2017年3月11日 (土)

あの日、あの時

あの日のことを思い出してみる。

「地震の後」

深刻な被害などなかった場所で、あの日どうしていたかなど、いまさら誰も伝えないし、振り返りもしない。
その意味ではこんな文章でも書いておいてよかったと思う。

しかし、あの日、いま思えば結構な数の来館者がいた。
その後梅が全伐採され、客足も遠のいた。

まだたった6年しか経っていないのに、様々な意味で、遠い昔のようだ。

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2017年2月27日 (月)

熊本の又八、岡山の又八

熊本県がこんなPR動画を制作したそうです。

「くまもと移住前夜・宮本武蔵」

いきなり登場しますが、本位田又八は吉川英治が創作した人物ですからね(笑)

もう著作権は切れていますが、実在しないことだけはご承知おき下さい。

ちなみに、まだ著作権が切れていなかった頃に、当時の岡山県大原町(現美作市)が、町内を通る智頭急行の駅名を「宮本武蔵」駅にして、駅前に少年時代のたけぞう・お通・又八の銅像を設置したことがありました。
そこで、たけぞうはともかく、お通と又八は吉川英治の創作した人物なので、勝手に作っては困りますという連絡をしたことがあります。

この時は事後承諾することになった上、それがきっかけで武蔵資料館で吉川英治展を開催することにもなりました。

縁は異なものです。

しかし、作品の発表から80年以上経っているのに、武蔵には又八をセットにしないと気が済まない人がいるということは、それだけの影響力が吉川「武蔵」にはあったということです。
すごい。

昨年末、九州新幹線の車内から熊本を景色を眺めましたが、まだ屋根をブルシートで覆った家が散見されました。

動画の最後にもありましたが、復興を祈っています。

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2017年1月14日 (土)

Samurai Movies

あけましておめでとうございます。
というのも、もう時季外れですが。

ちょっとYou Tubeを見ていたら、こんな動画を見つけました。

https://www.youtube.com/watch?v=_5OeN123S2k

“Top 10 Samurai Movies”だそうです。

5位に、“Samurai Trilogy”として、「宮本武蔵」三部作が入っています。

昭和29年から31年にかけて、監督・稲垣浩、主演・三船敏郎で映画化されたもの。
「宮本武蔵」、「続宮本武蔵 一乗寺の決闘」、「決闘巌流島」の三部作です。
制作は東宝。
小次郎が鶴田浩二で、お通は八千草薫でした。

英語のナレーションの中でも、第1作がアカデミー外国語映画賞を受賞したことが出てきます。

ちなみに、日本語のタイトルで順位を並べると、

1位=「七人の侍」
2位=「用心棒」
3位=「切腹」
4位=「侍」
5位=「宮本武蔵」三部作
6位=「十三人の刺客」(2010年)
7位=「上意討ち 拝領妻始末」
8位=「蜘蛛巣城」
9位=「たそがれ清兵衛」
10位=「子連れ狼 死に風に向かう乳母車」

「宮本武蔵」が三部作で出て来るなら、「子連れ狼」もシリーズにすればいいのにと思いますが、海外では全部は公開されていないのかもしれません。

日本人が評価すると、かなり異なるのでしょうか。
ちょっと興味深いところです。

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2016年11月 9日 (水)

お電話へのお答え

先程、このブログについてお電話をいただきました。

珍しいこともあるものだと思ったのですが、その内容は、先日書いた「文アル」という記事が、「文アル」を貶めていて不快だ、というものでした。

意表を突かれて、対応がつっけんどんになったかもしれないと思い、考えていることをちょっと書いてみます。

上記リンク先の文章が、「文アル」を軽く揶揄していることは否定しません。
しかし、だからダメだとは一言も言っていません。

通常“です・ます調”で書いている文章の中に、「誰だよ、こいつ(笑)」などという砕けた表現を入れたのを、馬鹿にしていると感じたのかもしれません。

しかし、そもそも、その前に書いた「文スト」という記事を読んでもらえば、実在の作家をキャラクター化することに、私が否定的ではないことはわかるはずです。

私は、吉川英治の親族ではありませんし、吉川英治の没後に生まれていますので、実際の吉川英治に会ったことはありませんが、吉川英治記念館の学芸員として、多少は吉川英治の実像を知っているつもりです。

現実の吉川英治は、20歳の徴兵検査で丙種と判定されてしまうような小柄な男性で、作品の性質から武道をたしなんでいるようなイメージがありますが、実際にはほとんど武道の経験はありません。
しかし、それでいて激情家で、声を荒げて人を一喝するような側面もありました。
そうかと思えば、最初の妻との結婚生活では、妻の癇癪から逃げ回る恐妻家として知られていました。
また、二度目の妻との間にできた長男・次男・長女には厳父として接していながら、晩年になって生まれた次女に対しては、周りがあきれるほど甘やかしたという話も残っています。

