2018年3月24日 (土)

絶筆「新・水滸伝」

では改めて、「最終回から見た吉川英治作品」に関連したお話しを。

昭和36年、吉川英治は二つの連載小説を執筆していました。
「新・水滸伝」(雑誌『日本』昭和33年1月号~)と「私本太平記」(『毎日新聞』昭和33年1月18日~)です。

人間はなぜ争うのか、人間の幸せとは何かを追求した「新・平家物語」に引き続き、人間を惑わせる権力の魔力とは何かを描こうとした「私本太平記」と、中国の古典として親しまれてきた活劇である「新・水滸伝」では、作品の性格が随分異なります。しかし、吉川英治にとっては、書き進むほどに人間の暗部へと入り込んでいかざるを得ない「私本太平記」と娯楽的な「新・水滸伝」を並行することが、気持ちを切り替え、心のバランスをとることにもなっていたようです。

この年の夏、体調を崩した吉川英治は、診察の結果、肺ガンと判明しますが、告知されなかったこともあり、「私本太平記」を書き終えるまではと、入院を拒みます。

「私本太平記」最終回の原稿は9月27日に軽井沢の別荘で書き上げ、すぐに毎日新聞の担当者に手渡されました(掲載は10月13日)。
2日後に軽井沢から赤坂の自宅に戻ると、さらに入院を延期して「新・水滸伝」の執筆にとりかかります。
10月2日の午前中に書き上げた原稿は、通常の1号分の原稿のおよそ半分である23枚で、末尾には読者へのお詫びが書かれていました。

「余儀なく今月は短章に終る。読者諸子の御寛恕を乞ふ。 作者」

その日の午後になって、ようやく入院した吉川英治でしたが、中途半端に終わった「新・水滸伝」の続きを気にして、病院を抜け出そうとします。
そこで妻の文子が苦渋の想いで肺ガンであることを打ち明けたことで、吉川英治は思いとどまり、手術を受け、療養することになります。
吉川英治はそのまま、この年の大晦日まで入院します。

その間に、入院前に書いた「新・水滸伝」第48回がが掲載された『日本』昭和36年12月号が発行されます。

大晦日に、半ば強引に退院した吉川英治は、明けて昭和37年は、自宅で療養を続けますが、「新・水滸伝」の続きを書くことはありませんでした。

昭和37年7月19日に再入院した吉川英治は、9月7日に世を去ります。

かくして「新・水滸伝」は、そのまま絶筆となりました。

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2018年3月 9日 (金)

不幸な最終回

吉川英治には、実は数多くの未完作品があります。

特に、昭和7年1月号をもって中絶した作品が複数あります。
これは、吉川英治が作家デビュー当初から懇意にしていた講談社の編集者が、会社から不当な扱いを受けたと吉川英治に訴えたため、義憤を感じた吉川英治が講談社に連載中の作品を全て中絶してしまったためです。後に、これは編集者の保身のための虚言とわかったのですが、あとの祭りでした。

特に、昭和4年10月号から雑誌『冨士』に長期連載していた「恋ぐるま」は、これからクライマックスというところで、中絶してしまいました。書籍化されてはいますが、実は未完なのです。

一方、戦時下の統制が生んだ打切りもあります。

「三国志」は、昭和14年8月から、複数の地方紙に連載されました。
しかし、連載途中の昭和17年に新聞統合が推し進められた結果、それに伴って「三国志」の連載を打ち切る新聞が
現れました。

『名古屋新聞』は、昭和17年9月1日付で『新愛知』と統合して『中部日本新聞』となりましたが、それに先立つ8月30日で「三国志」を打ち切りました。

『小樽新聞』は、北海道内で発行されていた11紙の統合により、昭和17年11月1日付で『北海道新聞』となったため、10月31日で「三国志」を打ち切っています。

両紙の読者にとっては、それぞれの日が「三国志」の最終回となってしまったことになります。

中心的な掲載紙『中外商業新報』が、経済紙11紙の統合によって『日本産業経済』(現在の『日本経済新聞』)となっても連載を継続したため「三国志」そのものは完結しましたが、状況によっては未完の作品となっていたかもしれません。

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2018年3月 7日 (水)

忘れられた「続坂東侠客陣」

さて、現在、常設展は「最終回で見る吉川英治作品」というテーマで展示を行っています。

それに関連するトピックを、これからいくつかご紹介していこうと思います。

まずは「続坂東侠客陣」について。

“吉川英治”は実は本名ではなく、ペンネームです(本名は英次)。
このペンネームを初めて使用した作品が、雑誌『キング』に連載した「剣難女難」と、『面白倶楽部』に連載した「坂東侠客陣」です。どちらも大正14年1月号から連載が始まりました。

