2018年4月 8日 (日)

足利紀行―その3

さて、緑町配水池のあるのは小高い丘の上ですが、その丘を渡良瀬川方向に降りたところに草雲美術館があります。

P4022426

ここは、南画家・田崎草雲の作品を展示している美術館です。
田崎草雲は、足利藩の江戸藩邸で文化12年(1815)に生まれ、明治31年に足利で84年の生涯を閉じました。

吉川英治にはこの田崎草雲を主人公とした「田崎草雲とその子」(別題「田崎草雲とその妻」)という短編作品があります(『文藝春秋』昭和7年夏季増刊号掲載)。

江戸で貧しい絵師をしていた時代を中心に、草雲の生い立ちや同時代の文化人との交流などを描いていますが、肝となるのは、貧しい時代を共に耐えてきた妻の菊が、発狂して死に至るエピソードと、尊王の志を持つ草雲が足利藩内の意志を勤王に統一していく一方で、草雲の息子の恪太郎が佐幕に走り、維新を迎えて自害して果てるエピソードです。

ちなみに、『文藝春秋』掲載時の挿絵は田崎草雲の弟子である小室翆雲が描いています。

その田崎草雲が、明治11年から暮らしたのが白石山房でした。

草雲美術館、足利市在住の鈴木栄太郎が、昭和43年に私費を投じて、その白石山房の敷地に建設し、足利市に寄付したものです。

吉川英治は、美術館になる前の白石山房を訪ねたことになります。
その写真がこちら。

580221_5

実は、私が訪ねたのは定休日の月曜だったので、外からしか眺められず、同じアングルからは写真が撮れませんでしたが、裏から見るとこんな感じでした。

P4022396

そして、最後に向ったのは、足利市の超有名スポット、渡良瀬橋です。

吉川英治が訪れた時の写真を見ると、トラスの終りから橋の欄干の終りまでの間に、少し間があります。このことから、これが橋の南詰であることがわかります。
つまり、市街地の対岸から足利の地を眺めたということです。

580221_7

今は橋の上流側に人道橋が設置され、車と人は分けられています。

P4022455

P4022464

これで、私の足利市滞在時間は、およそ4時間。
吉川英治も、大体この程度の滞在時間だったはず。
もっとも、私は徒歩で、吉川英治は車だったので、もう少し時間に余裕はあったと思いますが。

これで、吉川英治の短時間の足利視察に合わせた(?)、私の足利紀行も終わります。

| | コメント (0)

2018年4月 7日 (土)

足利紀行―その2

次に鑁阿寺に移動しました。

吉川英治は「筆間茶話」で、

まず鑁阿寺を訪ねた。足利市の街中である。濠は旧態をのこしているが、古図に見える林泉や大杉は面影もない。多宝塔そのほかの諸堂も荒れている。住職山越氏の住む階上に、国宝の宋窯花瓶やら尊氏自筆の古文書などが、からくも無事をえている有様だった。

と、当時の様子を描写しています。
「筆間茶話」では、この後に住職の言葉が語られますが、それは要するに、明治維新後、日本を支配した皇国史観の中では、足利尊氏は逆賊と扱われたため、中央政府から保護を受ける機会がなかったということです。
文中にはありませんが、この時、吉川英治は鑁阿寺に、

雪山春不遠

との書を残していきました。

その鑁阿寺での写真はこんなものです。

580221_2

窓の形から、経堂であろうと思われます。

P4022298

私が訪ねた時は、ちょうど桜が満開で、吉川英治が感じたような荒廃は見えませんでした。

P4022284

P4022303

P4022311

さて、次に訪ねた場所がここです。

580221_11

写真の裏には「足利市展望台から足利の地勢を見る」とあります。

580221_10

写真に写っている石碑には、2枚の写真から「聖上御展望之處」とあるのがわかります。
つまり、天皇が周囲を眺めた場所、ということになります。それも、おそらくは昭和天皇が。

ここはどこでしょうか?

