。
入場整理券を兼ねたハガキを4月12日頃にお送りしますので、当選発表はその発送をもって代えさせていただきます。定員に達しない時は継続して受け付けますので、お問い合わせください。

○問合せ
吉川英治記念館
電話:0428-76-1575

〔柳家禽太夫プロフィール〕
昭和三九年、神奈川県厚木市生まれ。本名・鈴木徳久。昭和五八年、十代目柳家小三治に入門。同年、前座名「小のり」で初高座。六二年、二つ目昇進。平成一三年、師匠・小三治の命名による初代「禽太夫(きんだゆう)」で真打に昇進。「禽」の字は、明治時代に活躍した二代目柳家小さんの愛称「禽語楼」(小鳥が禽えずるように語ることから)にちなむもの。平成一四年、第七回「林家彦六賞」受賞。

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2016年11月18日 (金)

ライトアップ

先日告知した紅葉ライトアップ

11月12日に行った草思堂庭園内のライトアップは、おかげさまで好評でした。

今回は基本的にNPO法人青梅吉野梅郷梅の里未来プロジェクトによる企画が東京都の支援事業に採択された結果、実施したものですが、吉川英治記念館の自主企画として継続することも視野に入れて考えたいと思うほどです。

なお、ライトアップは、庭園内については11月12日のみですが、吉野街道から見える大きな楓と母屋のライトアップは、11月27日まで引き続き行います。

今はこんな感じです。

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この木は大きいため、木の上の方から先に紅葉して、だんだん散って行ってしまうので、後半はちょっと寂しくなってしまうかもしれません。

もし興味がおありなら、お早めに。

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2016年11月 3日 (木)

梅の写真展

ところで、例年会場を提供してきた青梅アートジャムですが、今回は要望がなかったので、会場とはなっていません。

青梅アートジャムの今回のテーマは「梅に捧げる」というものです。
9月17日から11月13日までという長い会期の中で、青梅市立美術館でのメイン展示と並行して、青梅市立美術館市民ギャラリーを使って、10日間程度の企画も行うという構成になっています。

その企画の最後のものとして、本日から11月13日(日)まで「梅の小品展・梅の写真展・ワークショップ作品展」が開催されます。
で、この「梅の写真展」ですが、一般に対して写真を募集していましたので、私も応募してみました。

かつて、吉川英治記念館の庭園を彩っていた梅。
プラム・ポックス・ウィルス対策のため、1本残らず伐採されてしまった梅。

記念館に勤め始めてから、折に触れて撮りためておいたそれらの梅の写真を、この機会に皆様に見ていただきたいと思い、応募してみたところ、青梅アートジャム事務局から展示しますという連絡をいただきました。

というわけで、私の素人写真が、いま青梅市立美術館市民ギャラリーに飾られています。
こんなことでもないと、アーティストでもない私の写真が美術館に展示されることなどありえません。

すごいね(笑)

ただ、見ていただきたいのは、かつての梅に囲まれた吉川英治記念館の姿です。

先日、限定的に梅の再植樹が許可され、“青梅市梅の公園”などに、来春までに梅が新たに植えられることが決まりました。
ただ、許可されたのは青梅市梅郷・和田町の両地区のみ。
吉川英治記念館のある柚木町は、今回の許可地域に含まれていません。
いつならば再植樹が許されるのかの目途も立っていません。

せめて、かつての姿を見ていただいて、いつかまた梅に埋め尽くされる日に思いを馳せていただけたらと思っています。

ということなので、写真の良し悪しは問わないで下さいね(苦笑)

厚かましくも12枚も送りつけたのですが、そのうちの1枚をここで。
プラム・ポックス・ウィルス対策で、最初に伐採された紅梅の花びらが、地面に散っているさまです。

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2016年11月 2日 (水)

紅葉ライトアップ

もう、11月になってしまいました。
また、今月末には年内の営業が終わってしまいます。
年に6ヶ月の営業だと、一年が過ぎるのが早いことよ。

さて、そんな中、来週土曜日の11月12日に、紅葉ライトアップを行います。

チラシはこちら

閉館後の17時から20時にかけて、吉川英治記念館草思堂庭園内の椎の木とモミジをライトアップし、その間庭園を無料開放します。

また、母屋内では貴重な映像資料も上映します。

ライトアップは初めての試みです。

夜の草思堂庭園の様子は、職員しか知りません。
暗闇に浮かぶ母屋や記念館の姿は、なかなか幻想的です。
そこに、紅葉のライトアップが加わるわけですから、私自身、どうなるか楽しみです。