さて、「坂東侠客陣」は大正15年2月号をもって最終回となりますが、その末尾には「次号より引続き 続坂東侠客陣連載!」と謳われています。そして

作者より――拙作『坂東侠客陣』は、ここに一先づ前篇了りの形をとります。為に、篇末『海行く坂東調』の一節は多少粗描早筆の痕あるを否まれません。深くお詫び致します。

との一文があります。
確かに、事態の収拾のためにこれから敵地に乗り込む、というところで話が終わっています。

次号より引続きと謳われている「続坂東侠客陣」は、実際には2ヶ月後の『面白倶楽部』大正15年4月号から連載が始まります。
「坂東侠客陣」のラストシーンから6年後の後日談が描かれますが、わずか5回、大正15年8月号で終了します。短いながらも、中絶ではなく、一応大団円ということになっています。
ほぼ登場人物のその後を描いたにとどまるこの作品は、分量からすれば単行本化の際に「坂東侠客陣」の末尾に加えても、問題のないようなものですが、結局、そうした形にはなりませんでした。
大正15年11月に刊行された「坂東侠客陣」の初版本は、大正15年2月号の「坂東侠客陣」のラストまでで、終わっています。

「続坂東侠客陣」は、蛇足といえば蛇足ではありますが、かくして連載後いかなる本にも収録されていない幻の作品となってしまいました。

ところで、吉川英治記念館で刊行している『吉川英治小説作品目録』では、「続坂東侠客陣」は抜け落ちています。

おそらく最初に調査した人たちが、「次号より連載って書いてあるけど、3月号には出てないから、結局書かなかったんじゃない?」と判断したのでしょう。
見落とされたまま今日に至ってしまいました。

しかし、今月中に『吉川英治小説作品目録 増補改訂版』を刊行することになりました。
そこには、この他にもいくつか見としていた作品が収録されています。

これについてはいずれ日を改めてご紹介します。

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2016年12月17日 (土)

墨田電話局慰霊碑

去る12月3日に文学散歩を行いました。

その立寄り先の一つが墨田電話局慰霊碑だったのですが、これについて調べ直しているうちに、自分がとんだ勘違いをしていたことに気が付きました。

どう勘違いしていたかは、まずこちらをお読みください。

その上で、改めて、この慰霊碑について書いてみます。

昭和20年(1945)3月10日未明、深川・本所・日本橋・浅草地区を中心に東京都心部の広範囲に対して空襲が行われました。
世界の空襲の中でも突出した死亡者数を数えた東京大空襲です。
その際に、墨田電話局も被災し全焼しましたが、職員はぎりぎりのところまで職場にとどまったため、男性職員3名、女性交換手28名が死亡しました。
交換手たちは、最後までブレストとよばれる受話器を身に着けたまま亡くなったと言われています。

同電話局では、大正12年(1923)の関東大震災の際にも、男性職員2名が犠牲となっていたため、この両者の慰霊と、悲劇の二度と起こらないことを祈願するため、墨田電話局の復興開局に合わせ、慰霊碑を建立することになりました。

吉川英治は、この東京大空襲で最初の妻・赤沢やすとの結婚時代に引き取った養女・園子を失っています。
女子挺身隊として動員されていた園子は、やすと共に都心に残っていました。
最後に確認されたのは、当時住んでいた浅草の自宅で、外出していたやすの帰宅を待つ姿でした。
そのまま園子は行方不明となり、ついにその消息は分かりませんでした。

吉川英治は、園子行方不明の連絡を受け、当時住んでいた吉野村(現吉川英治記念館)から連日上京して、園子の消息を訪ね歩きました。

その時のことを、梶井剛元電電公社総裁との対談(『電信電話』昭和32年6月号)で触れています。
園子を探し歩いてくたくたになった後、親交のあった秋山徳三の家に立ち寄ったところ、そこに来合わせた人物から墨田電話局の悲劇を聞かされたと言います。
そして、こう語っています。

それをききましてぼくは、ああ、そんなにまで純真なおとめたちがあったのに、ぼくの養女一人がみえなくなったからっていって、そう途方にくれたように幾日も探し歩いてもしようがない、たくさん、日本のいい娘たちが、そうして亡くなったんだから……と思って、ぼくもそこですっかりあきらめて、ついにその晩雪のなかを奥多摩へ帰ったことがありました。その話を、ぼくはいつまでも忘れかねるんですね。

