2016年12月17日 (土)

墨田電話局慰霊碑

去る12月3日に文学散歩を行いました。

その立寄り先の一つが墨田電話局慰霊碑だったのですが、これについて調べ直しているうちに、自分がとんだ勘違いをしていたことに気が付きました。

どう勘違いしていたかは、まずこちらをお読みください。

その上で、改めて、この慰霊碑について書いてみます。

昭和20年(1945)3月10日未明、深川・本所・日本橋・浅草地区を中心に東京都心部の広範囲に対して空襲が行われました。
世界の空襲の中でも突出した死亡者数を数えた東京大空襲です。
その際に、墨田電話局も被災し全焼しましたが、職員はぎりぎりのところまで職場にとどまったため、男性職員3名、女性交換手28名が死亡しました。
交換手たちは、最後までブレストとよばれる受話器を身に着けたまま亡くなったと言われています。

同電話局では、大正12年(1923)の関東大震災の際にも、男性職員2名が犠牲となっていたため、この両者の慰霊と、悲劇の二度と起こらないことを祈願するため、墨田電話局の復興開局に合わせ、慰霊碑を建立することになりました。

吉川英治は、この東京大空襲で最初の妻・赤沢やすとの結婚時代に引き取った養女・園子を失っています。
女子挺身隊として動員されていた園子は、やすと共に都心に残っていました。
最後に確認されたのは、当時住んでいた浅草の自宅で、外出していたやすの帰宅を待つ姿でした。
そのまま園子は行方不明となり、ついにその消息は分かりませんでした。

吉川英治は、園子行方不明の連絡を受け、当時住んでいた吉野村(現吉川英治記念館)から連日上京して、園子の消息を訪ね歩きました。

その時のことを、梶井剛元電電公社総裁との対談(『電信電話』昭和32年6月号)で触れています。
園子を探し歩いてくたくたになった後、親交のあった秋山徳三の家に立ち寄ったところ、そこに来合わせた人物から墨田電話局の悲劇を聞かされたと言います。
そして、こう語っています。

それをききましてぼくは、ああ、そんなにまで純真なおとめたちがあったのに、ぼくの養女一人がみえなくなったからっていって、そう途方にくれたように幾日も探し歩いてもしようがない、たくさん、日本のいい娘たちが、そうして亡くなったんだから……と思って、ぼくもそこですっかりあきらめて、ついにその晩雪のなかを奥多摩へ帰ったことがありました。その話を、ぼくはいつまでも忘れかねるんですね。

吉川英治は、この対談が縁となって、昭和33年(1958)3月10日に行われた慰霊碑の除幕式に招かれます。

当時の吉川英治の秘書の日誌によると除幕式の3日後、電電公社の職員が来訪し、慰霊碑のそばに設置する由緒を記した碑文の撰文と揮毫を依頼します。
この日誌からは、依頼を受けた吉川英治が、半月以上の時間をかけて、何度も書き直して碑文を完成させたことが窺えます。

それが、以下の碑文です。

春秋の歩み文化の進展は その早さその恩恵に馴るゝ侭
つい吾人をして 過去の尊いものをも忘れしむる
こゝ百尺の浄地ハ 大正十二年九月一日関東大震災
殉職者二名と また過ぐる昭和二十年三月九日夜半
における大戦の大空襲下に 国を愛する清純と自
らの使命の為 ブレストも身に離たず 劫火のうち
に相擁して仆れた主事以下の男職員三名 ならびに
女子交換手二十八名が その崇高な殉職の死を 永遠と
なした跡である
当時の墨田分局 いま復興を一新して その竣工の慶を
茲に見るの日 想いをまた春草の下に垂れて かっての
可憐なる処女らや ほか諸霊にたいし 痛惜の
悼みを新にそゝがずにいられない
人々よ 日常機縁の間に ふとここに佇む折もあ
らば また何とぞ 一顧の歴史と 寸時の祈念
とを惜しませ給うな        吉川英治 謹選

ちなみに、リンク先のものは碑文の下書き。
完成したものとは骨格は同じながら、かなり異なることがわかります。
何度も書き直した跡がうかがえます。

それだけ、この碑文には思いがこもっているということでしょう。


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2016年10月 7日 (金)