足利市に昭和天皇がいつ何のために行幸したのか。
それは昭和9年に行われた陸軍特別大演習です。
昭和9年11月に北関東で大規模な軍事演習が行われ、その後、群馬県・栃木県の主要都市に行幸しています。
これを記録した「行幸記念写真帖」(昭和9年12月30日 立見屋)の中に、「足利市水道配水池ヨリ市中御展望」という写真が掲載されています。

この場所はどこなのか。
それは水道山記念館のある緑町配水場です。

通常非公開となっているため、敷地内には入れませんでしたが、柵越しに問題の石碑と思われるものが見えました。

P4022355

あのあたりに昭和天皇が立ち、そして吉川英治も立っていたわけです。

感動しました。

| | コメント (0)

2018年4月 6日 (金)

足利紀行―その1

今週初めに、群馬・栃木県境あたりに私用で出かけたので、そのついでに足利市を訪ねてきました。
その目的は、吉川英治が訪れた場所を訪ねることです。

吉川英治は、「私本太平記」の連載開始(『毎日新聞』昭和33年1月18日から)直後の昭和33年2月21日に、足利の視察に出かけています。
新聞連載の合間に挟み込んだ「筆間茶話」という随想の昭和33年3月3日掲載分で、足利市内の鑁阿寺、足利学校、白石山房に立ち寄り、桐生・太田をまわって帰宅したことが書かれています。

そこにも書かれていますが、これは日帰りの旅でした。
秘書の残した業務日誌によると、「午前八時、毎日新聞社の車で足利視察に出発。文子夫人、杉本健吉、松本昭(注:毎日新聞社の担当編集者)同行。午後六時過帰宅。」とあります。
高速道路もなく、未舗装道路も多かった当時、片道3~4時間を要したのではないかと推測すると、足利市内の滞在時間はほんの3時間程度だったことになります。

その時に撮影された写真が残っているのですが、その内容から見て、上記の3ヶ所の他にあと2ヶ所に立ち寄っているらしいことがわかります。後日ご紹介しますが、1ヶ所はとても有名なあの場所、もう1か所は、今回色々と調べて見つけました。
5ヶ所立寄ったとすると、移動時間を考えれば、1ヶ所に20~30分程度の滞在だったことになります。

その5ヶ所を巡ってみようというのが、今回の目的です。

吉川英治がまず訪ねたのは鑁阿寺ですが、私は両毛線足利駅から向かったので、まず足利学校に立ち寄ります。

足利学校は平成2年に、建物や庭園を江戸時代中期の姿に復元しました。
実は、その翌平成3年に放送されたのが、吉川英治原作の大河ドラマ「太平記」でした。
絶妙なタイミングですが、足利学校の保存整備事業は昭和56年に着手されているので、偶然でしょう(何か足利市からの働きかけはあったかもしれませんが)。

当然、吉川英治が訪れた時と現在では建物が変ってしまっています。

そこで、足利学校の職員の方に声をおかけしたところ、所長の大澤伸啓氏にご対応いただきました。

580221_3

まずこの写真ですが、写っているのは「字降松」で、背後の建物は当時この場所に存在した東小学校の校舎であろうとのこと。
足利学校のパンフレットの年表によると、足利学校の建物の一部が明治6年に小学校となり、明治9年に小学校の校舎が新設されています。

P4022268

こちらは現在の「字降松」。実はもう何代目だかの松で、吉川英治が見たものとは違う木になっているとのこと。

「筆間茶話」には

足利学校の訪う人もない庭梅と、宋版の国宝古書籍の真新しさなどは忘れがたい。昔、文盲の領民が、なにか読めない文字があると、紙キレにに書いて、門前の小松に結いつけておき、翌朝を待つと、それにフリ仮名と解釈が付いていたという言い伝えのある“字降松”はホホ笑ましい。以て当時の学校なるものの在り方も、よく読める

と書いています。

先程の写真の背景が東小学校ならば、この写真もそうではないかと、私は推測しますが、こちらについては断言はされませんでした。

580221_4


| | コメント (0)

2014年1月24日 (金)

続々横浜散歩(2)

この東福寺赤門前の清水町の家は、吉川英治の恵まれた幼少時代が暗転した場所でもあります。

桟橋会社の共同経営によって羽振りの良かった父親の直広は、自宅を改装して≪みどり屋雑貨店≫を起し、英治に商売の練習をさせようとしました。
その父の思いとは裏腹に、英治は中学校への進学を夢見ていました。
そんな暮らしが父親の訴訟沙汰で破綻し、小学校を中退して奉公に出されてしまうことになります(奉公に出された先は、以前触れました)。