吉川英治は、この対談が縁となって、昭和33年(1958)3月10日に行われた慰霊碑の除幕式に招かれます。

当時の吉川英治の秘書の日誌によると除幕式の3日後、電電公社の職員が来訪し、慰霊碑のそばに設置する由緒を記した碑文の撰文と揮毫を依頼します。
この日誌からは、依頼を受けた吉川英治が、半月以上の時間をかけて、何度も書き直して碑文を完成させたことが窺えます。

それが、以下の碑文です。

春秋の歩み文化の進展は その早さその恩恵に馴るゝ侭
つい吾人をして 過去の尊いものをも忘れしむる
こゝ百尺の浄地ハ 大正十二年九月一日関東大震災
殉職者二名と また過ぐる昭和二十年三月九日夜半
における大戦の大空襲下に 国を愛する清純と自
らの使命の為 ブレストも身に離たず 劫火のうち
に相擁して仆れた主事以下の男職員三名 ならびに
女子交換手二十八名が その崇高な殉職の死を 永遠と
なした跡である
当時の墨田分局 いま復興を一新して その竣工の慶を
茲に見るの日 想いをまた春草の下に垂れて かっての
可憐なる処女らや ほか諸霊にたいし 痛惜の
悼みを新にそゝがずにいられない
人々よ 日常機縁の間に ふとここに佇む折もあ
らば また何とぞ 一顧の歴史と 寸時の祈念
とを惜しませ給うな        吉川英治 謹選

ちなみに、リンク先のものは碑文の下書き。
完成したものとは骨格は同じながら、かなり異なることがわかります。
何度も書き直した跡がうかがえます。

それだけ、この碑文には思いがこもっているということでしょう。


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2016年10月 7日 (金)

恋と偽名

ところで、年若い池戸文子との交際には、吉川英治も気を使ったようで、交際から間もない時期に英治が文子に宛てたハガキは、差出人の名前が偽名になっています。

その偽名が“栄子”。
苗字は書かれていないので、ちょっとしたお遊びだったのかもしれませんが。

ただ、せっかく女性名に擬しておきながら、わざわざ“エイジ”とフリガナが振られています。

なぜだろうと不思議に思っていたのですが、実は文子の姉の名が“栄子”なのです。
差出人の名を半ば冗談で“栄子”と書いてから、このことを思い出したのではないかな、と私は思っています。

なかなか子供っぽい話です。

その一方、もうちょっと本気の偽名もあります。

それは、先日触れた逃避行の際のもの。

妻のやすの目を逃れての旅だったので、追跡されないように偽名を使っています。

最初に使った名が“山上弁三郎”なのですが、これは英治の母方の祖父の名です。

そんな身内の名を使って、やすに感づかれないのかと思ってしまいますが、諸々あって山上家とは疎遠だったので、やすもそこまでは知らないだろうと判断していたのでしょう。

その後、場所を移動して、吉川英治は長野県の上山田温泉に到ります。

そこでは“菊池一郎”を名乗っています。
先日書いたように、この時に同行していたのは<津の守芸者>の“一郎”こと、菊池慶子です。
彼女の苗字と芸者としての名前を組み合わせているわけですが、いかにも偽名くさい感じになっています。

作品の登場人物の名前に比べて、あまりセンスが感じられません(苦笑)

そのためか、この時にはちょっとした騒動を起こしています。

偽名で宿泊していたため、地元警察の事情聴取を受けてしまうのです。

身元の確認のため、この逃避行で多大な面倒をかけている正木徳三郎(十千棒)の妻・すてが、わざわざ東京から駆け付けています。

後日、そのことを詫びる手紙を送っていますが、その手紙からは、地元警察の対応に腹を立てていることが伺えます。

いや、それは、そもそも女房の目を逃れて偽名で宿泊したあなたが悪い(笑)

しかも、女性側からすると、罪な話でしょう。

要するに、“菊池一郎・慶子”夫妻として宿泊し、つかの間、夫婦気分にさせておいて、結局、吉川英治は家庭に戻るのですから。

以上で触れた書簡類も、今回の特集「吉川英治の恋」で展示しています。

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2016年10月 6日 (木)

吉川英治のもう一つの初恋

昨日までの4項目で、今回の特集「吉川英治の恋」は構成されているのですが、初恋については、先日ご紹介したのとは別の話を自叙伝「忘れ残りの記」以外の場所で、書いています。