恋と偽名

ところで、年若い池戸文子との交際には、吉川英治も気を使ったようで、交際から間もない時期に英治が文子に宛てたハガキは、差出人の名前が偽名になっています。

その偽名が“栄子”。
苗字は書かれていないので、ちょっとしたお遊びだったのかもしれませんが。

ただ、せっかく女性名に擬しておきながら、わざわざ“エイジ”とフリガナが振られています。

なぜだろうと不思議に思っていたのですが、実は文子の姉の名が“栄子”なのです。
差出人の名を半ば冗談で“栄子”と書いてから、このことを思い出したのではないかな、と私は思っています。

なかなか子供っぽい話です。

その一方、もうちょっと本気の偽名もあります。

それは、先日触れた逃避行の際のもの。

妻のやすの目を逃れての旅だったので、追跡されないように偽名を使っています。

最初に使った名が“山上弁三郎”なのですが、これは英治の母方の祖父の名です。

そんな身内の名を使って、やすに感づかれないのかと思ってしまいますが、諸々あって山上家とは疎遠だったので、やすもそこまでは知らないだろうと判断していたのでしょう。

その後、場所を移動して、吉川英治は長野県の上山田温泉に到ります。

そこでは“菊池一郎”を名乗っています。
先日書いたように、この時に同行していたのは<津の守芸者>の“一郎”こと、菊池慶子です。
彼女の苗字と芸者としての名前を組み合わせているわけですが、いかにも偽名くさい感じになっています。

作品の登場人物の名前に比べて、あまりセンスが感じられません(苦笑)

そのためか、この時にはちょっとした騒動を起こしています。

偽名で宿泊していたため、地元警察の事情聴取を受けてしまうのです。

身元の確認のため、この逃避行で多大な面倒をかけている正木徳三郎(十千棒)の妻・すてが、わざわざ東京から駆け付けています。

後日、そのことを詫びる手紙を送っていますが、その手紙からは、地元警察の対応に腹を立てていることが伺えます。

いや、それは、そもそも女房の目を逃れて偽名で宿泊したあなたが悪い(笑)

しかも、女性側からすると、罪な話でしょう。

要するに、“菊池一郎・慶子”夫妻として宿泊し、つかの間、夫婦気分にさせておいて、結局、吉川英治は家庭に戻るのですから。

以上で触れた書簡類も、今回の特集「吉川英治の恋」で展示しています。

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2016年10月 6日 (木)

吉川英治のもう一つの初恋

昨日までの4項目で、今回の特集「吉川英治の恋」は構成されているのですが、初恋については、先日ご紹介したのとは別の話を自叙伝「忘れ残りの記」以外の場所で、書いています。

『文藝春秋』昭和10年10月号に掲載された「女」という随筆(「草思堂随筆」所収)には、小学生時代の初恋が書かれています。
それではあまりに色気がない話なので、今回はスルーしたのですが、それは要約すると、こんな話です。

当時、数多く発行されていた読者投稿を主体とした文芸誌に、吉川英治は小学生ながら作文を投稿し、当選した。
その同じ雑誌に、近所に住む、同じ学校に通う女生徒も投稿していて、入選しているのを発見した。
彼女の作文を読んで、その女生徒が好きになり、用もないのに彼女の家の前を通ったりした。

私にも、同じような記憶があります。誰しも通る幼い恋の1ページでしょう。
しかし、吉川英治のこの初恋は、その後の境遇によって、かき消されてしまいます。

父親の事業上のトラブルから、家が傾き、小学校も卒業できないまま働きに出た吉川英治は、

友達がみんな中学へ入る頃、僕は職工服を着たり草履をはいたりしていたので、以前のように好きな女生徒の家の前は遠廻りをしても通らないようにしていたが、意地わるく、女学校の往復によく出会う。あわてて僕は横丁へかくれるのだった。それ以後は、恋愛に対して、自分は、卑屈になっていたようである。

そして、こう書いています。

僕には恋愛らしい恋愛はない。青春とよぶような時代には、惨憺たる一家の計を負っていたから、恋愛をしている暇がなく通ってしまったし、その責任を果たしかけてどうかなりかけると、今の文学の方へ、わき眼もふらないで入ってしまったからである。

しかし、これが最初の妻・やすとの婚姻中の昭和10年に書かれていることを思うと、ちょっとどうなのかという気にもなります。
やすにすれば、私は何なんだという話ですよね。
既に夫婦としては破綻していたとは言え。

そして、再婚する池戸文子と出会うのは、この頃のこと。
そうなると、文子との交際は、吉川英治にとっては初めての恋愛らしい恋愛ということになるのでしょうか。

ちなみに、昨日の文章では触れなかったので、念のため書いておきますが、吉川英治は明治25年(1892)生まれで、昭和10年(1935)には43歳。
池戸文子は大正9年(1920)生まれで、昭和10年には15歳です。