その後、英治がその奉公先にいるうちに、残された家族は清水町の家を引払い、転居します。
それが今回足を運んだもう一ヶ所、西戸部蓮池という場所です。
現在は戸部町です。

奉公先で店主の不興を買い家に帰されてしまった英治は、母親の手紙により、奉公に出ている間に転居したことだけは知っているものの、それまで一度も見たことのなかった実家の姿をこんな風に書いています。

 字蓮池という所は、伊勢山から紅葉坂の反対側の方を西へだらだら降りて行って、中途から狭い横道をまた右へ降りきった一劃の窪地であった。藪やら古い池の残痕やらを繞って安ッぽい借家がぼつぼつ建て混み初めて来たといった風な場末であった。その一軒の格子先に、紛うなきわが家の表札を見つけたとき、ぼくはこれがわが家かと疑った。そしておずおずと足を踏み入れるばかりな狭い土間の中へ入ってまず奥を覗いた。
 家はたった三間ほどであった。以前の家庭にあったような家具や飾りは何一つ見当たらない。父の姿も見えなかった。奥の六畳にまだおむつの要る妹が蒲団にころがってい、狭い裏庭の外に物干竿へ洗い物を懸けている母の後ろ姿があった。(略)

実際にその蓮池と推定される場所に立ってみると、英治が描写するように、確かに低地です。
写真の道路を見ると一目瞭然です。
Dscn1252

Dscn1251

「父の姿も見えなかった」とあるのは、父親が投獄されていたからで、そのため困窮していた吉川家は、この蓮池の家の家賃が払えず、間もなく同じ西戸部の別の家に転居することになります。

「忘れ残りの記」の記述を追いかけてみると、一時的に羽振りが良くなった時期に関内の尾上町に転居した他は、以後数年間、西戸部の一帯で転居を繰返しています。
吉川英治にとって、貧困に喘いだ少年時代のその舞台は、この西戸部だったということになるでしょう。

古い西戸部という地名は、ぼくの頭には飢餓の辻みたいな印象を今ものこしている。尾上町から越した先は、また西戸部だった。家賃も物価も安く周りも同格者ばかりなので、貧乏がしよいのである。

そう書き残しています。

ふと見上げるとランドマークタワーが見えました。
ランドマークタワーは元横浜ドックです。
Dscn1246

吉川英治が横浜ドックで働き始めた頃の住まいは、やはり西戸部でした。
ここらあたりから、あのランドマークタワーの足元まで働きに行っていたのだと思うと、感慨深いものがあります。

西戸部での逸話はまだ多くありますが、今回は時間も余力もなくなってきたので、かつての蓮池を訪ねるにとどめました。

| | コメント (0)

2014年1月23日 (木)

続々横浜散歩(1)

今年の6月に文学散歩を行う予定です。
今回は吉川英治の出身地である横浜を歩く企画を立てています。

先日、その立ち寄り先とルートの確認のための下見に行ってきました。
そのついでに、以前の2度の横浜探訪(これこれ)で足を運ばなかった場所2ケ所に行ってみました。
ちなみに、この2ヶ所は企画中の文学散歩のルートには入っていません。

まずひとつが東福寺。山門が赤く塗られていることから“赤門”の通称があります。
Dscn1221

 家が、南太田の赤門前に引越したのは、ぼくが九歳の秋頃である。南太田尋常高等小学校へ転校した。こんどの学校は、家からも近く、駈け足でゆけば二分か三分だった。赤門前というのはその辺の俗称で、正しくは、横浜市南太田清水町一番地と書いた。
(「忘れ残りの記」より。以下同じ)

吉川英治の『自筆年譜』によれば、明治34年(1901)から明治38年(1905)まで吉川家のあった場所が、この東福寺赤門前であったということになります。
ただ、吉川英治は住所を≪清水町一番地≫としていますが、その頃、“吉川英次(英治の本名)”の名が雑誌『少年』明治37年9月号の投稿欄に出ており(これが活字で確認できる最初のものです)、そこでは住所が≪横浜市清水町4≫となっています。
雑誌の誤植の可能性もありますが、ただ、横浜時代の吉川英治について調査した「吉川英治と明治の横浜――自伝小説『忘れ残りの記』を解剖する」(横浜近代文学研究会1989年1月30日 株式会社白楽)は、吉川英治が記述する≪清水町一番地≫は、≪清水町四番地≫と考えた方が条件を満たすことを論じています。
ということは、吉川英治の記憶違いなのでしょう。
なお、現在の住所は赤門町です。