そういう実際の姿と、ゲームキャラクターとしてのイメージの間の乖離を笑ったまでのこと。

それを「貶めている」と言われても、「そんな大袈裟なことですか?」としか言いようがありません。

逆に、「文アル」をやらない人の中には、実像からかけ離れたキャラクター設定を、その作家に対する冒涜と感じ、不快に思う人もいるはずです。

そして、私は、別に不快には思わないけれども、笑えるという評価をくだしたまでのことです。

そこは人間の多様性というものでしょう。
ひとつのことに対して、全ての人が同じ評価を下すようなことはあり得ないし、そんな世の中はむしろ最悪です。

あらゆる物事に対して、批判はあって当然です。

その意味では、私の記事に対する批判だってあって当然なわけで、その意味では、今回のお電話も、至極当たり前なことと言えるでしょう。
できれば、ブログのことは、ブログのコメント欄への書き込みにしてもらえると助かるのに、とは思いましたが。

とは言え、ちょっとナイーブ過ぎないでしょうか?
「私はこれが好き!」という信念があれば、人の評価は関係ないと思うのですが。

それに、私が、このブログで「文アル」を笑ったからって、それで「文アル」の評価が変わったり、売り上げが落ちたりはしないと思いますしね。

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2016年11月 3日 (木)

梅の写真展

ところで、例年会場を提供してきた青梅アートジャムですが、今回は要望がなかったので、会場とはなっていません。

青梅アートジャムの今回のテーマは「梅に捧げる」というものです。
9月17日から11月13日までという長い会期の中で、青梅市立美術館でのメイン展示と並行して、青梅市立美術館市民ギャラリーを使って、10日間程度の企画も行うという構成になっています。

その企画の最後のものとして、本日から11月13日(日)まで「梅の小品展・梅の写真展・ワークショップ作品展」が開催されます。
で、この「梅の写真展」ですが、一般に対して写真を募集していましたので、私も応募してみました。

かつて、吉川英治記念館の庭園を彩っていた梅。
プラム・ポックス・ウィルス対策のため、1本残らず伐採されてしまった梅。

記念館に勤め始めてから、折に触れて撮りためておいたそれらの梅の写真を、この機会に皆様に見ていただきたいと思い、応募してみたところ、青梅アートジャム事務局から展示しますという連絡をいただきました。

というわけで、私の素人写真が、いま青梅市立美術館市民ギャラリーに飾られています。
こんなことでもないと、アーティストでもない私の写真が美術館に展示されることなどありえません。

すごいね(笑)

ただ、見ていただきたいのは、かつての梅に囲まれた吉川英治記念館の姿です。

先日、限定的に梅の再植樹が許可され、“青梅市梅の公園”などに、来春までに梅が新たに植えられることが決まりました。
ただ、許可されたのは青梅市梅郷・和田町の両地区のみ。
吉川英治記念館のある柚木町は、今回の許可地域に含まれていません。
いつならば再植樹が許されるのかの目途も立っていません。

せめて、かつての姿を見ていただいて、いつかまた梅に埋め尽くされる日に思いを馳せていただけたらと思っています。

ということなので、写真の良し悪しは問わないで下さいね(苦笑)

厚かましくも12枚も送りつけたのですが、そのうちの1枚をここで。
プラム・ポックス・ウィルス対策で、最初に伐採された紅梅の花びらが、地面に散っているさまです。

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2016年10月29日 (土)

文アル

先日、「文豪ストレイドッグス」は横浜を舞台にしているのに、横浜出身である吉川英治は出てこない、ということを書きました。

そうしたところ、今度、「文豪とアルケミスト」というゲームが発売されるという記事に出合いました。
そして、そこには吉川英治も登場すると書かれていました。

この「文アル」自体は「文スト」のヒットを受けて企画されたものなのでしょう。
<二匹目のドジョウ>感が漂ってきますが、まあ、それはともかく。

吉川英治のビジュアルが10月下旬に発表されるというので、注目していたのですが、こんなお姿でした。

誰だよ、こいつ(笑)

私のような血のつながりのない者はともかくとして、親族の方はどう感じるのでしょうかね。

ちなみに、こんなことを書いてもいいのか分かりませんが、かなり昔、記念館に関係のある人が、酒の席で「吉川英治は人間としては立派だが、見た目はそう大した男じゃない」と口にしたところ、故文子夫人が大変ご立腹になったという話を耳にしたことがあります。
私はその場にいなかったので、実際はどんな様子だったのかわかりませんが、これが本当だとすると、文子夫人の眼には吉川英治は“イケメン”に映っていたのかもしれません。

とは言え、上記のような姿ではないと思いますが(笑)

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2016年10月22日 (土)