果たせなかった初恋をやり直しているような気持ちだったのでしょうか。

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2016年10月 5日 (水)

池戸文子との出会い

やすとの関係がすっかり冷え切っていた昭和10年、吉川英治は一人の少女に出会います。それが当時15歳だった池戸文子です。

彫刻家である父・末吉の二女である文子は、尋常小学校を卒業すると家計を支えるため働き初め、英治と出会った時は銀座の河豚料理屋に勤めていました。
その後、別の料亭に勤め出した文子が、英治を知る客に対し、「吉川先生にはお目にかかったことがございます。よろしくおっしゃってください」と話したところ、しばらくして英治がその店に通うようになりました。

幼くして母を亡くし、身体の弱い父に代わって家計を支える文子の姿は、英治に同じような苦労を重ねたかつての自分を思い起こさせたのかもしれません。また、汚れのない少女のたたずまいに、安らぎを感じてもいたでしょう。

やがて、二人は店の外でも会うようになり、英治は文子を故郷の横浜や村山貯水池、湯河原などに連れて行きました。

昭和12年、英治はやすと離婚します。作家生活と家庭生活の乖離を、ついに埋めることはできませんでした。所有資産のほとんどをやすに譲ったのは、貧しい時代を支えてくれたことへの感謝も込められていたでしょう。

同年、文子は父・末吉を亡くします。そして、同年末、英治は文子を入籍します。

文子は、英治が作家活動に集中出来るように気を配り、また、家庭生活でも二男二女をもうけるなど、充実させました。
文子を得て、英治の作家生活と家庭生活は融合し、そのことは以後の文業に影響を与えていきます。

吉川文学の完成に、文子の存在は不可欠だったと言えるでしょう。

(これは現在開催中の特集「吉川英治の恋」の解説です)

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2016年10月 4日 (火)

逃避行

妻・やすとの関係が最悪であった昭和5年。
この頃の英治は、文壇でも“恐妻家”として有名になっていました。

そんな時、英治は自ら随筆にも書いたひとつの事件を起こします。“津の守芸者”との1年にわたる“逃避行”です。

英治の書くところによれば、こうなります。

ある夜、英治が飲み過ぎて、酔い覚ましの休憩のために四谷の待合に立ち寄った際、なじみの芸妓に家まで車で送ってもらったものを、やすに見咎められます。
やすのいつまでも続く叱責と癇癪に耐えかねた英治は、自宅での執筆活動をあきらめ、やすと距離を置くために家出をし、各地の旅館を転々としながら執筆活動をすることを選びます。
そこに、この騒動の原因は自分であると思い込んだ芸妓が押し掛けてきたため、そのままズルズルと行動を共にすることになりました。

問題の芸妓は店での名は一郎、本名は菊池慶子と言いました。

この逃避行に関わる書簡が英治の川柳家時代の兄貴分で、信頼を寄せていた正木十千棒の元に残っていました。英治は、この逃避行の際、出版社や家族との連絡を正木に頼んでいたため、残ったものです。

書簡によると、原稿料の受け渡しを菊池慶子に任せるなど、英治が身の回りのことについて、彼女をあてにしていた部分が伺えます。
その一方で、文学のためにやすと距離を置いたつもりが、別の女性を招き入れてしまったことに対して

茨の花曲がった道も茨の花

と自虐するような句を書いています。

結局、英治は、およそ一年後に自宅に戻り、菊池慶子との関係は、ごたついたものの、解消されます。

(これは現在開催中の特集「吉川英治の恋」の解説です)

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2016年10月 3日 (月)

最初の妻・赤沢やす

東京に出てきて、すぐに川柳家・井上剣花坊の柳樽寺川柳会の同人となった吉川英治は、川柳の世界に多くの友人を得ます。
そのうちの一人の親戚が吉原の分武蔵という待合を経営していたため、英治はその店に川柳仲間たちとよく集まって、遊んでいました。

そこに芸妓として出ていたのが赤沢やすで、江戸の畳職人の娘でした。英治26歳頃、やす22歳頃のことです。
小粋で気風が良く、英治曰く「目のさめそうにきれい」な女性であったやすと英治は、すぐに魅かれあい付き合い始めます。
当時の英治は、輸出用の金属象嵌製品の製造販売を行っていましたが、第一次世界大戦後の不況で苦境に立たされていました。
そんな英治を、やすは経済的にも支えました。