写真の奥に見えるのが東福寺の赤門で、門前の通りの向って右側の表通り沿いの一角がかつての清水町4番地になります。
Dscn1229

英治が描く街の情景はこんな感じ。

 いとも閑静な、そして小さな町で、清水町は一番地から四番地までしかないのである。戸数も何軒と数えられるようなその真四角な住宅地の周りを、西北の戸部山や久保山から流れてくるきれいな小川が繞っていて、どの家の門にも、その家だけの小さな橋が架かっていた。
 ぼくの家は、赤門とよぶ寺の山門通りに面した角地であった。だから家の横にも前にも、その清冽な水が繞っていた。(略)
 家の前は広い三叉路で、北へいくと、鉄温泉とよぶ鉱泉宿があった。南には、すぐ南太田小学校の校舎が望まれ、普門院というお寺やら、英町、霞町などという静かな町並の生垣がつづき、もすこし行くと初音町に出る。そこまで出ると、かなり賑やかで、角に大きな乾物問屋があった。(略)

訪ねてみると、確かに閑静な住宅街の雰囲気がありますが、今は自動車の交通量の多い通りに面しているので、風情は全くありません。
その通りを渡ったところに太田尋常高等小学校はありました。
英治は≪南太田尋常高等小学校≫としていますが、南が付かないのが正しいようです。
写真のガソリンスタンドのある一帯がその跡地です。
Dscn1227

この太田尋常高等小学校に通った作家がもう一人います。
大佛次郎です。
大佛次郎(本名・野尻清彦)は、上記の英治の文中にもある英町で明治30年(1897)に生れています。
明治37年(1904)に太田尋常高等小学校に入学するも、10日ほど通っただけで東京に引越してしまったそうです。

吉川英治の清水町の家と、大佛次郎の英町の家は歩いてものの1分程度の距離です。
今は赤門病院のある辺りが大佛次郎の生家跡のようです。

しかし、この時代には両者に接点はなかったようです。
吉川英治は明治25年(1892)生れで5歳年長であった上、家の没落から明治36年(1903)には他家に奉公に出されたりしていますので、それも無理からぬことでしょう。

「忘れ残りの記」では、大佛次郎と近所だった話は出てきませんが、他の著名人として「山本安英さんの生家もこの清水町だった」「それと、もひとりその頃の著名人として伊藤痴遊の家が、ぼくの家から広い三叉路をへだてた向かい側にあった」と書いています。

| | コメント (0)

2012年11月13日 (火)

中之条町訪問

昨日、中之条町を訪問しました。
先日ご紹介した中之条町歴史と民俗の博物館で開催中の新井洞巌展を見学するためです。

中之条町歴史と民俗の博物館は、旧吾妻第三小学校の建物を利用した施設です。
Dscn0171

数年前に増築された新館がこの写真の右側にあり、そちらで企画展を開催し、校舎では常設展示が行なわれていました。

さて、新井洞巌展ですが、当館からお貸しした掛け軸が1本展示されているほか、交流のあった人物として吉川英治のコーナーも設けられていました。
ちなみに、もう一人コーナーを設けられていたのは安岡正篤です。

当館からは「霜柯翡翠図」と「山居深趣図」をお貸ししていますが、会期を前半と後半に分けて交代で展示しているので、現在は「霜柯翡翠図」が展示されています(上のリンク先で書いた掛け替えの情報は間違っていました、すみません)。

興味深かったのは、「霜柯翡翠図」は翡翠、すなわちカワセミを描いたものなのですが、数多い展示作品のうち、鳥獣を描いたものはこれ1点のみで、あとはほとんど山水画だったことです。
してみると、これは珍品に属するものということになります。
ひょっとして、吉川英治が所蔵していた宮本武蔵画「蓮池翡翠図」とつながりがあるのだろうかと、想像してみたくなります。