是非、足を運んでください。

なお、このイベントの背景については、こちらをご参照ください。

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2016年10月19日 (水)

文学散歩「吉川英治と関東大震災」参加者募集中

文学散歩「吉川英治と関東大震災」を開催します。

2016年12月3日(土)の開催です。

詳しくはこちらを。

最近は、ストイックに歩くだけの文学散歩が続いていましたが、今回は最終目的地が船橋屋です。
くず餅を食べながら歓談する時間が予定されています。

なぜ船橋屋に行くのか、ちゃんと理由があるのですが、それは行ってのお楽しみということにしておきます。

とか言いつつ、昔、こうしてガッツリ紹介していますが。

ご興味のある方は、ぜひご参加ください。

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2016年10月 7日 (金)

恋と偽名

ところで、年若い池戸文子との交際には、吉川英治も気を使ったようで、交際から間もない時期に英治が文子に宛てたハガキは、差出人の名前が偽名になっています。

その偽名が“栄子”。
苗字は書かれていないので、ちょっとしたお遊びだったのかもしれませんが。

ただ、せっかく女性名に擬しておきながら、わざわざ“エイジ”とフリガナが振られています。

なぜだろうと不思議に思っていたのですが、実は文子の姉の名が“栄子”なのです。
差出人の名を半ば冗談で“栄子”と書いてから、このことを思い出したのではないかな、と私は思っています。

なかなか子供っぽい話です。

その一方、もうちょっと本気の偽名もあります。

それは、先日触れた逃避行の際のもの。

妻のやすの目を逃れての旅だったので、追跡されないように偽名を使っています。

最初に使った名が“山上弁三郎”なのですが、これは英治の母方の祖父の名です。

そんな身内の名を使って、やすに感づかれないのかと思ってしまいますが、諸々あって山上家とは疎遠だったので、やすもそこまでは知らないだろうと判断していたのでしょう。

その後、場所を移動して、吉川英治は長野県の上山田温泉に到ります。

そこでは“菊池一郎”を名乗っています。
先日書いたように、この時に同行していたのは<津の守芸者>の“一郎”こと、菊池慶子です。
彼女の苗字と芸者としての名前を組み合わせているわけですが、いかにも偽名くさい感じになっています。

作品の登場人物の名前に比べて、あまりセンスが感じられません(苦笑)

そのためか、この時にはちょっとした騒動を起こしています。

偽名で宿泊していたため、地元警察の事情聴取を受けてしまうのです。

身元の確認のため、この逃避行で多大な面倒をかけている正木徳三郎(十千棒)の妻・すてが、わざわざ東京から駆け付けています。

後日、そのことを詫びる手紙を送っていますが、その手紙からは、地元警察の対応に腹を立てていることが伺えます。

いや、それは、そもそも女房の目を逃れて偽名で宿泊したあなたが悪い(笑)

しかも、女性側からすると、罪な話でしょう。

要するに、“菊池一郎・慶子”夫妻として宿泊し、つかの間、夫婦気分にさせておいて、結局、吉川英治は家庭に戻るのですから。

以上で触れた書簡類も、今回の特集「吉川英治の恋」で展示しています。

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2016年10月 5日 (水)

池戸文子との出会い

やすとの関係がすっかり冷え切っていた昭和10年、吉川英治は一人の少女に出会います。それが当時15歳だった池戸文子です。

彫刻家である父・末吉の二女である文子は、尋常小学校を卒業すると家計を支えるため働き初め、英治と出会った時は銀座の河豚料理屋に勤めていました。
その後、別の料亭に勤め出した文子が、英治を知る客に対し、「吉川先生にはお目にかかったことがございます。よろしくおっしゃってください」と話したところ、しばらくして英治がその店に通うようになりました。

幼くして母を亡くし、身体の弱い父に代わって家計を支える文子の姿は、英治に同じような苦労を重ねたかつての自分を思い起こさせたのかもしれません。また、汚れのない少女のたたずまいに、安らぎを感じてもいたでしょう。