やすが日本が租借していた大連へ出稼ぎに行き、英治自身も商売上の苦境を打開するため、やすの後を追って大連に出かけるということもありました。

やすは英治の母・いくにも気に入られ、弟・妹たちには慕われていましたが、二人が正式に入籍したのは両親死後の大正12年8月8日でした。

それから1ヶ月と経たずに、関東大震災が発生。
それを契機に、文学の意義深さを感じた吉川英治は作家となります。

しかし、それとともに、二人の間はぎくしゃくし始めます。
作家として精進を目指すと同時に、やすにも文化的な向上心を期待する英治と、水商売的な気質の抜けないやす。
そこに生まれた溝を埋めるために、子供のいなかった二人は養子を迎えるなどの努力をしましたが、それも限界となり、昭和12年に離婚することとなります。

(これは現在開催中の特集「吉川英治の恋」の解説です)

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2016年10月 2日 (日)

吉川英治の初恋

吉川英治が作家になるまでの若い日々をつづった“四半自叙伝”である『忘れ残りの記』。

私たちが青少年期を回顧する時、恋愛というものは大きな位置を占めるものです。しかし、『忘れ残りの記』の中には、恋愛話は登場しません。
父親の事業の失敗に伴い、小学校を卒業することすら許されずに、家計のために世に出なければならなかった吉川英治には、恋をする余裕もなかったのでしょう。

ただ、ひとつだけ、恋のようなエピソードが語られています。

吉川英治は、18歳の時に苦学の決意で、郷里の横浜から東京に出てきます。そして、紹介を受けて浅草三筋町の蒔絵師の元に住み込みで弟子入りします。
蒔絵師の自宅兼工房は四軒長屋の1軒でした。
その長屋の別の1軒に住む、造花の製造を行っている一家に、娘がいました。「紙人形のように薄手で弱そうな子」と英治が評するその娘に対し、心動かされたものの、ついに一言の口をきくこともないまま、娘の姿が長屋から消えます。
娘は上方の花柳界から舞妓に出たのでした。
しかし、娘はまもなく急死してしまいます。
娘の兄から、娘が死ぬ前に何度も自分の名を口にした、と聞かされた英治は、それを「終生の悔いである」と書いています。

(これは現在開催中の特集「吉川英治の恋」についての解説です)

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2016年7月17日 (日)

『台湾日日新報』(4)

さて、最後に残したうちの(2)は「江戸城心中」を改題して再録したものです。

やはり地方紙に掲載された作品で、日本本土では『河北新報』(昭和5年9月1日~6年5月9日)に「江戸城心中」として掲載される一方、『北海タイムズ』には「恋愛三世相」、『新愛知』には「悲願四目菱」の別タイトルで連載されています。

さて、最後に(1)を残しましたが、これが注目すべきものでした。
確認の結果、これは吉川英治の初めての新聞小説「親鸞記」を改題して再録したものだったのです。

吉川英治は、大正12年の関東大震災に被災したことをきっかけとして、仕事を辞めて作家活動に専念することになります。
それまで小説については、アマチュアの投稿家として、懸賞に応募したりしているにすぎませんでした。

ただ、「親鸞記」については、少し事情が異なります。

「親鸞記」は、吉川英治が記者として勤務していた『東京毎夕新聞』紙上に、社命により連載(大正11年4月開始日不明~11月22日)した作品です。
吉川作品で、初めて単行本化(大正12年1月)された作品でもありますが、まだ<吉川英治>のペンネームを名乗る前のことで、著者名は本名の<吉川英次>となっています。

そんなこともあって、この最初の単行本化の後は、ずっと本になっておらず、一度だけ「吉川英治全集補巻1 坂東侠客陣」(昭和45年8月 講談社)に掲載されたことがあるだけです。

そんな、幻とも言うべき作品が、一体どんな経緯で台湾で連載されたのでしょうか。

『台湾日日新報』に連載された昭和2年当時、吉川英治は、すでに「剣難女難」「神州天馬侠」「鳴門秘帖」などの作品で人気作家となっていました。
当然、執筆依頼が殺到して多忙となっていたはずですが、それでも穴埋めのために自ら再録を提案したとは思えません。

むしろ、売れっ子として原稿を取りにくくなってきていたであろう吉川英治に対して、作家以前の吉川英治を知る人物が再録を持ちかけたのではないでしょうか。

しかし、それが誰なのか、今のところ解明できていません。

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2016年7月16日 (土)

『台湾日日新報』(3)