さて、中之条町に足を運んだ理由が、もうひとつありました。

吉川英治の書いた短編「石を耕す男」の舞台が、中之条町なのです。

博物館の方に、作中に登場する旅館・鍋屋まで案内していただきました。
Dscn0182

既に旅館は廃業しているとのことですが、ここは高野長英が脱獄後に身を隠した場所のひとつでもあるそうです。

これは、JR吾妻線の郷原駅に停車中の列車の窓から撮った岩櫃山。
ここにあった岩櫃城も、作中に登場します。
Dscn0200

作品については、明日ご紹介します。

| | コメント (0)

2012年6月 6日 (水)

小倉・門司散歩――4年後のおまけ

現在の北九州市立文学館の館長は今川英子氏ですが、先代の館長は作家の佐木隆三氏でした。

その佐木隆三氏が「吉川英治歴史時代文庫80 神州天馬侠(三)」の巻末にこんな文章を寄せています。

 ところで昭和四十九年暮れ、わたしは講談社の“カンヅメ”になった。地下鉄の赤坂見附から、青山通りを上って、カナダ大使館の角を曲ったあたり、御屋敷街である。そこに赤坂別館があって、小説家が何人かこもっていた。広い庭に面した座敷をあてがわれ、わたしは落着けない。
「どういう由来の建物ですか?」
「旧吉川英治邸です」
 それを聞いて、体が震えた。(以下略)

この頃、吉川英治の赤坂新坂町の家は、講談社が管理し、講談社の赤坂別館として、佐木隆三氏が経験したように執筆者を、いわゆる“カンヅメ”にして原稿を書かせる場所として利用されていました。

吉川英治は昭和37年に亡くなっていますが、昭和40年代になると、英治の子供たちは、就職や結婚で独立していき、英治本人もいないので秘書や書生、お手伝いさんも不要となり、文子夫人としては、家が広すぎて落着かない感じになっていたのでしょう。
そこで文子夫人は近くのマンションに引っ越し、残された屋敷を講談社に任せたようです。

なお、その後、この屋敷は吉川英治記念館の候補地のひとつとなりましたが、結局、記念館は青梅(吉野村)の屋敷に建設されたこともあり、いまは処分されて現存していません。
吉川英治が生前、ただ1ヶ所、自分の意思で建てた家がこの赤坂新坂町の家だったのですが、もったいない話です。

ちなみに、佐木隆三氏の文章の続きによると、「復讐するは我にあり」を書くためにカンヅメしたはずが、結局、「吉川英治文庫」を買ってきて、予定の10日間そればかり読みふけっていたそうです。

北九州とは関係がありませんが、おまけの話にさらにおまけ。

2010年に館内の企画展として「吉川英治の家族と家」という展示を行いました。
この企画展で、佐木隆三氏がカンヅメにされた赤坂新坂町の家の表札を展示していました。
少し白っぽくなっていて、文字もほとんど消えかかっているいるという代物なのですが、それをご覧になった吉川英治の次女・香屋子さんが、こんな思い出話をしてくれました。

赤坂表町の屋敷の塀にいたずら書きをされたことがあった。
業者を頼んで消してもらうことにしたが、消すのは難しいので、上からペンキを塗り直すことになった。
すると、この業者がいい加減な業者で、表札までペンキで白く塗りつぶしてしまった。
そうと気づいて慌ててペンキを拭き取ったが、一緒に元の文字も消えてしまった。

そんな話でした。

このことを文子夫人は大変残念がっていたそうです。

今となっては存在しない屋敷のかすかな痕跡に、そんな事があったとは、私も残念です。

| | コメント (0)

2012年6月 5日 (火)

小倉・門司散歩――意外な出会い

巌流島から船で門司港に戻ると、今度はJR門司港駅から鉄道で西小倉まで移動し、松本清張記念館に向います。

受付で、「吉川英治記念館の者ですが、館長さんはおいでになりますか?」と声をかけました。
まあ、無料で入館しようというケチな了見で声をかけたのですが、現われた藤井康栄館長が吉川家と関わりのある方だったので、驚いてしまいました。
というのも、藤井館長はかつて文藝春秋社にお勤めで、吉川英治の没後、その百か日にあわせて刊行された「わたしの吉川英治―その書簡と追憶」という本の編集担当者で、赤坂新坂町の吉川邸にも何度も足を運んでいたと言うのです。