赤川次郎さん

本日、「赤川次郎さんを囲むひととき」が無事に開催されました。

定員50名で募集しましたが、定員を超える応募があったため、枠を拡大して75名で開催しました。
それでも落選となった皆さん、申し訳ありませんでした。

せめて内容をご紹介、と思ったのですが、実は、今回の講演内容は講談社が発行する『IN☆POCKET(インポケット)』の11月15日発売号に掲載されることになっていますので、ぜひご購読ください。

というだけでは、ケチ臭いので、感想かたがた、少しだけ内容に触れると、私の予想とは違い、自分の作品の創作の裏側というような話はほとんどなく、古典文学、それも海外のものを読むことの重要性について、穏やかな口調ながら、熱く語られました。

そもそも赤川さんの読書遍歴が、そうした古典中心であったことなど、ファンというわけではない私にはとても意外でした。
いや、来場されたファンの方でも、意外そうな顔をしている人が見受けられました。

その読書遍歴から、なぜ「三毛猫ホームズ」?

ということでしょう。

詳しいことは、『IN☆POCKET』で(笑)

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2016年10月18日 (火)

ドイツ語版「新・平家物語」

昨年、こんなことがありました。

今日、今度は「新・平家物語」をドイツ語訳した方が、ご来館になりました。

日本人ですが、ドイツに住み、同地の製薬会社に勤務し、現在はドイツ国籍になっておられる方です。
日本で勤務していた時に」新・平家物語」に出会い、これを翻訳しようという志を持たれたのが1990年代のこと。
それから長い時間をかけて翻訳し、定年退職した後になって、ようやく刊行にこぎ着けたとのことで、その第1巻をご持参くださいました。

決して文学に造詣があるわけでも、翻訳のプロでもない方ですが、ドイツ人の夫人の助言も得て、コツコツ翻訳されたようです。

上記のリンクでも触れたように、「新・平家物語」はまだ完訳されていませんが、このドイツ語版は日本語からの完訳で、既に原稿は出来上がっているとのこと。
これから2年ほどかけて全12巻を刊行するとのことでした。

スペイン語版より先に完結するかな?

ちなみに、オンデマンド出版だそうです。
合わせて電子版も発売されるということです。

無事に完結することを楽しみにしています。

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2016年10月 8日 (土)

磯貝十郎左衛門

アクセス解析を見ると、このところ、このページへのアクセスが増えています。

どうやら、現在、放送中のドラマが、そのページで取り上げたエピソードを軸に置いた作品だからのようです。

ドラマの原作は諸田玲子さんの「四十八人目の忠臣」。

諸田玲子さんは平成15年度第24回吉川英治文学新人賞を「其の一日」で受賞されています。

また、10年前の2006年9月2日には、吉川英治賞40周年記念として開催した「吉川英治賞受賞作家と語るひととき」の講演者の一人として、吉川英治記念館の母屋でお話しいただきました。

このイベントは、今は「○○さんを囲むひととき」と名を変えて、存続しています。

今年は吉川英治文学賞受賞者の赤川次郎さんにお願いしています。

既に募集定員を超える応募が来ていますが、応募締め切りまでには、まだ数日ありますので、ご興味のある方は応募してみてください。

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2016年10月 5日 (水)

池戸文子との出会い

やすとの関係がすっかり冷え切っていた昭和10年、吉川英治は一人の少女に出会います。それが当時15歳だった池戸文子です。

彫刻家である父・末吉の二女である文子は、尋常小学校を卒業すると家計を支えるため働き初め、英治と出会った時は銀座の河豚料理屋に勤めていました。
その後、別の料亭に勤め出した文子が、英治を知る客に対し、「吉川先生にはお目にかかったことがございます。よろしくおっしゃってください」と話したところ、しばらくして英治がその店に通うようになりました。

幼くして母を亡くし、身体の弱い父に代わって家計を支える文子の姿は、英治に同じような苦労を重ねたかつての自分を思い起こさせたのかもしれません。また、汚れのない少女のたたずまいに、安らぎを感じてもいたでしょう。

やがて、二人は店の外でも会うようになり、英治は文子を故郷の横浜や村山貯水池、湯河原などに連れて行きました。

昭和12年、英治はやすと離婚します。作家生活と家庭生活の乖離を、ついに埋めることはできませんでした。所有資産のほとんどをやすに譲ったのは、貧しい時代を支えてくれたことへの感謝も込められていたでしょう。

同年、文子は父・末吉を亡くします。そして、同年末、英治は文子を入籍します。

文子は、英治が作家活動に集中出来るように気を配り、また、家庭生活でも二男二女をもうけるなど、充実させました。
文子を得て、英治の作家生活と家庭生活は融合し、そのことは以後の文業に影響を与えていきます。

吉川文学の完成に、文子の存在は不可欠だったと言えるでしょう。

(これは現在開催中の特集「吉川英治の恋」の解説です)

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