『文藝春秋』昭和10年10月号に掲載された「女」という随筆(「草思堂随筆」所収)には、小学生時代の初恋が書かれています。
それではあまりに色気がない話なので、今回はスルーしたのですが、それは要約すると、こんな話です。

当時、数多く発行されていた読者投稿を主体とした文芸誌に、吉川英治は小学生ながら作文を投稿し、当選した。
その同じ雑誌に、近所に住む、同じ学校に通う女生徒も投稿していて、入選しているのを発見した。
彼女の作文を読んで、その女生徒が好きになり、用もないのに彼女の家の前を通ったりした。

私にも、同じような記憶があります。誰しも通る幼い恋の1ページでしょう。
しかし、吉川英治のこの初恋は、その後の境遇によって、かき消されてしまいます。

父親の事業上のトラブルから、家が傾き、小学校も卒業できないまま働きに出た吉川英治は、

友達がみんな中学へ入る頃、僕は職工服を着たり草履をはいたりしていたので、以前のように好きな女生徒の家の前は遠廻りをしても通らないようにしていたが、意地わるく、女学校の往復によく出会う。あわてて僕は横丁へかくれるのだった。それ以後は、恋愛に対して、自分は、卑屈になっていたようである。

そして、こう書いています。

僕には恋愛らしい恋愛はない。青春とよぶような時代には、惨憺たる一家の計を負っていたから、恋愛をしている暇がなく通ってしまったし、その責任を果たしかけてどうかなりかけると、今の文学の方へ、わき眼もふらないで入ってしまったからである。

しかし、これが最初の妻・やすとの婚姻中の昭和10年に書かれていることを思うと、ちょっとどうなのかという気にもなります。
やすにすれば、私は何なんだという話ですよね。
既に夫婦としては破綻していたとは言え。

そして、再婚する池戸文子と出会うのは、この頃のこと。
そうなると、文子との交際は、吉川英治にとっては初めての恋愛らしい恋愛ということになるのでしょうか。

ちなみに、昨日の文章では触れなかったので、念のため書いておきますが、吉川英治は明治25年(1892)生まれで、昭和10年(1935)には43歳。
池戸文子は大正9年(1920)生まれで、昭和10年には15歳です。

果たせなかった初恋をやり直しているような気持ちだったのでしょうか。

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2016年10月 5日 (水)

池戸文子との出会い

やすとの関係がすっかり冷え切っていた昭和10年、吉川英治は一人の少女に出会います。それが当時15歳だった池戸文子です。

彫刻家である父・末吉の二女である文子は、尋常小学校を卒業すると家計を支えるため働き初め、英治と出会った時は銀座の河豚料理屋に勤めていました。
その後、別の料亭に勤め出した文子が、英治を知る客に対し、「吉川先生にはお目にかかったことがございます。よろしくおっしゃってください」と話したところ、しばらくして英治がその店に通うようになりました。

幼くして母を亡くし、身体の弱い父に代わって家計を支える文子の姿は、英治に同じような苦労を重ねたかつての自分を思い起こさせたのかもしれません。また、汚れのない少女のたたずまいに、安らぎを感じてもいたでしょう。

やがて、二人は店の外でも会うようになり、英治は文子を故郷の横浜や村山貯水池、湯河原などに連れて行きました。

昭和12年、英治はやすと離婚します。作家生活と家庭生活の乖離を、ついに埋めることはできませんでした。所有資産のほとんどをやすに譲ったのは、貧しい時代を支えてくれたことへの感謝も込められていたでしょう。

同年、文子は父・末吉を亡くします。そして、同年末、英治は文子を入籍します。

文子は、英治が作家活動に集中出来るように気を配り、また、家庭生活でも二男二女をもうけるなど、充実させました。
文子を得て、英治の作家生活と家庭生活は融合し、そのことは以後の文業に影響を与えていきます。

吉川文学の完成に、文子の存在は不可欠だったと言えるでしょう。

(これは現在開催中の特集「吉川英治の恋」の解説です)

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2016年10月 4日 (火)