ケチくさい根性で声をかけた私は恐縮していまいましたが、吉川英明館長にとっては懐かしい思いを抱かせる邂逅だったようです。

ちなみに、現行の吉川英治賞になって最初の吉川英治文学賞の受賞者は松本清張です。
その贈呈式の写真が館内に展示されていました。
そこには今年で7回忌になる吉川文子夫人が一緒に写っていました。
46年前のその写真を見ている吉川館長の姿は、とても感慨深げでした。

さて、今回の吉川英治没後50年展の企画段階で、「北九州と吉川英治」というコーナーを設けるということで、色々と思案したのですが、吉川英治と関わりのある北九州出身の作家となると、この松本清張と火野葦平くらいしか思い浮かばず、とりあえずこの2人との関係と、2度の取材旅行のことを中心に構成しました。

ところが、いざ北九州にやって来て、そこで北九州市立文学館の今川英子館長から、私がすっかり見落としていたもう1人の作家の話をご教示いただきました。

「富島松五郎伝」の作者、岩下俊作です。
「富島松五郎伝」というよりは「無法松の一生」という方が通りがいいでしょう。

今川館長の話では、2度も直木賞候補になりながら受賞を逃した「富島松五郎伝」を、選考委員であった吉川英治が惜しみ、雑誌『オール読物』に掲載するよう働きかけたうえに、推薦文まで書いた、それが岩田豊雄の目にとまり、それが文学座での舞台化のきっかけとなり、以後の映画化に結びついた、全ての出発点は吉川英治である、と言うことでした。

ご指摘を受けて帰京後に調べてみると、「吉川英治全集」の月報38に岩下俊作による「三十年の心の負担」という文章が掲載されており、全ては吉川英治の推薦文がきっかけだったのに自分は礼状も書かず、会える機会はあったのに会うこともせず、そのまま吉川英治は世を去ってしまい、深い後悔の念を抱いている、という内容のことが書かれていました。

私も見落としていましたが、吉川館長もこの文章の存在を忘れており、今川館長の説明を聞いて驚いていました。

翌21日、展覧会が開幕し、吉川英明による記念講演が行なわれました。
その後、北九州市立文学館の方々と会食をしたのですが、今川館長の計らいで、その席に岩下俊作のご子息である八田昂氏も同席なさいました。

吉川館長は大学卒業後、NHKに就職して記者をしていた時代があるのですが、八田氏もNHKで同時代に記者をしていたとのことで、これもまた、不思議な縁を感じさせる邂逅となりました。

私よりも吉川館長にとって心揺さぶられる旅になったようです。


| | コメント (0)

2012年6月 4日 (月)

小倉・門司散歩――4年ぶりの小倉

これまた、更新を怠っているうちに、北九州市立文学館での「没後50年記念 読み継がれる吉川英治文学――巌流島決闘から400年――」展も始まってしまいました。

始まってしまいましたも何も、4月21日~7月1日の会期ですから、もう半分過ぎています(苦笑)

さて、この展覧会の開幕に合わせ、4月20・21日の両日、北九州市を訪ねました。
2008年の全国文学館協議会の部会以来、およそ4年ぶりのことです。
今回は私1人ではなく、4月21日に記念講演をすることになっている吉川英明館長夫妻と、財団事務局のY女史の合計4人。

4月20日には特に行事はないので、ゆかりの地などを訪ねてみようという話になっていたのですが、結局、足を運んだのは巌流島と松本清張記念館の2ヶ所だけでした。

まず足を運んだのは巌流島。
私は4年前に来た時には、時間がなくて上陸していません。

昼食の後、タクシーを呼んでもらって、巌流島行きの連絡船が出る門司港に向います。

「門司港の巌流島行きの船の出る桟橋まで」と運転手に告げると、「それどこですか?」との答え。
旅行者に聞き返されても、説明の仕様もありません。
運転手はケータイで会社に電話して場所を聞いています。

巌流島に行きたいから門司港まで行ってくれ、という客はほとんどいないんでしょうかね?