やがて、二人は店の外でも会うようになり、英治は文子を故郷の横浜や村山貯水池、湯河原などに連れて行きました。

昭和12年、英治はやすと離婚します。作家生活と家庭生活の乖離を、ついに埋めることはできませんでした。所有資産のほとんどをやすに譲ったのは、貧しい時代を支えてくれたことへの感謝も込められていたでしょう。

同年、文子は父・末吉を亡くします。そして、同年末、英治は文子を入籍します。

文子は、英治が作家活動に集中出来るように気を配り、また、家庭生活でも二男二女をもうけるなど、充実させました。
文子を得て、英治の作家生活と家庭生活は融合し、そのことは以後の文業に影響を与えていきます。

吉川文学の完成に、文子の存在は不可欠だったと言えるでしょう。

(これは現在開催中の特集「吉川英治の恋」の解説です)

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2016年10月 4日 (火)

逃避行

妻・やすとの関係が最悪であった昭和5年。
この頃の英治は、文壇でも“恐妻家”として有名になっていました。

そんな時、英治は自ら随筆にも書いたひとつの事件を起こします。“津の守芸者”との1年にわたる“逃避行”です。

英治の書くところによれば、こうなります。

ある夜、英治が飲み過ぎて、酔い覚ましの休憩のために四谷の待合に立ち寄った際、なじみの芸妓に家まで車で送ってもらったものを、やすに見咎められます。
やすのいつまでも続く叱責と癇癪に耐えかねた英治は、自宅での執筆活動をあきらめ、やすと距離を置くために家出をし、各地の旅館を転々としながら執筆活動をすることを選びます。
そこに、この騒動の原因は自分であると思い込んだ芸妓が押し掛けてきたため、そのままズルズルと行動を共にすることになりました。

問題の芸妓は店での名は一郎、本名は菊池慶子と言いました。

この逃避行に関わる書簡が英治の川柳家時代の兄貴分で、信頼を寄せていた正木十千棒の元に残っていました。英治は、この逃避行の際、出版社や家族との連絡を正木に頼んでいたため、残ったものです。

書簡によると、原稿料の受け渡しを菊池慶子に任せるなど、英治が身の回りのことについて、彼女をあてにしていた部分が伺えます。
その一方で、文学のためにやすと距離を置いたつもりが、別の女性を招き入れてしまったことに対して

茨の花曲がった道も茨の花

と自虐するような句を書いています。

結局、英治は、およそ一年後に自宅に戻り、菊池慶子との関係は、ごたついたものの、解消されます。

(これは現在開催中の特集「吉川英治の恋」の解説です)

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2016年10月 3日 (月)

最初の妻・赤沢やす

東京に出てきて、すぐに川柳家・井上剣花坊の柳樽寺川柳会の同人となった吉川英治は、川柳の世界に多くの友人を得ます。
そのうちの一人の親戚が吉原の分武蔵という待合を経営していたため、英治はその店に川柳仲間たちとよく集まって、遊んでいました。

そこに芸妓として出ていたのが赤沢やすで、江戸の畳職人の娘でした。英治26歳頃、やす22歳頃のことです。
小粋で気風が良く、英治曰く「目のさめそうにきれい」な女性であったやすと英治は、すぐに魅かれあい付き合い始めます。
当時の英治は、輸出用の金属象嵌製品の製造販売を行っていましたが、第一次世界大戦後の不況で苦境に立たされていました。
そんな英治を、やすは経済的にも支えました。

やすが日本が租借していた大連へ出稼ぎに行き、英治自身も商売上の苦境を打開するため、やすの後を追って大連に出かけるということもありました。

やすは英治の母・いくにも気に入られ、弟・妹たちには慕われていましたが、二人が正式に入籍したのは両親死後の大正12年8月8日でした。

それから1ヶ月と経たずに、関東大震災が発生。
それを契機に、文学の意義深さを感じた吉川英治は作家となります。

しかし、それとともに、二人の間はぎくしゃくし始めます。
作家として精進を目指すと同時に、やすにも文化的な向上心を期待する英治と、水商売的な気質の抜けないやす。
そこに生まれた溝を埋めるために、子供のいなかった二人は養子を迎えるなどの努力をしましたが、それも限界となり、昭和12年に離婚することとなります。

(これは現在開催中の特集「吉川英治の恋」の解説です)

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