逃避行

妻・やすとの関係が最悪であった昭和5年。
この頃の英治は、文壇でも“恐妻家”として有名になっていました。

そんな時、英治は自ら随筆にも書いたひとつの事件を起こします。“津の守芸者”との1年にわたる“逃避行”です。

英治の書くところによれば、こうなります。

ある夜、英治が飲み過ぎて、酔い覚ましの休憩のために四谷の待合に立ち寄った際、なじみの芸妓に家まで車で送ってもらったものを、やすに見咎められます。
やすのいつまでも続く叱責と癇癪に耐えかねた英治は、自宅での執筆活動をあきらめ、やすと距離を置くために家出をし、各地の旅館を転々としながら執筆活動をすることを選びます。
そこに、この騒動の原因は自分であると思い込んだ芸妓が押し掛けてきたため、そのままズルズルと行動を共にすることになりました。

問題の芸妓は店での名は一郎、本名は菊池慶子と言いました。

この逃避行に関わる書簡が英治の川柳家時代の兄貴分で、信頼を寄せていた正木十千棒の元に残っていました。英治は、この逃避行の際、出版社や家族との連絡を正木に頼んでいたため、残ったものです。

書簡によると、原稿料の受け渡しを菊池慶子に任せるなど、英治が身の回りのことについて、彼女をあてにしていた部分が伺えます。
その一方で、文学のためにやすと距離を置いたつもりが、別の女性を招き入れてしまったことに対して

茨の花曲がった道も茨の花

と自虐するような句を書いています。

結局、英治は、およそ一年後に自宅に戻り、菊池慶子との関係は、ごたついたものの、解消されます。

(これは現在開催中の特集「吉川英治の恋」の解説です)

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2016年10月 3日 (月)

最初の妻・赤沢やす

東京に出てきて、すぐに川柳家・井上剣花坊の柳樽寺川柳会の同人となった吉川英治は、川柳の世界に多くの友人を得ます。
そのうちの一人の親戚が吉原の分武蔵という待合を経営していたため、英治はその店に川柳仲間たちとよく集まって、遊んでいました。

そこに芸妓として出ていたのが赤沢やすで、江戸の畳職人の娘でした。英治26歳頃、やす22歳頃のことです。
小粋で気風が良く、英治曰く「目のさめそうにきれい」な女性であったやすと英治は、すぐに魅かれあい付き合い始めます。
当時の英治は、輸出用の金属象嵌製品の製造販売を行っていましたが、第一次世界大戦後の不況で苦境に立たされていました。
そんな英治を、やすは経済的にも支えました。

やすが日本が租借していた大連へ出稼ぎに行き、英治自身も商売上の苦境を打開するため、やすの後を追って大連に出かけるということもありました。

やすは英治の母・いくにも気に入られ、弟・妹たちには慕われていましたが、二人が正式に入籍したのは両親死後の大正12年8月8日でした。

それから1ヶ月と経たずに、関東大震災が発生。
それを契機に、文学の意義深さを感じた吉川英治は作家となります。

しかし、それとともに、二人の間はぎくしゃくし始めます。
作家として精進を目指すと同時に、やすにも文化的な向上心を期待する英治と、水商売的な気質の抜けないやす。
そこに生まれた溝を埋めるために、子供のいなかった二人は養子を迎えるなどの努力をしましたが、それも限界となり、昭和12年に離婚することとなります。

(これは現在開催中の特集「吉川英治の恋」の解説です)

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2016年10月 2日 (日)

吉川英治の初恋

吉川英治が作家になるまでの若い日々をつづった“四半自叙伝”である『忘れ残りの記』。

私たちが青少年期を回顧する時、恋愛というものは大きな位置を占めるものです。しかし、『忘れ残りの記』の中には、恋愛話は登場しません。
父親の事業の失敗に伴い、小学校を卒業することすら許されずに、家計のために世に出なければならなかった吉川英治には、恋をする余裕もなかったのでしょう。

ただ、ひとつだけ、恋のようなエピソードが語られています。

吉川英治は、18歳の時に苦学の決意で、郷里の横浜から東京に出てきます。そして、紹介を受けて浅草三筋町の蒔絵師の元に住み込みで弟子入りします。
蒔絵師の自宅兼工房は四軒長屋の1軒でした。
その長屋の別の1軒に住む、造花の製造を行っている一家に、娘がいました。「紙人形のように薄手で弱そうな子」と英治が評するその娘に対し、心動かされたものの、ついに一言の口をきくこともないまま、娘の姿が長屋から消えます。
娘は上方の花柳界から舞妓に出たのでした。
しかし、娘はまもなく急死してしまいます。
娘の兄から、娘が死ぬ前に何度も自分の名を口にした、と聞かされた英治は、それを「終生の悔いである」と書いています。

(これは現在開催中の特集「吉川英治の恋」についての解説です)

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