途中車窓にそれらしき島が見えたので「あれが巌流島ですか?」と尋ねてみても、「いやぁ、よくわかりません」。

小倉の人は巌流島に興味が無いのでしょうか。

それでも無事到着して、船で巌流島に向います。

門司港からは15分ほどで巌流島に到着。
帰りの船の時間との兼ね合いで、滞在できる時間は30分ほど。

しかし、こんな感じで島も小さく、さして見る場所もないので、それで十分です。
Ganryu_01

ぶらぶら歩いていくと明治43年に建てられた佐々木小次郎の碑があります。
Ganryu_02

その近くに、昭和61年に建てられた村上元三の「佐々木小次郎」から抜粋した文章の刻まれた碑もあります。
Ganryu_03

平べったい島の中で少し小高くなっているところがあり、そこに宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の銅像があります。平成15年の建立で、その年の大河ドラマ「武蔵」の出演者が除幕式をやったという報道を見た記憶があります。
Ganryu_05

この写真は関門海峡を背景にしたものですが、右が門司、左が下関側になります。

そばに、この銅像とともに設置された碑がありますが、どういうものだか、吉川英治の「宮本武蔵」は無視されています。
記載された年表には吉川英治の「宮本武蔵」執筆の項目はなく、大河ドラマ「武蔵」に触れながら原作者の名はなく、決闘の場面を描いた文章は「二天記」と村上元三の「佐々木小次郎」からの引用です。
碑の中に石井鶴三の描いた決闘の場面の挿絵が使用されており、そこにわずかに「六興出版『吉川英治 挿絵名作集』より」とありますが、それだけです。

下関市(碑の設置者)は何か吉川英治に恨みでもあるのでしょうか(笑)

丘の上から銅像の反対側に眼を向けると、人工の砂浜があり、そこに1艘の船が。
Ganryu_04

どうやら武蔵が乗って来た船、ということのようです。

もっとも、勝者である武蔵は船に乗って島を去っていますから、これがここにあってはいかんのではないかという気はしますが。


| | コメント (0)

2010年1月29日 (金)

萩散歩――剣花坊句碑巡り(編外)

松陰神社と言えば吉田松陰ですが、吉川英治は「歴史上の人物あれこれ」(初出:『オール読物』昭和28年2月号)という随筆(談話筆記)の中で吉田松陰に触れています。
そこでは、戦時中によく吉田松陰を書いてくれという人がいたが自分は書かなかった、とした上で、その理由として松陰を、およそこんなふうに評しています。

吉田松陰は「異常な一種の天才」であり、松下村塾から人材を輩出したことは偉大だが、30歳の若さで死んだ松陰の学問は、儒学の先鋭的な部分だけで、その奥にある「大人の学問」としての部分に達していない。

つまり、純粋だが頭でっかちで柔軟さに欠ける人物、ということでしょうか。

だから、「その人を現代に小説として再生させることには不安がある」し、「時代によっては危険」なので、読者への影響を考えると、書く気になれない、ということのようです。

ところが、実は吉川英治は吉田松陰を主人公とした小説を書いています。

それは「小説維新外史」。
雑誌『維新』の昭和9年11月号(創刊号)から10年5月号まで(10年3月号は休載)6回にわたって掲載された作品です。

なじみのない作品だと思いますが、それもそのはず、この作品は未完のまま中絶し、以後単行本などになることもなかった作品なのです。

吉川英治はこの作品のことを忘れていたのでしょうか。
それとも、戦前と戦後で松陰への評価が変わったので、なかったことにしたのでしょうか。

「小説維新外史」は、奈良の五條に住む森田節斎を訪ね、節斎につきあって岸和田まで旅するというところで中絶しています。
その間、節斎と松陰はさまざまに議論を重ねるのですが、その中で、節斎が松陰を批判して

「すべて、学問したやつはだめぢやよ、口ばかり小賢しうても、ろくなことはできはせん」

と言い放つ場面があります。
その点で戦後に示した“松陰”観に近いものがあるようにも思えます。

ただ、いかんせん未完なので、最終的な落とし所がどこにあったのか、松陰をどう評価しようとしたのか、知る由もありません。

というところで、萩の旅はおしまいということにします。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