(5)(6)は、タイトルで分かるように、両者合わせて「三国志」です。

「三国志」が、「親鸞」のように間を空けずに連続して掲載されながら、タイトルが途中で変更されたのは、当時の事情が関係しているようです。
当時、国家総動員体制下で新聞統制が行われ、一県一紙を原則として新聞の統廃合が行われました。その完成期は昭和17年でした。

「三国志」の掲載紙の代表は、現在の『日本経済新聞』の前身である『中外商業新報』でしたが、この『中外商業新報』は昭和17年11月1日付をもって、『日本工業』『経済時事』の二紙と合併して『日本産業経済』に改題されました。
「三国志」は『中外商業新報』から『日本産業経済』にまたがって昭和14年8月26日~18年9月5日に連載されましたが、『中外商業新報』では「三国志」だったものを、『日本産業経済』では「新編 三国志」と改題し、昭和17年11月1日を第1回として、改めて回数表示されるようになります。
時期はずれますが、『台湾日日新報』の方のタイトル変更も、それと一致しています。

ちなみに、「三国志」もまた、「親鸞」同様に他の地方紙に掲載されていました。
しかし、その対応は上記とは異なります。

『名古屋新聞』の場合は、『新愛知』と合併して昭和17年9月1日から『中部日本新聞』となったことに伴い「三国志」は8月30日付までで連載打ち切りになっています。

同様に、『小樽新聞』では、北海道内11紙が統合されて昭和17年11月1日から『北海道新聞』となったことに伴い、10月31日付までで掲載終了しています。

ちょっと面白かったのは、『北海道新聞』には、白井喬二の「瑞穂太平記」という作品が掲載されていたことです。
統合初日の昭和17年11月1日に「今迄の梗概」が掲載され、11月3日~12月10日まで連載されました。
どうやら統合された11紙のうちのどれかに連載中だったこの作品を、完結目前だったので、統合後もそのまま引き続き掲載したもののようです(私の目的からは外れるので、この作品が元々はどの新聞に連載されていたのかは調べませんでした)。

統合された11紙にはそれぞれ連載中の小説があったはずですが、吉川英治ははじかれて、白井喬二が残った、その理由は残りの掲載予定期間の問題なのか、どうか。

どんな判断があったのでしょうね。

一方、『中部日本新聞』では、吉川英治の「三国志」が8月30日に打ち切られた後に、9月2日から白井喬二の「戦国志」の連載が始まっています。

『名古屋新聞』から『中部日本新聞』へと、継続して購読した読者は目を疑ったんじゃないでしょうか。
調査している私も、目が点になりました。

なにも、こんなタイトルの作品を掲載しなくても(笑)

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2016年7月15日 (金)

『台湾日日新報』(2)

一旦(1)(2)を飛ばして、(3)(4)から見てみます。

実は、(3)と(4)を合わせたものが、「親鸞」に該当します。

今まで調査不足で、「親鸞」が連載時に前編と後編に分かれていて、それも半年近くの間を空けて掲載されていたことに気づいていませんでした。
慌てて、日本本土での掲載紙である『名古屋新聞』を調べ直したところ、『台湾日日新報』とほぼ同時期に「親鸞聖人」「親鸞聖人 後編」として前後編に分けて掲載されていたことが確認できました。

ちなみに、作品のタイトルは単行本化に際して「親鸞聖人」から「親鸞」に改題されています。

当館には切り抜きが一部保存されているだけであったため、『台湾日日新報』での連載は、全体として「紙衣祖師」のタイトルで掲載されたものと思っていましたので、これも驚きでした。

「親鸞」の掲載紙の代表は『名古屋新聞』ですが、それ以外にもいくつかの地方紙に掲載されています。
例えば、当時、朝鮮半島の京城(現在のソウル)で発行されていた『京城日報』では、前編は「親鸞聖人」としながら、後編には別のタイトルが付されているという、『台湾日日新報』と同じパターンなのですが、そのタイトルは「愚禿頭巾」となっていました。
一方、『神戸新聞』では、なぜか前編の掲載が確認できず、後編のみが「愚禿親鸞」として連載されています。

なお、面白いのは、後編の掲載開始日です。

『名古屋新聞』が昭和11年1月19日なのに対して、『神戸新聞』は1月5日、『台湾日日新報』は1月7日、『京城日報』は1月10日で、『名古屋新聞』が著しく遅いのです。

これは推測ですが、直前に連載されていた藤井真澄「元寇」という作品が予定通りに完結しなかったのではないでしょうか。

配布地域が重ならないとはいえ、担当者はやきもきしたでしょうね。

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